しあわせな人生の選択のレビュー・感想・評価
全8件を表示
邦題の選定が相変わらずに酷い。
簡単な感想にとどめるが、ありきたりな闘病末期の患者の身辺整理を描いたような作品。
一つ他の作品と違う点はどうしても愛犬の処遇だけが気にかかる所。
親友とのやりとりも空気感や言葉の選び方が非常に違和感なく数十年の付き合いなのだと自然に納得させてくれる。
しかし、ラスト近くのSEXシーンだけは理解に苦しむ。情熱の国スペインのノリや文化で片づけることができれば簡単なのだろうが、はたしてどんなシチュエーションならあの流れになるのか?(わからない事もないが、もっと抑えた表現で出来なかったのか?wしっかりと全体を写し過ぎw)これでかなりの点数が落ちた。
ラストは絶対に断らず、信頼できるからこその決断にグッときた。素敵なラスト出会ったと思う。断らないどころか何も言わずにリードを受け取る姿が非常に心を揺さぶった。
だからこそ原題のままの『トルーマン(犬の名前)』で良かったんじゃないの?
ほんとにセンスねーな。
犬も喪失感を感じる?
映画「しあわせな人生の選択」(セスク・ゲイ監督)から。
余命わずかな人間のドラマは、何作も観てきた。
その最期の時間の使い方は、人それぞれであり、
これが正解、というものはないことはわかっている。
今回、特に印象に残っているのは、
「愛犬トルーマンの新たな飼い主を探し」。
「植物と違って犬には性格ってものがある」ことを理解し、
自分が亡くなった時、愛犬がどうなるか、心配で仕方がない。
作品中、動物病院の先生を訪ね、質問するシーンがある。
「先生の意見を聞きたい、犬も喪失感を感じる?」・・
「飼い主を亡くした犬を癒す方法が?」と矢継ぎ早に問う。
先生がこう答える。「捨てられた時と同様に、犬の心は傷つく」
やはり・・と思ったのか、更に質問は続く。
「具体的にどうなる?」 「飼い主が死ぬと、
人を寄せ付けなくなり、心因反応を起こすこともあるだろうね。
消化器系の不調や問題行動などだ」・・
家族同様に暮してきた愛犬だからこそ、この視点があり、
そのために、最期の数日に費やす。
これも、大切な余命の使い方なんだよな、とメモをした。
いまいち入り込めず感動はない
本作は2016年(第30回)のスペインのアカデミー賞といわれるゴヤ賞において5部門を獲得している。
原題は本作に登場する犬の名前である『トルーマン』だ。
日本に原爆を落とした第33代アメリカ大統領と全く同じスペルなためかよくわからないが、この原題が全く活かされていない邦題となっている。
さぁ、感動してくれ!と両手を広げて迎え入れるようなタイトルが邦題になるのは今に始まったことではないのでもはや驚かないが、なぜ犬の名前がタイトルになっているか本編を観ればその重要性がわかるので、この邦題には違和感を感じる。
同時にこんな見え透いた邦題にしてまで集客率を上げようとしなければいけないほど映画を観る人は少ないのか?と寂しい気持ちも覚える
本作は、監督のセスク・ゲイが自身の母の闘病生活と死に向き合う中から発想を得たらしく、監督個人の想いの詰まったパーソナルな映画ともいえる。
余命の少ない主役フリアンを演じたリカルド・ダンはアルゼンチン出身の名優で『人生スイッチ』というアルゼンチン映画にも出演していた…らしい。
筆者は『人生スイッチ』も観ているがこの俳優に記憶がない。
南米はブラジル以外は全てスペイン語が公用語だからスペイン語圏の成功モデルはやはり旧宗主国のスペインで活躍することになるのか?
フリアンの従妹のパウラ役を演じたドロレス・フォンシもアルゼンチン出身だが、フリアンとパウラの2人は本作でもアルゼンチン出身という設定である。
英語にも出身地によってなまりがあるので、やはりアルゼンチンなまりのスペイン語も存在するからなのだろうか?
