「「美しい西部モンタナの孤独──〈絶望死の国〉アメリカを描く傑作」ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択 nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
「美しい西部モンタナの孤独──〈絶望死の国〉アメリカを描く傑作
インディ系の旗手として高く評価されるケリー・ライカート監督の2016年公開の映画だ。現代の孤独を描き出した凄い映画だと思った。しかしその凄さは10年前の公開当時に理解するのは難しかったと思う。今見たからこそ、その意味をある程度理解し、さらに考えさせられる映画だと感じた。
公開当時の10年前、まだ一部の人しか明確に把握できていなかった社会の変質を、アメリカ北西部の大自然に囲まれた美しい田舎・モンタナの普通の人々の描写を通して繊細に描いた優れた作品だ。そして、この社会の変化による生きづらさの中に現在の日本の私たちもいるのだと感じさせられた。
まず少し映画から離れて、この映画が公開された2016年当時のアメリカの社会背景を整理してみたい。
この年はオバマ政権(2009〜2016)の最後の年で、大統領選では誰もがまさかと思ったトランプが大躍進し勝利を収めた。
人格者オバマから、差別主義、拝金主義、反知性主義のとんでもない人物トランプに政権が移ってしまった、それを選んだのは愚かなアメリカ大衆だ…というようなトーンで報道されていたと思う。ニュースに関心が薄い僕はぼんやりとそう理解していた。そういうことではなかった。愚かなのは僕の方だったと、10年経って自覚させられている。
オバマ政権下の8年で起きた社会の変質とは、端的に言うとトップエリートの富の独占と中間層(普通の人・平均的な人)の下流への没落だ。
2009年のリーマンショック後、オバマは金融機関を救済し、家や資産を失った人たちは救済しなかった。反ウォール街運動なども起きたが、何ら政治的には反映されず、経済が成長し株価も上がる中、トップ10%だけが資産を増やし、それ以外は豊かになるどころかマイナスとなっている。高く評価されたオバマケアも中下流層にとっては生活を楽にしてくれるものではなかった。
「大卒でも生活が苦しい」「家を買えない」「医療保険が高い」など、いくら努力しても良い生活は手に入らないーーそうした諦めと〝静かな絶望〟が広がっていった。
オバマは「Yes We Can」を代表とする数々の美しい言葉で、未来の希望、そして自助努力での幸福獲得を訴えた。しかし、希望は絶望に変わり、アメリカの伝統でもあるセルフヘルプ(自助)の精神は、自己責任(うまくいかないのは自分の努力が足りない)の原理になってしまった。
社会システムが原因で自分達が没落しているのに、それを自分のせいだと考えたら絶望するしかない。
アメリカの白人中年の死亡率が高まり、その原因は「絶望による死」であるという研究が発表されたのも2015年だ。未来の希望を信じられなくなった人たち、主に白人労働者が、自殺や薬物・アルコールで寿命を縮めていることが明らかにされた。医療技術の進歩と生活の改善で、どの国、どの年代でも寿命が伸びている中での異常事態である。
アメリカの伝統的なプロテスタント精神とは、禁欲的に勤勉に働くことは神の意志に沿う行為であり、成功とは神に救済される徳の高い人物の証明だ、というものだと思う。
そこでの失敗は、努力不足に加えて、神の意志にも沿っておらず、道徳的にも間違っていると自責をする傾向が(日本人にもあるけれど)アメリカ人には伝統的に強いのだと思う。努力しても落ちていく自分というものは受け入れられない。絶望はより深く深刻なものとなる。
高所得者の税率を高くして再分配すればいいというものではないのである。自立して生きるというのは誇りと尊厳の問題だからだ。再分配でお金をもらっても、神の恩寵は受けられないし、徳の高いのは苦しい人を助けたエリートだということになってしまう。なんかおかしいのだ。
こうしたアメリカ社会の状況がこの映画の通奏低音となっている。ここで映画そのものに戻ってみたい。
この映画は、アメリカ北西部モンタナ州の小さな街を舞台にした、3つの別々の短編映画をつなげた形になっている。主人公は全て白人女性だ。
第1話は、ローラ・ダーン演じる弁護士の女性が、しつこく彼女を頼りにしてくる失業男性に振り回される物語。
第2話は、ミシェル・ウィリアムズ演じるテント生活の夫婦の妻、新居を建てるための石を顔見知りの独居老人から譲ってもらおうとする物語。
