「元作へのオマージュとしても正鵠を射ていたと思う」素晴らしきかな、人生 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
元作へのオマージュとしても正鵠を射ていたと思う
<映画のことば>
「生きて、君の舞台が見たい。」
「あの舞台は、もう死んだわ。
でも、死んでいないかも。
何事も、見方ひとつだもの。」
最愛の娘だっただけに、亡くしてしまったショックは(当たり前のことながら)小さくはなかったのでしょう。
ハワードにとっても、その妻マデリンにとっても。
一方、家族を遺してこの世を去らなければならないことが間違いのないことと分かってしまったサイモンにとっても、その不幸の「荷の重さ」は、並大抵のものではなかったことでしょう。
「不憫」(原文ママ)という一時(いっとき)の気の迷い(?)から妻を傷つけてしまい、それ故に愛娘と引き離されて暮らさなければならない悲哀を味わっているホイットにしても。
そして、会社のためには、家庭を持ち、子供を産むことを諦めざるを得なかったクレアにしてみても。
(そんな境遇にあっただけに、愛娘を亡くしたハワードの悲しみが、クレアには身に染みていた?)
考えてみれば、この世の中、「不幸」ということは、誰にでもありそうです。
評論子に例えれば、通勤のために毎朝のようにバスに乗ることがもう4年近くにもなれば、名前も人となりも知らないけれども、そして言葉こそ交わさなくても「顔見知り」になるような人の一人や二人は出てくるものですけれども。
そして、彼や彼女だって、何かの「不幸」や「悩み事」を抱えながら、それでも頑張って毎朝の通勤バスに乗っているのかも知れないー。
「自分だけではない」「誰にでも不幸はある(ありうる)」…そのことに気づくことができることが窮地から脱却するための術(すべ)であるということが、作中にブリジットの、いわば「決めぜりふ」として何度か登場するキーワードの本当に意味するところということなのではないかと思います。評論子は。
実際、あの三人組の俳優の「立ち位置」とでもいうのか、本当は何者だったのかは本作の明確には描くところではなかったようにも思いますけれども。
いずれにしても、何かと不都合の多いこの世の中をより良く生き抜くためには、自分の心の中に、意識してあの三人組の俳優を住まわせておくということは、ヒントのひとつにもなるのではないかとも思います。
本作は、その題名(邦題)からして、別作品『素晴らしき哉、人生!』(1946年)へのオマージュが込められた作品と、評論子は受け止めましたけれども。
(元作の単なるリメイクではないことは確か。あえて言えば、元作を現代的に改造した…いわばリミックス作品とでも形容すべきか?)
その位置づけはさておき、アメリカ社会での人と人と人との共助ということを(寛容の季節・クリスマスという要素を絡めつつ)元作とはまったく違った切り口からながら、本作も鮮やかに描いている点では、そのオマージュは、成功している(正鵠を射ていた)のではないかとも思います。
それらを受け止めてみると、本作も、なかなかの佳作であったように思います。
評論子は。
(追記)
本作は、評論子が毎月参加しているデスカフェで、メンバーの一人から話題提供があり、映画ファンの端くれの評論子としては、未観を恥じての「緊急鑑賞」として、いわば「おっとり刀」で、地元のレンタル店からレンタルしてきたものでした。
結果、本作自体が、前記のとおり思いもかけない佳作であったほか、同名別作品の『素晴らしき哉、人生!』にも、大いに食指をそそられることにもなりました。
これも、映画を観ることの、楽しみ方(醍醐味)のひとつなのかも知れないとも思いました。
その意味でも、印象に残る一本でもあります。
評論子には。
(追記)
複雑に組み立てられたドミノのコマがが倒れていくところは、あんなにも美しいのです
ね。
その方面の愛好家がハマっていくのが分かるようにも思いました。
しかし、そこまでの根気。
「超」の形容詞が付きそうな「せっかち」の評論子には、とうてい無理だろうなぁとも
思いました。