「価値観の交錯」GODZILLA 星を喰う者 純さんの映画レビュー(感想・評価)
価値観の交錯
GODZILLA三部作をすべて拝見しました。一番面白かったのが、私にとってはこの三作目になります。難しい内容もあったので、レビューを書いて頭を整理し、映画の後味を楽しんでみたいと思います。
三作のなかでは、地球人類、ビルサルド、フツア、エクシフという4つの立場が出てきましたが、それぞれがゴジラへの向き合い方に関して、異なる価値観(あるいは常識)を抱いていたように思います。『決戦機動増殖都市』でもそうでしたが、『星を喰う者』ではハルオの視点を中心に、これら4つの価値観が交錯していました。
[地球人類(ハルオ)の価値観]
ハルオは「諦めたらそこで終わりだろ!」と、『怪獣惑星』の冒頭、移住船に乗り込んだお爺さんに訴えかけていました。ゴジラに故郷を追われ、孤独にゴジラ打倒の研究し続けてきたハルオにとって、ゴジラ打倒とは、22年に及ぶ漂流生活という状況のなかで失われた「人間性の誇り」、「人としての尊厳」を回復するための手段でした。だからこそ、生きることやゴジラ打倒への諦めは、「尊厳」の放棄であり屈辱を意味しました。ゴジラ打倒に対して地球人類は一枚岩だったわけではありませんが(リーランドは当初「名誉」のためにゴジラに挑んでいました)、ゴジラ打倒に対するハルオの価値観(「人間性の誇り」や「尊厳」を回復しなければならないということ)は、地球人類のそれを代表するものでしょう。
[ビルサルド(ガルグ)の価値観]
ゴジラ打倒に関して地球人類とともに積極的だったのはビルサルドでした。三作目における中央委員会の会議で、ドルドが「我々は共通の敵と戦っていたのではなかったのか!?」と叫んでいたように、地球上での人類種の生存圏域の回復という点で、両者は目的を共有していました。
しかし、ビルサルド(の代表者ガルグ)にとって、ゴジラとは「地球文明の偉業」であり、それを制御できなかったことが地球人類の失敗でした。「怪獣とは人の手で倒せないから怪獣」なのであって、ゴジラを倒すためには「非効率的なもの」(怒りや悲しみという感情、身体)を捨て、人ならざるものにならねばならない。人としての尊厳を回復したいという地球人類(ハルオ)と、人を超えねばならないというビルサルド(ガルグ)の間で、価値観の決定的な食い違いが土壇場で起こり、結果、『星を喰う者』まで尾を引くことになりました。
(それにしても、22年もの間、共同生活をしていながら、このような基本的な文化的交流すらなかったのはどうしてなのか、少し疑問です)。
[フツア(マイナ、ミアナ)の価値観]
ヴァルチャーによる体当たりでゴジラを倒せていたかもしれないのに、「人間性」への固執のためにその手段(機械との融合、ビルサルドの価値観を受け容れること)を選べず、そして、自分の決断(の遅さ?)のせいで自分自身ではなくタニ曹長を失い、「脱走扱い」となって「身の置き場もない」、そんなハルオに触れたのが、フツア(マイナ)の価値観でした。「私達は勝ってここに居る。勝ちとは生き残ること、命をつなぐこと。負けとは死ぬこと、消え去ること、ゴジラに挑むこと」。
「ゴジラは怖い」とミアナは言いましたが、ゴジラへの怖れとは、ちょうど竜巻や稲妻のように、適切な方法で以ってやり過ごすことのできる自然現象への怖れと同じでした。故にフツアにとってのゴジラとは、地球上で共存することが可能な存在であり、それ以外の何ものでもありませんでした。
映画では直接描かれていなかったので、ここからはあくまで私見ですが、この価値観がハルオに与えた衝撃はどれほどのものだったでしょうか。地球は2万年の間に、植物も動物もゴジラとの間に類縁関係をもち、すべての生物は「ゴジラに奉仕する(ゴジラの生存に都合のよい環境を整える?)」という生態系が出来上がっていました。宇宙に逃げのび、22年の間故郷を追われた惨めさに堪え続けた地球人類からみれば、2万年もの間、地球において生き延びた地球人類(≒フツア)は、なんと不幸な人々でしょうか。同じように文明を失った被害者であり、ゴジラの生きる厳しい環境で生きざるを得ない奴隷的状況を生きていたはずでした。