第3話は、今をときめくクリステン・スチュワート演じる法律の夜間講師の女性と、彼女に会うためにその教室に通う牧場の女性(リリー・グラットストーン)のほのかな交流の物語。
3話で共通するのは、家族や友人ではない中間的な距離の人間関係を描いていること。そして、その関係がお互い理解し合った親しい関係に発展することがなく、どこかすれ違ったまま、精神的距離は縮まらないことだ。つまり、分かり合えない人間関係の物語と言えると思う。
この分かり合えなさは、中間共同体(会社や学校、地域、宗教など)の喪失として現在の生きづらさの正体であるとも言われる。所属していても、価値観を共有できなければ、それは喪失していると同じことだ。その結果、人は孤独になり、厳しい人生を自助努力だけで切り抜けるのは困難で生きづらさを感じ、人生の壁に突き当たることになる。そうした現代の孤独と絶望をこの映画はとても繊細に描いている。
実際、現在の私たちも、こうした夫婦や家族(これも困難さが増しているが)より、ちょっと遠い人との関係をうまく持ちにくくなっている。
会社や学校ではハラスメントにならないような作法が必要だし、企業は家族的な共同体から利益共同体の色が濃くなっている。友人や恋人関係も互いの価値観への配慮をするなら遠慮も必要で距離は遠くなる。これは第3話で描かれている。
地域社会は「お互い様」だからこそ助け合えるものだが、もうすでにそんな関係は持ちにくい。また開拓者精神が残るモンタナのような田舎では、一軒一軒が独立性も高く、ご近所さんのようなお互い様関係は弱い。(第2話)
商売での関係は、お金を払ってこそ、その範囲でのサービスを受けられる関係であって、お得意様みたいな支払いのないサービスを求めるのは今やカスハラだ。(第1話)
もはや私たちは、助け助けられるというような人間関係は、お金を介してしか得られないのかもしれない。それが市場経済社会というものだ。
その市場の論理・金融の論理による社会構造の変化が、オバマ政権下のアメリカで一気に進行し、この映画でそこはかとなく描かれる「人間関係の困難さ」が拡大している。その拡大の先に現在があるのだと思う。
これらの社会背景を念頭においてみると、また非社会的で非道徳的に思えるような不器用な行動をとる本作の登場人物たちが、自分の分身であるかのように共感できる人物に見えてくるのではないだろうか。
第1話の、解雇した会社を訴えたい無職男性は、没落したアメリカ白人労働者男性そのものだ。稼がない男は妻からも疎んじられ、会社とな裁判も失敗した。辛い気持ちをわかってくれる人も、何とか這い上がるための手段を教えてくれる人も誰もいない。絶望するか、暴れるか…。彼が道を踏み外す様は、2021年アメリカ議事堂襲撃事件の参加者に重なって見えた。
第2話の主人公夫婦は自分の土地でテント生活をしている。ちゃんとした知的な中流家庭の夫婦のようである。おそらくサブプライムローン破綻で家と財産を失い、手元に売れずに残った土地で暮らしているのではないだろうか。
第3話の弁護士女性は、片道4時間かけて週2回、舞台の田舎町に法律を教えに来ていた。おそらく副業であろう。アメリカの多くの大卒の若者は、学費ローンの借金を抱えているから、こうした無理な副業をせざるを得ないのだろう。現在の東京でも、単身の若者がそれなりに恵まれた職場で働いていても生活が困難なのは同様だ。
そして、第3話の主人公モンタナの牧場の女性。その牧場で働いているのは彼女一人である。孤独に黙々と働く(働かざるを得ない)彼女の姿が、この映画の象徴であると思った。懸命な労働の先に、人生が良くなるだろうという希望は見えていないのである。
この映画では、なんの大事件も起きないし、成功や達成も描かれない。かといって、ここまで述べてきたような絶望もはっきりと描かれない。ただそこにある風景を静かに淡々と写し取ったような映画だが、その背景に、生きることの困難、行き詰まり、孤独がはっきりと感じられる。そして、それでも人生は続く、生き続けなければいけないということも描いている。
そんな作品だからこそ、この映画で描かれた絶望は普遍的なものだと感じられるし、今の私たちの人生の象徴であるとも感じられるのだと思う。
絶望に共感できるというのは、希望の第一歩ではないだろうか。少なくとも美辞麗句で希望を語り、現状を上書きするより、絶望的な孤独を見つめることからそこはかとない希望が見えてくるーーそうした絶望の先にある強さと希望を感じさせてくれる作品だった。
