「生活保障のセーフティネットが人間の尊厳を傷つける、データ管理社会の無慈悲」わたしは、ダニエル・ブレイク Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
生活保障のセーフティネットが人間の尊厳を傷つける、データ管理社会の無慈悲
1960年代から映像作家としてのキャリアを積み、1990年代に漸く注目されるようになって、還暦過ぎた今世紀に代表作を生み出した老熟の映画監督ケン・ローチ(1936年生まれ)のカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。日本で最初に評価されたのが、「大地と自由」(1995年)と「ケス」(1969年)の2作品で、どちらも未見でタイトル名だけは記憶に残っていました。個人的に注目し始めたのは、「SWEET SIXTEEN」(2002年)「やさしくキスして」(2004年)「麦の穂をゆらす風」(2006年)からです。この前者2作品の現代劇は、貧困や移民の社会問題を取り上げ、リアリズムの率直で厳しい演出タッチが特徴の良作でした。ポール・ラヴァーティ(1957年生まれ)の脚本も、独自の視点と切り口のある興味深いもので面白く、深く感心したものです。後者の「麦の穂をゆらす風」は、アイルランド独立戦争とその後の内戦を旧来のドラマチックな演出を排して冷静沈着に描いた歴史劇でした。この秀作で最初のパルム・ドールを受賞しています。
このケン・ローチ監督が79歳の時に制作した今作は、現代イギリス社会が抱える福祉制度の煩雑で非効率な問題点を痛烈に批判した告発映画になっていました。日常生活に密着したテーマは、本来ドキュメンタリー映画の領域にある分野ですが、それを敢えて劇映画として再構築することにローチ監督の真価があります。何も映っていない真っ暗なタイトルバックでは、主人公ダニエル・ブレイクと労働年金省から任命された医療専門家アマンダとの面接場面の会話が流れます。心臓以外はどこも悪くないブレイクにとって、手足について取るに足らない質問ばかりか、我慢出来ずに漏らしたことはあるかと人間の尊厳にかかわる無礼な内容まであり、気分を害するものでした。医療従事者ではない医療専門家という曖昧な立場の者が政府の委託事業者(外国資本?)として介在する理由は、行政の効率化と癒着の善悪であり、結果審査を厳しくして不正を排除し予算の上昇を抑える狙いもあるのでしょう。それで本当に困っている人が救われているのかの問題提起が、この導入部で斬新かつ完結明瞭に表現されていました。事務的で人情味の無いアマンダを敢えて見せない演出は、医療専門家ひとりの話ではないということ。しかし、ブレイク側にも対応の問題点が無い訳ではありません。心臓発作が原因で医師から休職を命じられたのであれば、演技でもいいからもっと同情を得るよう協力的にアマンダの質問に答えていれば良かった。ここに良くも悪くも、ダニエル・ブレイクという大工職人のプライドと頑固さがあって、その後の追い詰められた状況に苦しむ展開になっていきます。
面接で心証を悪くし支援給付の審査を一度落ちると更に手続きが複雑になるのは、如何にもお役所仕事で驚きます。提出書類をそのままに、担当の面接官を変えて再チャレンジの仕組み作りが双方無駄が省けて良いのではと、素人目には思いました。支援手当の再申請を諦めたブレイクが職業安定所に行き求職者手当を要望するも、就労可能な場合だけと断られる。ならば不服申し立ての手続きをして下さいと言われても、オンラインのパソコン操作がブレイクには出来ないし、相談窓口もサイトで予約しないと困窮状態を聞いてもらえない。四面楚歌の状況に落胆するブレイクの視界に、ロンドンからニューカッスルに親子3人で引っ越して来て、給付金手続きに遅刻した理由で交付が下りないケイティ親子の姿が映る。ここから社会保障から見捨てられた弱者の人間ドラマが始まります。
ケイティに同情しながら、役所の対応の冷たさに怒るブレイクが知り合って最初のカットに、この映画の脚本・演出の技巧の高さがありました。それはお互いの不満を語りながらスーパーで買い物をした後、ブレイクがケイティ家族の家を訪ねるシーンの繋ぎのカットです。ブレイクとケイティに娘のデイジーが一緒に歩いてくるのに、息子のディランがいない。するとクマのぬいぐるみを入れたカートを押しながら後を追い掛けるディランが現れて、周りをうろつき回って漸く母親のところに追いつく。この2ショットでディランがどんな少年でどう母親から接しられているのかが分かります。デイジーの肌の色の違いからは、ケイティの私生活の複雑さを暗示する設定になっていて、それでも素直に育っているデイジーと無邪気なディランの、このケイティ一家の今日的な家族の姿にリアリティが感じられます。また子役のプリアナ・シャンとディラン・マキアナンの自然な演技が素晴らしい。ディランの名前をそのまま役名にした配慮もあり、ローチ監督の細部に行き届いた丁寧な演出でした。
