「こんな名作が埋もれているなんて…。」むかしMattoの町があった とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
こんな名作が埋もれているなんて…。
昨今の選挙や政治家の言動をみている中で、この映画に出てくるナヌートの言動を聞くと、
自分の人生・いつもの生活を思いながら、エルサやボリスの言葉を聞くと、
誰が精神的に健康で、誰が精神病院に収容されなければいけない人なのか、解らなくなってくる。
映画の脚本・演出・編集がうまい。
そして、これはバザーリア医師たちのスタンスなのだろうが、困難な事態でもどこかに解決の糸口を見つけようとする発想が、心に元気を与えてくれる。
実話をベースにしたTV映画。
イタリアで制作、イタリアで2夜連続で放映された時平均視聴率は21%!
イタリアには精神病院がない(レスパイト的に利用できる病床が一般病院の中に数床あるだけという)。
それがどうして大切で重要なのか、どのようにその道を開いていったのかを、”患者”の変化・取り巻く状況を中心に、足早にまとめている。
ホラーか、バイオレンス映画かというようなシーンを織り交ぜながら始まる(これ、TVで流したの???と驚愕)。
そして、第1部では病院の中の変化が、第2部では法整備の攻防に触りながらも、病院の中の人々が地域と関わっていく様が描かれる。
その中で、”患者”側で特に焦点を当てられたボリスとマルガリータの背景も少しずつ解ってきて、謎解き要素も味わえる。
そして、”患者”達の変化に目を見張る。良い変化もあれば、悪い形に出てしまい、バザーリア医師を追い詰める形にもなる。家族の仕打ちにやるせなさを感じつつも、これでは家族が「面倒みられない」とキレるのも御尤もというエピソードもあり。地域と触れ合うことで双方得られるもの、分かり合えない苦しさもあり。その展開が、先が読めそうなエピソードと、どうなるかわからない、斜め上の展開もあり、サスペンスフルでもあり、スカッともし、吹き出したり、心配したり、唖然としたり、泣きたくなったり、応援したり。飽きない。
第1部。
1961年、37歳バザーリア医師は大学で教鞭をとっていたが、上司から命じられた仕事を「患者はモルモットではない」と断ってしまう。その意趣返しとして、その上司から、「机上の空論ではなく、実践を」と、ゴリツィアの院長職を命じられる…。臨床経験のない研究者が現場に立ってと『レナードの朝』のような展開…(『レナードの朝』も実話ベース)。
そこで、現場で持論に沿った治療を始める。孤軍奮闘ではなく、バザーリア医師の授業を聴講していた医師も含めた仲間を集めて、いろいろな試みをする。15年間ベッドに縛り付けられていた男・ボリスをベッドから放し…。だが、その男は自らまたベッドに戻って自分から手足を拘束してしまう…。
そして…。「心が空っぽ」とある医師から言われた人々の変化。ナヌートが要所要所で胡椒の聞いた良い動きをする。
その様子はマスコミや、バザーリア医師たちが書いた出版物で、世間にも知れ渡り(マスコミは事実を改悪して報じていたりもするが)、若き人々の支持を受ける反面、旧来の勢力や、”患者”達の動きが活発になることに怖れを抱く人々にも刺激を与え、暗躍するさまをさらっと描写。
良い変化があれば、困った変化も起こる。殺人他の事件も起こる。バザーリア医師は、ある意味責任を一身に背負う形となって、この病院を去る1969年。一緒に変化を起こしたスタッフたちに、あとを頼んで。
ここで第1部が終わる。この後、どうなる?このまま終わるわけがないと思いつつも…。
第2部。
1971年、他の病院でも改革に失敗して失意のバザーリア医師を、トリエステの知事がリクルートしに来る。全権をゆだねる約束までして!!!(これ、実話)