ところが実際には、フツアは奴隷としての惨めさとゴジラへの憎しみに燃えるルサンチマンではありませんでした。むしろ逆に、畏怖(畏敬の念)を以ってゴジラとの適切な緊張関係を保ち、ただ単に「生き残り、命を繋」ぐことを善しとしてきました。高度な文明の残り香を漂わせた人型種族から見れば、「そのような原始的生活は知性をもった人類としては下等であり、動物的ですらある」とか、「フツアのような生き方はゴジラからの逃避であって、人間の尊厳の放棄に他ならない」と見えたかもしれません(ビルサルドは言わずもがな、一作目のハルオもこのように考えたかもしれません)。確かにフツアは原始的であり、ゴジラから逃避しているのですが、だからと言って不自由なのではない。ゴジラの干渉を受けない程度の文明を保ち、奴隷的でもなく、まして地上の君主たろうとゴジラに対抗しようとしているのでもありませんでした。
ゴジラが近場に出現した場合、フツアは穴倉に息を殺してこもらざるを得ないのかもしれません。そのとき、フツアの民はいわば外出する自由や生存への自由を制限されていると言えるでしょう。しかし、私達が台風や洪水に見舞われて家に籠る、ないし避難するとき、自然災害によって私たちの自由は制限を受けるのですが、決して侵害されているわけではありません。もし侵害されているというのなら、台風や洪水を罰する法律を文明の中で生きる人間は整備しなければならなくなるでしょう。したがって、台風や洪水を法律の許に従属せしめねばならない。しかし、自然現象には人間のような人格(理性、個としての意識)はおそらくありませんから、人間の法律で罰することなどできませんし、まして、自然現象を支配し尽くす方法を人間は持ち得ません(おそらくそのはずです)。フツアにとってゴジラはいわば自然災害と同じであって、支配と従属、自由と侵害という文明的な言葉で説明するのは適当ではありません。単純な感想になりますが、フツアは、文明の楔から解放されて、あるがままを生きているように私には見えます(もちろん、その代償もあるでしょうが)。22年の間、ゴジラへの怨恨にただ燃え続けていたハルオが、この2万年の価値観に触れられた時の衝撃はどれほどだったか、推し量るに余りあるでしょう。
[エクシフ(メトフィエス)の価値観]
メトフィエスは、これまでと打って変わって表立って行動していました。彼にとってゴジラとは、端的に「飽くなき繁栄を求める傲慢への罰」でした。ところでメトフィエスによれば、人類の歴史的展開は「自らの滅び(ゴジラ)と向き合うための巡礼(準備期間?)だった」と言われます。このような歴史観が生まれる背景には、エクシフの宗教的(数学的?)洞察があります。つまり、「永遠は存在しない、宇宙は有限、全ては滅び消えていく。命とは恐怖の連続、恐怖からの解放と永久の安息は理性の宿願」というものです。
メトフィエスはさらにスープの比喩を用いて、「理性の宿願」を叶える方法とは「献身」(偉大なものとの一体化)と言います。人間は思考し、自ら献身の相手を選べる。個としての執着を捨て去り、自ら選んだ(実際には教導者によって選ばされている)相手と一体化することが唯一の「祝福」(救済)である、というのがエクシフの教義でした。
メトフィエスはハルオに入れ込んでいましたが、結局ゴジラをゴジラたらしめるものとはハルオ(地球人類の歴史全体を背負い総括する英雄)の憎しみであって、その憎しみの虜となっているハルオをギドラへ帰依させる(祈らせる)ことが出来れば、地球人類全体を救済することが出来るという狙いだったのでしょう。(このあたりになると、少々話についていくのが難しくなってきました。なぜハルオの憎しみがゴジラの本質なのか、なぜハルオが人類全体を代表する「英雄」と見立てられているのか、よく分かりませんでした。)