支援手当の再審査を諦め休職者手当を申請する上で、一応職探しをしている建前上履歴書の提出を迫られるところからブレイクの心理的、精神的な負担が増加します。医者から仕事を止められている事実、大工仕事以外はしたくないブレイクの誇り、それでも手書きした履歴書を心当たりの会社を回り手渡しては、いざ採用となっても断ざるを得ない。矛盾の渦中に入ってしまったベテラン大工職人ブレイクの徒労が痛切に伝わってきます。この履歴書の作成講義のシーンがまた面白く、自己PRの重要性を説く熱く高慢な講師に対して、受講生の態度は冷めきっている。実力以上の表現で誤魔化しても、実際に仕事を始めたら能力は分かってしまいます。だからと言って、採用審査の基礎となる履歴書を蔑ろにする姿勢は好ましくないのは明らか。役所で求職の証拠を問われ、手書きの履歴書を見せたブレイクは、面接官に規則違反の判断を下される。そして、今度は慰労手当なる救済申請の余地はあるという。生活保障のセーフティネットが充実しても、個別に特化することで非効率になる現実問題は、けして人間に優しくない。規則違反を続ければ支給停止は延々と続くと脅かす面接官の最期の言葉は、フードバンクの配給票の必要性まで及びます。ブレイクの人間としての尊厳を傷つける面接官の説明は規則の報告であって、血の通った人間の言葉ではない。沈黙したまま席を立ち役所を後にするブレイクを捉えたカットに、ローチ監督の静かな怒りが込められていました。この映画の主張としてのクライマックスを構成するために、ケイティ一家にブレイクも付いて行って、そのフードバンクのシーンを先に見せています。しかも貧困に陥ったケイティが空腹の余り、その場で缶詰の蓋を開けて食べてしまう衝撃的なシーンでした。お金に困っているケイティがスーパーにひとり買い物に行くシーンでは、精神的に正常ではなくなっている状況から万引きに手を染める展開は映画的に予想できるものです。しかし、店長から初犯の温情を受けての帰り際、ケイティを捕まえた警備員が相談に乗る善意をみせてメモを渡すところの微妙な表現に、この脚本と演出の巧妙さがありました。ブレイクがケイティの売春の現場まで足を運び説得するシーンまでの最小限の説明ショット、ケイティ一家とブレイクが親密になる流れも自然に描かれていて、物語の雄弁さと無駄の無さは傑出しています。
役所の職員には相談者の悩みに親身になって接してくれるアンという女性もいました。彼女には正直に心の内を明かし、制度の不備により茶番劇を演じてきた自分の存在価値を憂い、(データから俺の名前を消すためか?)の言葉になって吐露します。そして現実にも、アンの言うように(根がよくて正直な人たちがホームレスに)なってしまうのでしょう。この会話から役所の壁に、私はダニエル・ブレイクと落書きして、映画のタイトルになりました。人間の尊厳をもったダニエル・ブレイクという、ひとりの大工職人の男の物語は、最後悲劇的な結末を迎えます。これは映画的な決着としてより、社会の矛盾に翻弄されても人間の尊厳を守り抜いた男の話として完結しています。同時に作者の怒りは充分な説得力を持ち、イギリス社会の欠陥を鋭く突いたリアリズム映画として見事に成立しました。映画初出演のデイヴ・ジョーンズの演技は、作品の狙いに合った現実感を醸し出し、俳優のオーラを感じさせませんが、淡々と演じる演技力も、それなりの技巧が必要と思います。キャスティングの良さとローチ監督の作品全体の演出と噛み合った成果でした。ケイティのヘイリー・スクワイアーズの演技は、過酷な人生を経て来た女性を好演していて、ジョーンズとの絡みも自然でした。
この社会派作品から連想した映画に、黒澤明監督の「生きる」やヴィットリオ・デ・シーカ監督の「ウンベルトD」などの古典があります。21世紀のローチ監督のリアリズム映画には、それらのドラマチックな演出は無く、取材した内容を再構築しても、より現実的な日常風景として人物や対象物を捉えるクールさが際立ち、これも映画の品格になっていると思いました。勿論その再構築には、映画的な表現の技巧を施した脚本と演出があって、観ている時に改めて意識せずとも、最後まで見入ってしまう魅力があるという事です。その意味で題材は地味ながら、映画の面白さを改めて意識した秀作でした。