現在日本以外で日本語が公用語になっているのはパラオのアンガウル州だけであり、それも形式的なものだから、他国人が普段使う言語として母国語を話すのを聞く経験がない。
そのため日本人である筆者にはその微妙な違いは全く伺い知ることができないが、なかなか興味深い。
また世界には大きく2つに分類して発展途上国と先進国が存在するが、過去において発展途上国から先進国に上り詰めた国は日本だけで、逆に先進国から発展途上国に没落した国はアルゼンチンだけらしい。
なおその好例に挙げられるのがあの名作アニメ『母をたずねて三千里』となる。
わざわざアルゼンチンに出稼ぎに行ったお母さんを主人公のマルコが探し歩くお話だが、マルコと彼の母親はイタリア人である。
自分の死に際をどうするかを友人や家族の関わりの中から描き出すいわゆる「終活」ものになるが、ヨーロッパの映画なので死を題材にした映画でありながら邦画のようなウェットな人情ものにはなっていない。
いや正確に表現するとヨーロッパ人からすれば十分ウェットなのかもしれないが、日本人の感覚からはあまりそういった印象を受けないというだけかもしれない。
その最大の理由が、わざわざカナダからフリアンに会いに来る友人のトマスとフリアン、パウラの関係性である。
フリアンとパウラは従兄妹の関係になるが、本作を観ている限り同時に恋人のようにも思える。
しかし、トマスがカナダに帰国する前夜、フリアンを失うお互いの寂しさを共有するかのように彼とパウラは泣きながら情事にふける。
しかも翌朝そんな2人が仲良くホテルのロビーに現れる光景をトマスを迎えに来たフリアンに堂々と目撃させる無神経さがよくわからない。
トマスは妻子をカナダに残しているからなおさらである。
ヨーロッパの映画を観ていると頻繁に登場人物が友人の奥さんや彼女と関係を持つが、西洋人の男女がともに持つ性への貪欲さと倫理観の無さには正直ドン引きする時がある。
映画でしかも他国の作品に倫理観を持ち出しても全く意味がないことは認めるものの、本作にもこの描写があるせいか感動からはほど遠い。
また本編中フリアンは結局息子に自らが近々死ぬことを告げられないままになるが、実は息子はその裏事情をすでに人から伝え聞いて知っていたという設定になっている。
その割には2人が出会ってから別れるまでの間に息子側に切羽詰まった感情が感じられなかった。
最近はカタルーニャ独立問題で国内が混沌としているのを現しているかのように、本作の邦題がミスリードを誘っているのか実にまとまりのないごちゃごちゃした作品に感じられた。
ただ、死を大きな題材にした恋愛映画は腐るほどあるので、友情を主な柱にして死を扱う物語の組み立ては悪くない。
まあまあ
余命わずかな男と彼を取り巻く人々の最期の4日間を描いたドラマ。カナダに住むトマスは長年の友人でスペインに住むフリアンが余命わずかであることを聞き、フリアンのもとを訪れる。治療をあきらめ、身辺整理を始めたフリアンは、愛犬トルーマンの新たな飼い主を探し、アムステルダムの大学に通う息子の誕生日を祝うためにオランダへ旅をする。その中でフリアンとトマスは、昔のように遠慮のない関係に戻っていく。現代のトルーマンは愛犬の名前、里親は見つからず、帰りの飛行機に乗ろうとするトマスに突然愛犬を預ける(通関手続きなどをすべて準備して)
友人・家族、そして愛犬とのお別れを考える"終活ムービー"
進行性の末期ガンに侵された主人公の、家族・友人との関係性を切り取ったドラマで、いわゆる"終活モノ"。末期ガンに侵されたスペインに住む主人公のもとに、余命わずかであると聞いた古い友人が、遠くカナダからはるばるやってくる。滞在期間は4日間だったが、期せずして"終活"に付き合うことになる。
ヨーロッパでは、昨年、ドイツ映画「君がくれたグッドライフ」(2016)やフランス映画「92歳のパリジェンヌ」(2016)など"安楽死"テーマの作品があったが、本作も主人公が自らターミナルケアの選択をしている。
本作がいわゆる"終活モノ"と違うのは、登場人物がラテン系だからなのか、全体のトーンが"明るい"。また主人公は女性や青年ではなくオッサン。設定や会話もウィットに富んでいて、泣き落とし系ではない。理性的に死と向き合っているがゆえに、逆にじわりと心に迫るものがある。
原題の"Truman"は、映画に登場する老犬の名前である。主人公の"終活"において、残された愛犬の生活や心のケアがいちばんの気がかり。"犬にも喪失感はあるのか"とか、"新しい飼い主との生活環境"など、悩みは尽きない。実際にそれなりの老犬を使っていて、長年の相棒であったことを感じさせる。
