セールスマンのレビュー・感想・評価
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タイトルなし(ネタバレ)
教師エマッドと妻ラナは上演間近に控えたアーサー・ミラー原作の舞台「セールスマンの死」の稽古に忙しい。壁崩壊により住む家を失った二人は、劇団仲間が紹介してくれたアパートに移り住むが、「セールスマンの死」の初日を迎えた夜に事件が起こった。ひと足早く帰宅したラナが侵入者に襲われたのだ。警察に行こうとラナを説得するが、表沙汰にしたくない彼女は頑なに拒み続ける。犯人はいかがわしい商売をしていた以前の住人だった女性と関係がある人物だと確証を掴んだエマッドは自力で探し出すことを決意する・・・
慌てて逃げた犯人はホロ付きトラックを鍵ごと置き忘れてしまったのだから、自力でも簡単に捕まるだろうと思っていたら、かなりグズグズしていたようだ。また、ラナは頭部を何針も縫う大怪我したので、親告罪じゃなくて、普通に傷害罪として警察に届けるべきだとも思う。イランの住宅事情もちょっとわからず、崩壊しそうなアパートから引っ越ししたアパートも壁が剥がれ落ちてたようにも見えた。
最大の疑問は、以前住んでた女性がいかがわしい商売をしていたことに関して、単なる浮気とはならず、宗教上(?)法律上(?)重大な犯罪のように扱われていたことです。これによって犯人を呼び出してからの終盤の展開が予測不可能な凄まじいものになっていきます。その娘婿に来るように言ったのに、来たのは爺さん。「娘婿に言うぞ」「やめてくれ」の繰り返し。言い争っているうちに心臓麻痺になる爺さん。トラックまで薬を取りに行き、手尺でむりやり飲ませる・・・もしこんなことで死んでしまったら・・・と、エマッドとラナは逆に窮地に追い込まれるのだ。
色々と批評サイトも読んでみましたが、ラナがレイプされたと断定している記事が多い。ただ、復讐の度合とか、イスラム教世界での姦淫罪とか、犯人が心臓病持ちの爺さんだったこととか、2人とも血まみれになったことも考えると、未遂に終わった可能性が高い気がする。そもそも商売女を相手にしようとする男が力ずくで・・・と、まぁ、終盤の展開が面白すぎるので、どうでもいい話ですが。
【2017年8月映画館にて】
長く感じるが終盤は良かった!!
テンポが悪く長く感じましたし、主人公が全然奥さんを抱きしめないので、愛情が薄く感じました。後半お爺ちゃんが登場してからは緊張感があって楽しめました。観客も許す許さないで二手に分かれたと思いますし、またどう思ったかで結末の印象が異なる映画だと思います。お爺ちゃんが帰らせてくれと言ったり、家族の反応、妻の許し等、人を裁く事は出来るのか、という難しいテーマを「プリズナーズ」以上に上手く描いていました。ラストシーンの何とも言えない感じも良かったです。
何で?
何で家族に告発しなかったの、、?
重大な犯罪したんだから、
警察捕まるのが当たり前なのに
それもナシで家族にも犯罪を言わないって、、
心臓病だとか関係ないし。
なんか最後はスカッとしないモヤっとで終わっちゃったなあ、、、
私が女性だから余計後味悪い、、?
ちょっと残念。
予告では最後は予想外な展開!!に、期待したんだけど、
そんな風に予告で謳ってるけど予想外て捕まらない&家族にも告発しない てことだったのかな、、
劇場予告にやられた、、
犯人ももっと身近な人たちかと思ったら誰?て感じの全くの赤の他人。
あー残念
これに125分は長いわ
他人の子もかすがい
事件が夫婦の間に不信感を生み、感情の折り合いがつかない。衝突が増幅し、ひしひしと緊張が増す。彼の国の文化的背景の中で、特に女性がどのように振る舞うのかに関心がいく。しかし、男性の方がブレーキが効かなくなり、おっさんの話になる。振り上げた拳を如何にするか。ちと、話の展開が期待とは異なる。彼の国のものの見方かもしれない。
あなたはどこまで嘘つきを許せる?
