「息子を持つすべての父親に献げる」読まれなかった小説 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
息子を持つすべての父親に献げる
奇跡も、成功も、そして大穴もない。それが人生。
「野生の梨の木」、
シナンが書いた初めての小説だ。
トルコの世界遺産の街で、青年は観光ガイドでも伝説の英雄譚でもなくちょっと風変わりな本を書いた。
なんの変哲もない市井の人々の、庶民の暮らしをだ。
長い映画だが、ついつい引き込まれてしまって、実は借りたDVDで3回も繰り返して観てしまったほどだ。
「読まれなかった小説」、これは仲々良い邦題ではないだろうか。
この本、母親も妹も中途で読むことをやめた。また置いてもらった街の書店でもただの一冊も売れなかった。
無理もない。
自分の生まれ育った街の、親戚や知り合いの会話をわざわざ活字で読んでも、それは彼女たち、そしてこの街の住民たちにとっては興味をもって取り上げるべきものでもなく、ドラマ性からは最も遠い、=つまり、ありふれた退屈な日常だからだ。
(息子が書いた本よりも、テレビのメロドラマに夢中になるのがこの街なのであり、シナンの家族だったのだ)。
しかし、鑑賞後に解る。シナンは庶民こそ、そしてわが家族こそ物語の主人公であり“英雄”だと思っている。
はすに構えて、鬱屈したこの青年は、自己を取り巻く全ての存在への、否定と肯定をしたためたのだ。
映画を観ていると、彼の本の「目次」が浮かんで見えてくるようだった。
恋人、友人、宗教家、街の名士、祖父母たち、出会うひと、出会うひと・・それぞれの単元で目次と台詞が刻まれていったのだろう。
言うなれば
この映画こそがこの小説「野生の梨の木」の映像化だったのだと思う。
兵役から帰ったシナンは、顔つきが違う。
夢を追い、夢に追いつけない我が父に、初めて同性として、挫折を知る者として心が触れた再会だ。
父の隠れ家で、寒風に吹かれて座る二人のシーンがクライマックス。
父親が本の内容について思いもかけない肯定的な感想を語ってくれるあそこだ。
―「私のことを書いた箇所もあったな」
―「ひどい書かれようだがしかたない」
―「若者は老人を批判するものだ、そうやって前進する」。
父の声に
シナンの表情が安堵にほどける。
若気の至りを、遠く想い出して、こそばゆく感じた鑑賞者は僕だけではないだろう。
息子に否定されている苦しい日々の父親たちも、かつての自身と父親との軋轢の日を振り返ったはずだ。
井戸掘りは挫折し、水は出なかった。しかし息子は思いもしなかった水脈を掘り当てたようだ。
・・・・・・・・・・・
間に合うか
まだ間に合うか
井戸を掘る