日本においても"犬は家族"という常識くらいはあるが、ヨーロッパではさらに"犬は社会の一員"というレベルまで社会的意識が浸透している。
犬とホテルに泊まれるのは当たり前だし、犬にも税金が課されるドイツ、飼育には年収証明が必要だとか、さらに犬を屋外で飼っていると虐待と見なされる地域もある。だから本作が特徴的なのは、"家族・友人との別れ"と、"愛犬(ペット)との別れ"が、同じ目線で扱われていること。劇中シーンでは、ホテルや、レストラン、空港、公共交通での犬帯同の自由さ、公園でのリードなし(ちゃんと教育されている場合のみ)等を、垣間見ることができる。
"犬"と"飼い主"のお別れがすべてを象徴している作品であり、残された犬が、生前の主人公の想いを引き継ぐ存在として描かれている。
(217/7/11 /ヒューマントラストシネマ有楽町/ビスタ/字幕:赤坂純子)
もやもやする。
普通にいい映画だと思って、感動もして見ていたけど、
最後で裏切られた感じでした。
結局、性欲か~
大切な人を失う二人。そのやりきれない気持ちが性欲に向いてしまうところが、
ドン引きしました。
ドン引きしてるので、最後のトルーマンを託すシーンも、いきなりそんな犬を渡されても困るだろ!!と思わずにいられなかった。
物語だし、綺麗に終わろうとしてるのは分かるけど、なんかなぁ...
もやもやしたまま、映画館を出ました。
不治の病に侵されて、治療は果たして義務なのか?
恐らくは、命は長くないだろう重病を患った時、もし自分が当事者の家族だったら、治療をして少しでも長く生きてほしいと思うだろう。そしてまた自分自身が重病患者だったとしても、おそらくは出来る限り長く生きられる可能性を探るだろうと思う。しかしながら、その行為は、決して当然のことではないし、ましてや義務などではない。病気になったからと言って、治さなければならない義務も、辛い治療を受けて苦しい思いを命堪えるまで長引かせなければならないという、責任まで背負うことにはならないはず。けれども、病気になったら治らないと分かっていても治そうとしなければならない、あるいは辛くても治療を受けなければならないというような、先入観のようなものが存在するのも確かだと思う。重病患者である家族がもし、治療は受けないと言い出したら、私だったらきっと「どうして!?」と声を荒げてしまうだろうと思う。この映画は、そんな病を患った中年の男が治療を受けることを拒絶し、もしかしたら最後になるかもしれない旧友との休日を過ごす、そんな物語だ。原題の「TRUMAN」は飼い犬の名前で、自分の死後、この飼い犬をどうするのか?ということを一つのメタファーにして、死の選択をした男の終幕と、その男に対して何も言葉を発せずに見守るしかできない旧友の二人を見つめている。
今の日本では、ある意味でとても「タイムリー」なテーマでもあるし、今後いつ自分の身に降りかかってもおかしくない出来事を描いているので、興味を惹かれる部分もある。病に侵された時、決して治らないのに必ず治療を受けなければならないのか?という自問自答を呼び起こした点で、その意義も価値も見出せるのではあったが、この作品、自分でも意外なほど、印象でいうと至って「普通」と言った感じで、それほど心に響いては来なかった。
というのも、男二人が4日間の短い休日を通じて、例えば犬の引き取り手を探して面接をしたり、久しぶりに息子に再会してでも病気のことが癒えなかったり(でも息子はそのことをちゃんと知っていたり・・・)、という展開のすべてが、どこか想像の域を超えないというか、それらのシーンに特別な目新しさはなく、思わずはっと気づかされ目が覚まされるような展開が訪れないというのがその理由ではないかと思う。治療を受けないと決めた男と、それを見守るしかできない男のそれぞれの葛藤と深層心理の考察に(結末の落としどころも含めて)新しい切り口が見当たらず、よって特には琴線を刺激されるようなことがなかった、というのが(あくまで私個人としては)正直なところだった。
それにしても、そろそろいい加減に「○○な人生の△△し方」みたいな邦題を(特にヨーロッパ映画に)つける風潮、やめてもらえないかなぁ・・・。観たいと思った映画にそういう邦題がつくと、見に行くのが恥ずかしくなるよ・・・。
わざわざ時間を割いてお金払って観る程ではないかな・・・
え・・・
う~ん・・・
だから?
別に・・・って感じの映画だった。
観なくてよかった~、ガッカリ。
全8件を表示