イランを代表するアスガー・ファルハディの監督作品である。
筆者がこの監督の作品を観るのは『別離』『ある過去の行方』に続いて3作品目に当たる。
率直に言って3作の中では一番面白くなかった。中盤は眠くすらある。
『別離』は人間性を深く掘り下げるために登場人物の証言が二転三転して何が事実なのかわからない羅生門エフェクトを駆使したサスペンス仕立ての作品になっていてかなり面白かった。
この監督の作品を3作観て、筆者はファルハディは日本ではあまり受け入れられないだろうと思う。
彼の作品では嘘が人間関係の重要な要素となるが、正直であることや誠実さに価値を見いだす日本社会では登場人物たちは時にただの嘘つきに映ってしまうと思うからだ。
また日本人は世界的に見ても面子よりも上記2つを重視するので、本作品自体の過程や結末はほぼたどらない。
日本では本作の物語自体が成立しない。
物語は至極単純である。
妻を暴行致傷した相手を夫が探し出して復讐する物語である。
夫が初めに目星を付ける男の義理の父が真犯人なのだが、まあこの男が実に情けない。
なんとか言い繕って犯人ではないと言い張るし、犯人だと判明した後も家族にだけは伝えないでくれと惨めに夫に懇願する。
恐らくだが、この時点で日本人の大多数が身勝手なこの男に嫌悪感を募らせていく。
極度のストレスと気が動転したからか死にかける犯人だが、なんとか蘇生する。
夫は彼の家族(妻・娘・義理の息子)と自分の妻を呼んで全員が一堂に会したところで真実を告げようとするが、世間体もあるし、男のあまりの情けなさに同情したのか妻は男を許そうとする。
妻から「真実を告げたら私たち2人の関係も終わると思って」と言われ泣く泣く男を許すことにする夫だが、最後は我慢できずに男の頬に強烈な平手打ちを浴びせる。
そしたらまた男の病状が悪化、倒れて意識のない男の周りで泣き叫ぶ男の家族たち、結局この男がどうなったのかは本作では明かされない。
さてここまで書いてきて思うが、実に犯人の男は笑ってしまうほどの情けなさっぷりである。
潔さのかけらもないし、かといって開き直れるほどの悪党でもない。
日本ではこの犯人は役不足だし、日本人の夫婦であればこの男を容赦しない気がする。
妻はなぜ許しちゃうの?と思う人は多いだろうし、最後に男がたとえ死んでも当然と感じる人も多いだろう。
かつて日本で幼女を性的暴行した上に殺した日系ペルー人が家族ぐるみで「悪魔のしわざ」だと言い張っていた事例を思い出す。
特定の宗教を信じていないのになぜ日本人は高潔なのかと中東をはじめ世界中の人々が思う理由はこの映画を観ているとよくわかる。
映画の登場人物たちは人間臭いとも言えるし、逆に日本人の潔癖さは異常とも思える。
ただ人間自体を嘘をつくものだと認めている社会は人の過ちに対して寛大な面もあるが、日本は人の過ちに対して容赦のない側面がある。
筆者はこの映画を観て日本と他国の嘘に対する捉え方の違いを見せられたように感じた。
ニューヨーク・タイムズが本作を「衝撃のラストシーン」と紹介しているが、男が死んでいるなら「自業自得」である。
ただそれによって夫婦の関係が壊れたならある意味「衝撃」ではある。
また監督のファルハディは急激に近代化するイランの不安と苛立ちを本作で表現しているとインタビューで答えている。
世界中どこを見回しても昨今の急激な社会の変化に追いついているのかよくわからないし、みな口を開けば同じようなことを言っている。
だからこそ最近筆者は「変わらない」ことから来るポジティブなものを提示する作品がもっと必要ではないかと感じている。
本作の引用にもなっているアーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』を登場人物たちが役者として演じているが、イランの事情で裸のシーンでも女性はコートを着て演じるシーンがある。
それが後の性的暴行への伏線になっているところは良くできている。
もちろん本編では暴行シーンどころか女性の裸は一切出てこないし、妻がほぼ暴行されていることは確定しているのに、言葉でも匂わせるに留まっている。
これはイスラム指導省から制約を受けているからに他ならないが、前述した実際には裸ではないことに役者仲間が思わず笑ってしまうシーンは言外に同省に抗議しているのかもしれない。
ただ、描かないことで見せるのも1つの味にはなっているので一概にどちらがいいとも言えないのが厄介だ。
また出演している俳優たちの演技も掛け値なしに上手い。
本作は2017年のアカデミー賞外国語賞も授賞している。