エクシフの教義は、一見理に適って見えます。理性をもつものは絶え間ない恐怖に苛まれる以上、恐怖を克服するのは、自分以上の存在と一体化することである。これは魅力的な教義に見えますが、しかし、その教義を生み出す前提の宗教的洞察には、矛盾が隠れています。永遠は存在せず、宇宙は有限で、全ては滅びゆくというのならば、どうして「滅びのさらにその果てに安息と栄光を見出すしかない」と言えるのでしょうか。滅んでしまえばそれで終わりなのですから、「さらにその果て」などというものは存在し得ず、「安息を求める」主体(魂、意識、理性)などというものも存在し得ません。メトフィエスの言う「祝福」「安息」とは、結局、生命を破壊し理性の苦しみを強制的に止めればいいだけであって、わざわざ形而上的な神(ギドラ)が必要とされる必然など、全くありません。さらに、ゴジラもギドラも、実際にやっていることは同じく、爛熟した文明の破壊であり、「祝福」や「滅亡」とは人間が勝手に拵えた事情であって、怪獣たちには何ら関係ありません。劇中に出てきたゲマトリア演算とはどういうものかは分かりませんが、メトフィエスは、魂の不死と永遠について、数学的帰結に頼らず、もっと哲学的に思索するべきでした。教義全体の徹底さが欠けていたために、なぜギドラを頑なに「祝福」と言うのか私には理解できず、鑑賞中に混乱してしまいました。
結局、ハルオは自分の名前(存在?)の由来(春:命のよみがえる季節)の記憶にたどり着き、メトフィエスが齎そうとしている「祝福」と詐称しただけの単なる滅亡(冬)を脱し、「俺たちの過ちに慰めなんかない!」として、メトフィエスを退けます。メトフィエスは「悲しみも苦しみも、生きとし生けるものすべてに課せられる呪いだ。故に、その命ある限り、ギドラはお前を見ているぞ」という言葉を最期に残して、息絶えます。
[価値観の逆転、もしくは変容]
さて、ハルオ(地球人類)の命ある限りハルオを見ているギドラという存在とは、一体何なのでしょうか。マーティン博士は、タニ曹長の身体からナノメタルのサンプルを回収し、それを材料にヴァルチャーを修理してしまいます。ビルサルドのようにナノメタルを制御できれば、人類はまた地上に繁栄できる。高度な技術文明の可能性が開けたとき、「そうとも、繁栄を求める飽くなき向上は人の性。そしてまた、収穫(破滅)の時は必ず来る」というメトフィエスの声が、ハルオの存在へと語りかけます。ここでギドラは、別の宇宙に住む単なる怪獣ではなく、虚ろで不確かな、しかし影のように確かに人間の傍に居る存在、人間のあり方の(宿命的な?)可能性へとシフトしています。劇中の言葉では、象徴的に「虚空の王」と呼ばれていましたが、何らかの点でニヒリズムと関連するのでしょう。私にはこれ以上のことは分かりません。
タニ曹長と共にヴァルチャーへ乗りこんだハルオは、おそらく過去の人類と同じ轍をフツアの民に踏ませないために、ヴァルチャーごとゴジラへと突っ込み、文明の痕跡(ヴァルチャ―とタニ曹長の身体)をゴジラに破壊し尽くさせます。ハルオはゴジラへの憎しみに燃えたまま突撃するのですが、フツワにとって自殺は「負け」を意味しますので、ミアナはハルオを止めようとします。すると、「ただ勝ち続けるだけの命なら、獣と一緒だ。でも俺たちは、いざとなったら負け戦だって選ぶこともできる」と言います。これまでハルオにとって「勝ち」こそ、人類の尊厳の回復でした。ですが最後には、ハルオの価値観は逆転しています。ここでは「負け」こそが人類の尊厳の回復なのです。なぜこうした価値観の逆転は起こったのでしょうか。仮に逆転でないとしても、ゴジラを憎みつつも、ゴジラに文明が滅ぼされても構わない、否、滅ぼされねばならないという変容をハルオに齎したものは、一体何だったのでしょうか。この点についても、これ以上のことは分かりません。
分からないところは若干残りますが、大変、面白い映画でした。
とても共感しました、他の方が言うほど糞映画か?、超兵器とSFこそ強めの作品ですがむしろゴジラ映画として赴き?(語彙力無くてすいません)があるどちらかと言うと初代・シンゴジラと続けられるようなテーマの強いゴジラゴジラしてた映画だったのですが。
やっぱり実写で怪獣プロレスないと駄目なんですかね(😞💨)
それはそれで嫌いじゃないのですが。