そこに、ゴリツィアの病院に入院していたボリスやマルガリータ・看護師も現れるのはご愛敬。彼らの顛末・流れに心が締め付けられる。脚本がうまい。この病院のスタッフに、1部でバザーリア医師に影響され興奮しまくっていた人が医師としているのも宝物を見つけたようでうれしい。
トリエステでは、知事のバックアップもあり、WHOのモデルケースともされ、様々なボランティアも集まり、さながら芸術村のよう。ボリス、マルガリータそれぞれの恋はどうなるのか?ランボの居場所は?など、それぞれの”患者”の”健康”な部分・才能の開花・困った部分のエピソードを、家族や地域との関わりの中で描いており、感動したり、笑ったり、苦しくなったり、ハラハラしたり。家族や地域を非難したくなったり、家族の身になって苦しくなったり。より今の私たちの生活に近くなった分、身につまされる。
”患者”に寄り添う姿勢はそのままだが、ゴリツィアの失敗を繰り返したくなく、慎重になるバザーリア医師。それに反発する改革やるき満々の医師達。そんななりゆきにもハラハラドキドキ。そして、バザーリア医師や、看護師の家族の顛末が心痛い。全方向完璧な人はいないけれど…。改革って、ワーカーホーリックにならないとできないものなのか…。
そして…。
ラスト。ボリスとランボのバイク二人乗り。後ろに乗ったランボが両手を広げる。『モーターサイクル・ダイヤリーズ』のオマージュ?すがすがしくも”革命”はまだ終わらない象徴のようだった。
繰り返し書いてしまうが、実話ベース。
監督は、元トリエステの精神保健局長であったデッラックア氏の著作を読み、彼と話し、実際に舞台となる地に赴き、”当事者たち”の話を聞き、構想を固めたとパンフレットから。
また、脚本にデッラックア氏も加わっている。
かつ「かって精神病院を経験した人々が、エキストラとしてすばらしい雰囲気で下支えしてくれた」(パンフレットより)
病院に収容されていた人やその家族は、何人かの実際のエピソードを組み合わせて造形され、役者が演じている。なので、ご都合主義と言われかねない展開もある。展開も早い。もっとじっくり一人ずつのエピソードを味わいたい思いもぬぐえない。だが、的確に、その一人一人に、潜在的な力と、一緒に暮らすにあたって困った部分や苦しみとを描き出している。一緒に(笑)、一緒に怖れ、一緒に頭抱える。そんな人々に魅了される。
バザーリア医師役のジフーニ氏も、マルガリータ役のプッチーニさんも、関係する本を読み、関連するビデオ・映画を観、そして上記のエキストラさんたちから学んで演じたそうだ。(ボリスを演じたジュリッチ氏のインタビュー記事はパンフレットに載っていなかった)
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エンディングで、精神病院撤廃の法はできたものの、本当に全廃するまでは20年かかったとのこと。復活させようという動きはあるらしいが、そのあと、現在まで、精神病院0が続いていることがすごい。
実話としての日本との違い。
トリエステでの試みは、知事の要請によるものだった。パンフレットに、その知事・ザネッティ氏のインタビュー記事が載っていた。当時知事は若干30歳。
選挙によって、トリエステの県政の執行権を担う知事に選出された。精神病院の経営も仕事の一つ。財政的にも精神病院が負担となっていて改革が必要だった。そこで、精神病院を調査するために、初めて精神病院を訪問したそうだ。視察に入った時に、見せてもらえなかった箇所に一人で行って、酷い惨劇を見て、二日間も食事ができないような経験をする。自分が任される病院だけではなく、他の欧州の精神病院をも見て、廃止をしなければならないと思ったのだそうだ。そこからいろいろと調べ、実績も伴うバザーリア医師しかこの改革を行える人はいないと確信して、全権委任をつけて要請したそうだ。ザネッティ氏はインタビューの中で、バザーリア医師をフーコーやレイン、クーパーと比べているが、フーコーやレイン達を政治家が知っているなんて!!!