イランを含む7カ国の入国禁止令にトランプがサインしたことに抗議してファルハディと主演女優のタラネ・アリドゥスティが同賞の授賞式をボイコットした経緯があるらしいが、リベラル傾向の強いハリウッドが政治的な理由から授賞させただけに思えてなんとも滑稽だ。
何やってもいい方向へは行かなそう。
アーサーミラーの戯曲セールスマンを知ってると、多分もっと理解は深まったと思うのだけど、残念ながら知らないので、感服には至らず。
映画セールスマンを観る数週間前に同じ監督の「別離」を見ていましてね。なるほど同じ人が撮ってるなあと思いました。
どうやってもうまくいきそうにないあたりがね、うん。「別離」のほうが私にとってわからない題材が含まれてないので理解できた気も強かったです。
セールスマンもいい映画だと思いますが。
妻を襲った犯人は、元住人の娼婦の客だった60代らしき無力な男でさ、家族に言うぞという脅しにほぼショック死(実際には言ってないけど)しちゃうし、夫婦仲は回復しそうにもないという、誰も幸せにならなかったという結末。
主人公夫婦の夫役の人が、別離では無職で暴力的な方の夫役だった人で、今作でのインテリ系もはまっていて当たり前でしょうが、役者の演技力というものを感じました。
妻が警察に通報するのを拒む理由が私にはよくわからなかったです。
何れにせよ、次回作も見られるといいなーとおもいました。
筋書き通りにはいかない二つの芝居
初の千葉劇場での鑑賞。前席の頭が邪魔にはならず、かといって目の高さとスクリーンが合わない席もほとんどない。なかなかの環境。
さて、映画のことだが、主人公たち夫婦が引っ越す前のアパートの間取りがなんとも不自然というか、不思議である。
リビング?と思われる広めの部屋にはガラス窓の付いた壁に仕切られた部分があり、カメラがそのガラス越しに被写体をとらえるカットが何度も現れる。
オフィスなどによく見られる仕切りとは異なり、これは本来なら外壁に空いているはずの「窓」が家の中にあるような印象を与える。
この不可思議な空間設計は、終盤に妻を襲った男性を問い詰めるシークエンスにおいて舞台装置としての機能を果たすことになる。
やっとのことで真犯人を突き止めた夫は、その罪状を関係者たちの前で明らかにしようとする。これは、謂わば夫が演出する芝居である。ただし、この芝居では、出演者は観客を兼ねることになる。
主役の犯人をアパートに軟禁して、あとは観客兼出演者の家族が揃えば、この芝居は幕開きのはずであった。しかし、いままさに幕が開けようとするその時に、不測の事態が発生。芝居は夫の意図したものとは全く異なる筋書きに変わっていく。
それはまるで、妻の遭遇した悲劇によって、夫婦が参加する同人演劇の「セールスマンの死」が筋書き通りの舞台とはならなくなってしまったことと同じようである。
精神的な痛手を負った妻が、「セールスマンの死」の芝居の途中で舞台を降りる。
持病の発作により、妻を襲った老人は家族を前にした告白を強要される前に生死の境をさまよい始める。
こうして二つの芝居は、当初の筋書きを書き換えていくのだ。
筋書きが変わっていくこの流れに逆らう夫の姿が、自我に固執した印象を観客に与える。それは本来なら一番大切にしようとしていたものを失っていく瞬間でもある。
タイトルなし(ネタバレ)
予告の予想と
だいぶ違った。
ちょっと期待してたんだけどね〜
確認もせず
ドア開けとくなんて
日本でも危ないよ...
なんか
色々もどかしくて...
もっと
サスペンスかと思いきや
犯人ヨボヨボの
ジジィなんかぁ〜い(笑)
まだ嫁婿犯人の方が納得⁇
しかし
慌てたとはいえ
ベット脇に靴下?
クッションの下に
解約済みの携帯とトラックの鍵
お金とコンちゃんまで
各場所に置き忘れて
ジジィが部屋に入ってすぐ
シャワー室に入り
襲ってすぐ逃げたのなら
見つからなかったのでは?
ホントは
何が起こったのでしょうね?
終始イライラ
何で警察行かんの?奥さんの気持ちがよくわからん。結局、レイプされたの?殴られただけ?なんかシャッキリしない人物の行動にイライラしっぱなしだった。社会情勢とかなんとか日本人にはよくわからん。
過去作を知る人も必見
監督の過去作では、まだ小さい子供がいるのに離婚やら再婚やらで、意図せず巻き込んでしまう演出は見ていてつらいですが、私はそういう演出にめっぽう弱いのですが、今作でもその演出は健在!
闖入者が置いていった金で、飯を食ってると分かったときのエマッドのあの表情!重すぎる空気!巻き込まれてしまった、よその子!
