劇場公開日 2018年4月14日

「メタファーの難しさ」心と体と R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 メタファーの難しさ

2025年8月12日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

2018年ハンガリーの作品
非常にメタファーで解釈が難しい作品
物語は屠殺場の財務責任者のエンドレと、出産休暇の代替としてやってきたマリアの物語となっている。
屠殺の瞬間は映像にないが、その直後の映像は見る人に大きな影響を与えるのは間違いない。
そしてそれらのことがあって我々は肉を食べることができる。
牛という生き物が肉というモノに変えられる瞬間があの場所
エンドレは面接に着た若者に「憐れみを感じないならば、この仕事は不向きだ」というが、確かに正気を保っているのは難しい気がする。
この場所をモチーフにしたのは、これが人間社会の仕組みで、最も酷な場所であって、心を閉ざさなければならないことで、加えてその延長線上にいる人間は少なからずその影響を受け続け、心や体が壊れてしまうという暗示なのかもしれない。
左腕が不自由なエンドレ
心が不自由なマリア
マリアは人との身体的接触を極端に避け、感情表現も非常に抑制している。
彼女は自閉スペクトラム症に近く、感覚過敏や社会的コミュニケーションの困難さがある。
彼女が手を握られることに強い拒否反応を示す場面などは、まさに接触恐怖症的だろう。
「鑑定士と顔のない依頼人」の主人公と同じだ。
二人は同じ夢を見ていた。
シカ
シカはおそらく自由の象徴
心や体の不自由さから自由への憧れをシカに例えたのだろうか?
社会構造が身体的自由を奪い、また心の自由を奪っている。
物語はその不自由さをAIとブレインマシンインターフェイスに置き換えた「攻殻機動隊」のようには持っていかず、お互いの欠点を認め合える世界に方向を向けた。
さて、
エンドレは老人であり妻とも別れ性的にもステージから降りた人物だ。
彼は娘がお金の都合を依頼してもOKせず、孤独な日々を過ごしている。
それはマリアも同じだが、何故この二人が主人公なのだろう?
何故親子ほど離れた年齢の二人だったのだろう?
エンドレは元妻か元カノかを呼んでSexし、やるだけやって「帰れ」という。
そこには満たされない気持ちと、マリアへの未練がある。
それ故に、「友達でいよう」と言ったにも拘らず電話を掛けてきた。
手首を切り血が溢れ出していたマリア
携帯電話に着信したのは間違いなくエンドレだとわかった。
絶望からの光
接触恐怖症を何としても克服したい彼女は、積極的に取り組んだ。
ただ、時間が必要で、ずっとモヤモヤしていたエンドレには少し長すぎたのだろう。
結ばれた二人はもうシカの夢を見なくなった。
不自由を克服した二人には、シカはもう必要なくなったのだろう。
この作品は、
人間社会のしている事実を背景に、命をモノにしてしまう構造と、それを知らない無数の人々は、動物たちの無言の声によって心も体も壊れていくのではないかと警鐘を鳴らしている。
そしてその壊れた体と心は、許し合い認め合う人間性によって補うことができると言っているのかもしれない。
エンドレが老人だったのは、老人にも未来はあると言いたかったのだろう。
最後の歌は、失恋を謳っているが、それは戦争によって引き裂かれたことを告げていた。
戦争も人間社会も否応なしだ。
このどうしようもない世界の中で、最後に通用するのが「許し合い認め合う人間性」なのだろう。
今回は完全に妄想的解釈だった。

R41
きりんさんのコメント
2025年8月12日

東欧が舞台だという所も大きな鍵でしょうね。
ポスターやDVDのパッケージの写真がとてもナイーブで好きです。

きりん
PR U-NEXTで本編を観る