「いまいち入り込めず感動はない」しあわせな人生の選択 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
いまいち入り込めず感動はない
本作は2016年(第30回)のスペインのアカデミー賞といわれるゴヤ賞において5部門を獲得している。
原題は本作に登場する犬の名前である『トルーマン』だ。
日本に原爆を落とした第33代アメリカ大統領と全く同じスペルなためかよくわからないが、この原題が全く活かされていない邦題となっている。
さぁ、感動してくれ!と両手を広げて迎え入れるようなタイトルが邦題になるのは今に始まったことではないのでもはや驚かないが、なぜ犬の名前がタイトルになっているか本編を観ればその重要性がわかるので、この邦題には違和感を感じる。
同時にこんな見え透いた邦題にしてまで集客率を上げようとしなければいけないほど映画を観る人は少ないのか?と寂しい気持ちも覚える
本作は、監督のセスク・ゲイが自身の母の闘病生活と死に向き合う中から発想を得たらしく、監督個人の想いの詰まったパーソナルな映画ともいえる。
余命の少ない主役フリアンを演じたリカルド・ダンはアルゼンチン出身の名優で『人生スイッチ』というアルゼンチン映画にも出演していた…らしい。
筆者は『人生スイッチ』も観ているがこの俳優に記憶がない。
南米はブラジル以外は全てスペイン語が公用語だからスペイン語圏の成功モデルはやはり旧宗主国のスペインで活躍することになるのか?
フリアンの従妹のパウラ役を演じたドロレス・フォンシもアルゼンチン出身だが、フリアンとパウラの2人は本作でもアルゼンチン出身という設定である。
英語にも出身地によってなまりがあるので、やはりアルゼンチンなまりのスペイン語も存在するからなのだろうか?
現在日本以外で日本語が公用語になっているのはパラオのアンガウル州だけであり、それも形式的なものだから、他国人が普段使う言語として母国語を話すのを聞く経験がない。
そのため日本人である筆者にはその微妙な違いは全く伺い知ることができないが、なかなか興味深い。
また世界には大きく2つに分類して発展途上国と先進国が存在するが、過去において発展途上国から先進国に上り詰めた国は日本だけで、逆に先進国から発展途上国に没落した国はアルゼンチンだけらしい。
なおその好例に挙げられるのがあの名作アニメ『母をたずねて三千里』となる。
わざわざアルゼンチンに出稼ぎに行ったお母さんを主人公のマルコが探し歩くお話だが、マルコと彼の母親はイタリア人である。
自分の死に際をどうするかを友人や家族の関わりの中から描き出すいわゆる「終活」ものになるが、ヨーロッパの映画なので死を題材にした映画でありながら邦画のようなウェットな人情ものにはなっていない。
いや正確に表現するとヨーロッパ人からすれば十分ウェットなのかもしれないが、日本人の感覚からはあまりそういった印象を受けないというだけかもしれない。
その最大の理由が、わざわざカナダからフリアンに会いに来る友人のトマスとフリアン、パウラの関係性である。
フリアンとパウラは従兄妹の関係になるが、本作を観ている限り同時に恋人のようにも思える。
しかし、トマスがカナダに帰国する前夜、フリアンを失うお互いの寂しさを共有するかのように彼とパウラは泣きながら情事にふける。
しかも翌朝そんな2人が仲良くホテルのロビーに現れる光景をトマスを迎えに来たフリアンに堂々と目撃させる無神経さがよくわからない。
トマスは妻子をカナダに残しているからなおさらである。
ヨーロッパの映画を観ていると頻繁に登場人物が友人の奥さんや彼女と関係を持つが、西洋人の男女がともに持つ性への貪欲さと倫理観の無さには正直ドン引きする時がある。
映画でしかも他国の作品に倫理観を持ち出しても全く意味がないことは認めるものの、本作にもこの描写があるせいか感動からはほど遠い。
また本編中フリアンは結局息子に自らが近々死ぬことを告げられないままになるが、実は息子はその裏事情をすでに人から伝え聞いて知っていたという設定になっている。
その割には2人が出会ってから別れるまでの間に息子側に切羽詰まった感情が感じられなかった。
最近はカタルーニャ独立問題で国内が混沌としているのを現しているかのように、本作の邦題がミスリードを誘っているのか実にまとまりのないごちゃごちゃした作品に感じられた。
ただ、死を大きな題材にした恋愛映画は腐るほどあるので、友情を主な柱にして死を扱う物語の組み立ては悪くない。