私が期待していたファルハディー節!子供が大人の事情に全力で巻き込まれる演出がそこにはあったのです!
濃密な心理サスペンスと言いながら、やっぱり裏切らない、さすがファルハディー節だぜ!フーッ!(不謹慎)
うーむ
家は手に入ったが一緒に住む人を失ってしまった
というのが
セールスマンの死 という演劇らしい
今までの関係が個人に分断されていく
そんな演劇を演じるのが主人公の夫婦
彼らの目の前で
老夫婦はお互いをかけがえのないものといいつつ
最後まで秘密をもったまま死別する。
見た目は理想的に見えるけど
今の私たちには
もう戻れない世界のようにも見える。
メイクすることや
舞台のセットや照明などを操作する。
そういうことがいちいち皮肉っぽく感じられる。
なるほどね。と唸る。
でも
何か明るい兆しというのも垣間見せて欲しいところではある。
妻が暴行にあって夫がとった行動
セールスマンとは、国語教師の主人公が趣味(か、副業?)で参加している演劇で演じる役だ。
これが劇中劇として本編に絡んでくるかと言えば、そうでもない。
ただ、主人公夫婦の心理の移り変わりに、練習風景や本番の舞台、楽屋裏、劇団員たちが微妙に関わってくる。
イランの国民性も社会的背景もよくは知らないが、あれが中流階級の姿なのだろう。
オープニングのタイトルバックの映像は芸術的だった。
ストーリーは淡々と進んでいった印象だったが、加害者が判明してから意外な展開を迎える。
被害を受けた妻の心理的な閉塞感はよく解らないが、加害者である老人を見てからの夫を制止しようとする気持ちは理解できる。
妻は何かを隠しているのではないかと疑ったが、そうではなかった(のだろう)。
しかし、老人と妻の間で本当は何が起きたのか、まだ判然とはしていない気がする。
老人の妻と家族は、老人の所業は知らぬままなのだろう。
しかし、主人公夫婦はこの後どのように事件を乗り越えていくのだろうか。
破綻の結末しか想像できないのだが。
役者たちは皆達者な演技を魅せている。
ほとんどが狭い空間で、カメラは役者たちに接近している。
町で加害者の車を捜す、追うシーンでさえ、ほぼカメラは車中にある。
そんな中で、夫と加害者老人を見つめる妻が、少し遠い立ち位置だったのが印象的だった。
サスペンスのその奥で、人間の感情の暗部を抉る
寸分の狂いもないような物語だと思った。冒頭で突然マンションが崩壊するシーンから始まってすべてが緻密で綿密でもう計算し尽くされたような物語と演出。派手な装飾も何もないのに、ずっと映画から目が離せなくなる。そしてある事件をきっかけにして、一組の夫婦の運命が変わると同時に夫婦の関係も変化し、そして人間の思い違いや思い過ごし、思い込みなんかが、まるでメッキが剥がれるようにボロボロと剥き出しにされていく様子に、イランという国の風土も相まって最後まで緊張感が止まらなかった。
確かに物語はサスペンスの要素がある。主人公の男は、妻に暴行した犯人を捜して奔走するし、謎解きのミステリーのような展開もある。けれどもやっぱりこの映画は人間のドラマだと思う。罪を犯すことと復讐心と赦し。誤解と偏見と決めつけ。そういった人間のあらゆる感情に肉体が冒されて突き動かされて、しかしいつしか何かを見失っていく様子は間違いなく人間の感情の奥底を抉ったドラマだと思ったし、その上で、どんなサスペンス映画より緊張感があったし、どんなミステリーよりも深遠だと思った。
善と悪は必ずしも白と黒で色分けされるわけではなく、特に、何処までも黒い完全な悪は存在するとしても、完全な白、完全なる善というのは、いったい存在するのだろうか?と作品を観た後でふと考えてしまった。妻を傷つけた犯人を見つけ出したい、そして懲らしめてやりたい。その気持ちはとても理解できるし至極真っ当な考え。自分がその立場なら、同じことをしたかもしれないと思う。けれどイランという国で、その事件で警察に行くということはさらに妻を傷つけることになる。だからと言って、自力で犯人を探し出すことは一体誰のためで誰を傷つけているのか?誰一人望む者のいない「犯人捜し」そして「復讐」という善意は、どのくらい白い善だったのだろう?とふと思うのだ。
夫がこの犯人探しに何を望んでいたのか、それを眼前に突きつけられ、それがいかに不毛であるかが明かされるラストに、まるで此方まで打ちのめされるような、あまりのやり切れなさと虚しさ。映画が終わって思わず深いため息が漏れて、自分がいつからか映画を観ながら息を止めていたことに気づいたほどだった。
