「我が高校の世界史の教師がそう言う人だった。縄文文化を優しい話で解釈...」縄文にハマる人々 マサシさんの映画レビュー(感想・評価)
我が高校の世界史の教師がそう言う人だった。縄文文化を優しい話で解釈...
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我が高校の世界史の教師がそう言う人だった。縄文文化を優しい話で解釈していなかった。当該映画でも語っているアイヌ文化や琉球文化やネイティブアメリカンやアボリジニの文化どの類似性と、彼らに対するナショナリズムの鼓舞であった。しかし、その恩師との出会いの前に僕は『コンチキ号の冒険』と言う実験漂流のノンフィクションを小学校5年生の時に読んで、日本の海洋文化に純粋にハマっていた。所が、そこへかなり偏った考えを持った教師との出合いが重なってしまったのだ。その頃は反ベトナム戦争や黒人の公民権運動の広がりがあって、アメリカンサブカルチャー運動へと発展する中、日本でもその動きは割と浸透していた。だから、僕も違和感なくその考え方に同調したと記憶する。だがしかし、ある事件がその終わりを告げた。若い人達には想いもつかない事件があったのだ。残念な事だが結果として、その行為が日本の古来のナショナリズムを抹消してしまったと僕は定義付けている。
それはさておき、縄文の紋様を理解しがたいとしているが、スラブ系のキリスト教文化であるイコン文化を考えて見れば分かると思う。つまり、絵は全て記号として表されている。その流れが縄文にもあろうかと思う。ユダヤ、イスラム、キリストの様に偶像崇拝を否定的にとらえている宗教感がある。僕は縄文文化も似たような所があったような気がする。そこへ大陸からの文化が渡来する。六世紀には偶像崇拝そのものの仏教まで伝来する。同じ様な文化は南米、メキシコの文化にもあって理解しがたい文化になってしまっている。要は神様の捉え方が今とは全然違う。そこに理解しがたい壁を生んでいると僕は断言する。
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