日本の政治家で、今、ここまでやる人はどのくらいいるのだろうか。単なる統計の数字だけ見て、その数字に隠された本当の意味など考えずに、さも、その”問題”に関心を持っているつもりになって発言する輩。支援団体の都合の良い言葉を鵜吞みにして、自分で調べ、考えないで、なのに、考えたつもりになって発言する輩。だがら、統一教会とか、闇献金とか、「知らなかった」という似たような案件が絶えない。本当に知らないかったのだろうと思う。でも、知らなかったで済む問題ではない。「知ろうとしなかったことが罪」とはどの作品の台詞だったか。その言葉を今の政治家にたたきつけてやりたい!
しかも、この映画の中で精神病院で行われる集会よりも悲惨な政治家のふるまい。今、小学校では、”話し合い”の練習もしているのだが、”大人”はどんな見本を見せるのだろうか。
政治家としての覚悟が違うよなとため息が出た。
この法律が動き出したのはバザーリア医師を始めとする人々の実践が素だが、政治家の動きも欠かせない。パンフレットにも「トリエステ精神保健革命の陰の主役」「『ザネッティなくしてイタリア精神保健改革なし』とまで言われる政治家」とある。映画の中では2,3シーンしか登場しないが。しかも最初の登場シーン以外ではモブ扱い。
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研修会で鑑賞。
元トリエステ精神保健局長・メッツィーナ氏と精神科医達との対話や講演も聴く。
未だに、精神病院0が続いているのは、予算をはじめ、精神保健に対する様々なことがイタリアと日本で違うのだということが解った。とにかく、”人”として扱う。ご本人と、周りの思いのズレがあっても、徹底的に説得する姿勢がメッツィーナ氏から語られる。
その手間暇かかるやり方は、今の”効率”を求める日本では受け入れられないであろう。
そして映画の中でも出てきた言葉(予告にもあり)「あなたの過ちは患者の拘束にあるんじゃない。当初感じたという苦悩から逃げたことです。苦悩があればこそ患者と向き合える。患者の狂気とではなく、その奥にある人間性と」。これを実践し続けられる人はどれだけいるのだろう?この、非難されている医師のように孤軍奮闘では続かない。仲間がいたとしたって、けなしあい・責任の押しつけや、この映画の護師長や教授からのような同調圧力がかかれば…。
20年前のことであるが、相談継続が多いから児相は仕事をしていないと議会で追及した議員がいたっけ。昨今の学校行政も、何かあった時にマスコミに叩かれ、弁護士に訴えられることを危惧して、早急な対応を求めてくる。自死したいというご本人の気持ちに寄り添い、時間をかけて、その気持ちを変えていくことよりも、学校や家族・関係者の都合が優先される状況。児童・生徒の為と言いながら、本当は自分たちの保身のためと言うことを認められない人たち。
仕事が終わって、くつろぎの場で、”完璧”な対応を求められている/しよう/しなければとキリキリするご家族。”完璧”な対応を自己流に理解して勘違いを繰り返すご家族。
皆余裕がない。だからうまくいかない。力を入れなければいけないところと、手抜きしてよいところを取り違えてしまう。私を筆頭として。
バザーリア医師が、社会が変わらなければ無理だと言っていた言葉がリフレインする。
それでも、日本でも信じられないような処遇のニュースが時たま流れるが、ニュースにならないところで、日本の置かれた現状の中で、”精神障害”と言われる人たちを”人”として扱い、一緒に暮らしていこうとする人々がいて、実践していることが心強い。この映画に出てきた”集会”のようなことを続けてきた病院もある(今も行っているだろうか?)。
そして、そんな人々の努力で、マルガリータのように、”家族外の居場所”で救われている子・人も知っている。
たくさんの人に見てもらいたい。
特に『閉鎖病棟(平山監督)』『くちづけ(堤監督)』などで感激している方には、この映画を観て、”本物”を知ってほしい。