「自己同一性障害」ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
自己同一性障害
カナダのケベックという場所は英語圏のカナダにあって、日常的にフランス語を話す特異な地域であることは学校で習った記憶がある。また、世界最古の職業は売春婦だということも習った。
この作品は自意識が認識する自己と現実に物理的に存在する自己との乖離が大きくなった場合、人間がどのように振る舞うかの一例を紹介している。作家で娼婦であるという生き方は、知的な思考実験と本能的な欲求の発露という両極端の場面に順不同に直面することだ。ストレスの大きさは計り知れない。
人間には自意識があるから、自分が認識する自己と実存としての自己との乖離は多かれ少なかれ誰にでも存在する。自覚している人もいれば、無自覚な人もいる。どちらが生きやすいかと言えば、当然無自覚な人である。
俺は、俺だという時の主辞と賓辞の間に横たわる深い溝については、埴谷雄高が小説『死霊』の中で詳しく述べている。所謂、自己同一性障害である。非常に哲学的なテーマだ。
本作品は、埴谷雄高が小説の中で主に会話によって表現したのと同じような思考実験を、飲んで食べて性交する主人公の即物的な行動によって表現した稀有な映画である。場面は時制を超えてあちらこちらに飛び回る。必死についていきながら観客が理解するのは、ストーリーではなく主人公の心の闇だ。
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