「クサすぎる不遇」沈まない三つの家 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
クサすぎる不遇
この監督はしぬしぬで日本中を熱狂させた湯を沸かすほどの熱い愛のひと。しぬしぬドラマの構造はシンプルでありながら、日本国民を入れ食いにできる。構造つっても露命を主役に置くだけなんだが。釣れる釣れる。とはいえ、日本人にしかウケないので日本にしかない。わたしは腹を抱えて笑い転げた。
お涙頂戴な演出は、わが国の映画やドラマの定番。
今はお涙頂戴ではなく、感動ポルノという言い方が定着している。とにかくなにがなんでも積極的に泣かそうとする演出で、近年実写でもっとも露骨なそれは、前述のとおり湯を沸かすほどの熱い愛(2016)だった。
テーマは「かわいそうな境遇」。主人公双葉は薄命、娘の安澄はいじめられっ子、探偵さんは亡妻の子連れ、拓海くんは継親から逃げ出したヒッチハイカー、酒巻さんは唖者。右も左も不遇の免罪符しょっている人物だらけ。かれらが不幸自慢を繰り広げる様子はモンティパイソンの4人のヨークシャー男も顔負けで、エジプト行きたいを伏線とする人間ピラミッドなんか、全身鳥肌の恥ずかしさだったが、映画サイトは軒並み異様な高得点をつけた。つまり大多数の人々を支持を得ていた。
日本にお涙頂戴な演出が多いのは、日本人がそれがすきだから。
映画のレビューサイトでは「泣けた」が褒め言葉として常用されている。てことは「泣けなかった」はとうぜんサムズダウン。ばあいによっては、泣けたか泣けなかったかが、映画を良し悪しの判断材料ですらある。
個人、一般庶民は、みんなに映画の魅力を伝えたいと考えるより、映画に泣ける自分の感性をアピールしようと考える。それがSNS。
むかしのフィルマはSNSの形態を持っていなかった。だからSNS的偏差値(フォロワーの数とか、アクティビティの頻度とか、コミュニケーションなど)について、警戒する必要がなかった。だがSNS形式になり、ポピュラリティが競争化されたので、じぶんのポジション、あるいは「フィルマの住人らしさ」みたいなもの──について、まがりなりにも警戒しなきゃならなくなった。
SNSが映画の魅力を伝えるよりも自己アピールが目的のツールならば「良かった」よりも「泣けた」のほうが効果的。
けっきょくネットワーク内での自己主張がレビューの主目的になったため「泣けた」が合意・不合意のキーワードと化した。すなわち「泣けた」とは映画の感想ではなく、レビューの読み手に宛てた共感促進の会釈。そこへいいねをすることで挨拶が成り立つ。
が、泣けたから泣けたと言っていけないことはない。わたしとて小市民。泣くことは、庶民、労働者にとって身近なストレス発散方法。サクッと泣いて眠りに就く──のは、健全な消費生活だと思う。
ただし、こんにち泣けたか泣けなかったかが、映画の判断材料になってしまっているのなら「泣けた」発言は、寄るか去るかの他者の判断材料にもなりえる。
つまり「泣けた」との批評に寄ってくる人々もいるが、同時に「へえ、これに泣けちゃうんだ」と去る人も生じさせる──というはなし。
湯を沸かすほどの熱い愛に並んだ高評価だらけレビューをながめたとき、わたしは強烈な疎外感を感じた。「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」「泣けた」が居並ぶその渦中へ「爆笑しました」で突撃するのは気が引けたから。が、「朗報!この国フランダースの犬の最終回で天下取れっぞ!」とは言ってやったぜ。
私見だがお涙頂戴=感動ポルノの主目的は人とお金を集めること。映画のプペルや、24時間テレビがこの手法をもっていることをご存じだと思う。それがいけないとは思わない。人とお金を集める手法を使って人とお金を集めているだけのこと。ちっともわるくない。
ただ感動ポルノではないものが、感動ポルノに負けるならば、この国にまっとうな映画/ドラマができる地盤(リテラシー)なんか無いんじゃなかろうかとは思う──というはなし。
本編はその中野量太監督の初期作で、やはり「かわいそうな境遇」で釣ってくる。誤解しないでほしいが「かわいそうな境遇」はシンパシーをあつめるプリミティブな方法。「かわいそうな境遇」を使わなければ映画ができない。が、クサいのとクサくないのがある。たとえばあの夏、いちばん静かな海(1991)のふたりは聾唖。かんぜんに「かいわいそうな境遇」で釣る映画だった。ただしクサくなかった。ただ君だけ(2011)のヒョジュは盲だった。ジソプは落ちぶれたアウトサイダーだった。ただしクサくなかった。弱者や虐げられた者で釣りたいならば、巧くやろう──というはなし。ザ日本映画業界には巧いひとがいない。にしてもクサすぎ。0点。