心と体と : 映画評論・批評
2018年3月27日更新
2018年4月14日より新宿シネマカリテほかにてロードショー
残酷な現実と夢を行き来し、静寂のなかで孤独な魂を見つめる
しんしんと雪の積もる森に、さまよう鹿が二頭。群れもなく、ともに孤独な雄鹿と雌鹿は、お互いを離れた場所から見つめ合う。用心深く、だが本能的な好奇心に駆られて。
冒頭、雪国の寓話のような風景で幕を明けるこの物語は、現代のハンガリーを舞台にしながらどこか神秘的で、詩情に満ちている。ガラスのような繊細さと冷徹な眼差し、独特のイマジネーションの融合が、見たこともないプリズムを紡ぎだす。
食肉処理場の責任者である中年のエンドレは、片手が不自由なために、もはや人並みの幸福を追いかけるのを諦めている。そんな彼の視線にとまったのが、新しく工場にやってきたマーリア。見るからに内向的で、場に馴染めない姿がエンドレの心を捕らえる。
一方マーリアは潔癖性で、人と肉体的な接触を持つのが怖い。そんなとき工場の薬品が盗まれ、工員たちがセラピストにかかったのを機に、ふたりは同じ夢を見ていたことが明らかになる。
夢のなかの彼らは鹿となって、毎晩少しずつその距離を縮めていく。鹿になり変わっての逢瀬とは、なんとロマンチックなことか。
だが同時に、イルディコ・エンエディ監督は現実世界の残酷さを描くことも忘れない。異なる者に向けられる人々の蔑みや懐疑の目、人間のために解体される牛の鮮血。その血はまた、主人公たちの痛みをも連想させる。過酷な現実と夢の世界との鮮やかなコントラストが、観る者をこの不可思議で磁石のような魅力を放つ世界へと誘う。
マーリアが、その生活感のない簡素としたアパートで、触感を鍛えるためにマッシュポテトにみしみしと手を浸したり、ままごとセットを使って懸命にエンドレに話しかける練習をするに至って、我々は思わず微笑みながらも、彼女の閉ざされた心の内側に分け入ることになるのだ。
「私の20世紀」(1989年)でかつてカンヌのカメラドールに輝いたエンエディはきわめて寡作な監督だが、前作から18年のブランクを補ってあまりある、心に染み入る物語を届けてくれた。
(佐藤久理子)
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