「誰もが自閉症の時代」500ページの夢の束 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
誰もが自閉症の時代
世の中に、自閉症ではないが、少なからず自閉症気味であると自覚している人は、かなりいると思う。実はその人たちは既に自閉症なのである。
他人とのコミュニケーションをなるべく避けたいのが自閉症だ。避けたい理由はたくさんあるが、根底にあるのは恐怖心である。他人は何をするかわからない。前を歩いている人が急に振り返って襲いかかってくるかもしれないし、走って来る自動車がいきなり歩道に乗り上げてくるかもしれない。こちらの歩き方がおかしいとか、顔が不細工だとか、着ているものがセンスがないとか安物だとか言われて嘲笑されるかもしれない。体や口が臭いと避けられるかもしれないし、存在そのものが邪魔だと嫌われるかもしれない。
兎に角、一歩外に出ればろくなことはないと思ったり、会社や学校に行きたくないと思ったりする人は、他人との関わりをなるべく避けたい人で、それはとりもなおさず自閉症なのである。そう考えれば自閉症の人は相当な人数になり、もはや病気ではなく症状のひとつとするのが適当だ。
人と関わり合うのが苦手だと生きていくのに苦労するのは確かである。だから世の中の親たちや教育者は子供のコミュニケーション能力を高めるのに余念がない。コミュニケーション能力が収入の多寡に影響することを実感しているからどうしてもそうなってしまう。
ところで、歴史上最もコミュニケーション能力が高かった有名人は誰か。言うまでもなくそれはアドルフ・ヒトラーである。その類い稀な能力で人心を掌握し、世界中を巻き込んで人類を不幸に陥れた。ヒトラーのコミュニケーション能力は、最終的には人を屈服させて他国民やユダヤ人を虐殺させるまでに至った。
世の中にはヒトラーほどではないにしろ、他人の恐怖心につけこんで服従させるミニヒトラーがたくさんいる。おのずから社会は自閉症傾向になってしまうのだ。
自閉症は疾病ではなく人間の個性のひとつだと考えて、そういう人も生きやすいように世の中のほうを変えるべきだというふうに、考え方の転換を図る訳にはいかないものだろうか。自閉症は他人事ではないのだ。
さて、本作品の主人公は誰が見ても自閉症である。施設の担当者は例に洩れず、社会に適合できるようにルールを教え、規則正しい生活を強制する。そのやり方が本人に幸せをもたらすのかどうか、映画は鋭く問いかける。
問題は自閉症にあるのではない。不寛容な社会のありようそのものにあるのだ。主人公は不寛容な世の中にあって、誰を恨むこともなく、勇気を振り絞って歩いていく。もはや彼女には誰の助けも必要ない。
社会の役に立つことが人間の大きなモチベーションであることは間違いないが、人間は必ずしも社会の役に立つために生まれてくるのではない。社会の役に立つか立たないか、それはつまり生産性があるかないかという判断になるが、社会に対する生産性とは無関係に人間の根源的な人格を認め合うことが、ヒトラー化しつつある傾向を食い止めることになる。