アメリカ大統領の政策のために、曰くつきでオスカーを受賞したように思われてしまっている嫌いがあるのが非常に辛いのだが、本当に凄い映画なので、誤解せずに評価されてほしいと切に願う。撮る映画撮る映画毎回凄まじい作品ばかりを生み出すアスガー・ファルハディの更なる凄みを見たような感じだった。
とてもよかった
果たしてレイプはあったのかなかったのか、犯人はこいつなのかそうじゃないのか、と真実が小出しで展開される度に、感情が目まぐるしく翻弄された。
犯人のじいさんが、憎むのも申し訳なくなるくらい弱々しくて、そこが恐ろしいところであった。紛れもなく人間くさかった。人間には裏も面もそれ以外もたくさんあることを描いていた。
後味があまり良くないが、悪くない映画
正直後半やや退屈な映画でフランス映画のように展開が進むのが遅くて眠くなりそうになった。
途中から犯人探しのストーリーにありがちな警察に連絡しない理由というか心情の説明がいまいちで、ツッコミを入れたくなった。
フランス映画っぽい展開とわかっていたら見ることはない映画だった。
どの国でも起きうる事件と、社会変化の波。それでも”日常”は続いていく
今年のアカデミー最優秀外国語映画賞を勝ち取った、イラン映画である。アスガー・ファルハディ監督と主演女優のタラネ・アリドゥスティが、トランプ米大統領に抗議の姿勢を示すため、授賞式をボイコットしたことで話題となった。昨年のカンヌ国際映画祭の脚本賞と主演男優賞も受賞している。
ファルハディ監督は、「別離」(2012)に続いて2度目の栄冠となるが、現代イランのリアルな一般感覚を伝える映画を発表してきた。いわゆるイスラム圏のイメージは、ともすると近年の”怖い”という極端なものから、"砂漠"、"厳しいイスラム法(シャリーア)"、"復興途上"などのステレオタイプだったりする。しかしファルハディ監督作品は、現代イラン社会や伝統文化を描きながらも、グローバルで普遍的な人間テーマを扱う、比較的わかりやすい作風である。
今回の「セールスマン」も、舞台がイランのテヘランというだけで、どの国でも起きうる事件が描かれる。時代変化や世代交代という背景もまた、イランで普通に起きていることなのである。
米国作家アーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」に出演している役者の夫婦。夫は学校の教師をしながら、劇団で妻とともに舞台活動をしている。ある日、引っ越ししたばかりの自宅で夫の不在中に、妻が何者かに襲われる。
事件を表沙汰にしたくない妻と、妻を気遣いながらも警察に届け出ないことに納得できず、自ら犯人探しを続ける夫。そこから始まるサスペンスドラマである。
対比構成の映画である。まず、進行するストーリーと劇中劇のストーリーがそうだ。
劇中劇の「セールスマンの死」は、過去の栄光を持つ、老いたセールスマンが時代の変化の中で競争社会から落ちぶれていく姿と、自立できない息子たちとの不和、多くの問題に耐えながらも夫を献身的に支える妻。夫婦の感情のズレは普遍的な問題である。時代の変化に正解も間違いもない。ただ最後には主人公は自ら死を選ぶ。
本編中には、時代の変化を象徴するシーンも多くある。夫婦が引っ越さなければいけなくなった理由は、古くなり倒壊の危険性のあるマンションと、それを助長する市街地の再開発の波だ。また、教師の夫が受け持つ授業は男子クラスである。イランは高校生までは男女別学であるが、生徒たちは当たり前のようにスマホを持ち、友達や先生をからかったり、それはあたりまえの風景である。そして現代的な生徒たちは、古い価値観から脱却していこうとする力強い息吹を象徴している。
もし、自分のパートナーが性的暴行を受けたとしたら、その辱めを公表してでも訴えて闘っていくだろうか。相手を気遣って隠したとしても、意図せずその事実は隣人や関係者から露見されていく。パートナーとの関係は元通りになるはずもなく、あなたならどうしていくだろうか。
やがて犯人がわかったとしても…あたりまえの生活は続いていく。最後の最後まで、観客を引き付けて離さない。
(2017/6/14 /シネマカリテ/ビスタ/字幕:齋藤敦子)
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