「芸術と人生、その「聖性」と「魔力」」シーモアさんと、大人のための人生入門 ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
芸術と人生、その「聖性」と「魔力」
辻井伸行さんが優勝した、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール。
ご存知でしょうか? あの時、優勝者は二人でした。
辻井さんともう一人、中国の若きピアニスト。ハオツェン・チャン。
彼がファイナルステージで弾いたピアノ協奏曲。
その選曲に僕は大いに驚きました。
彼が選んだのはモーツァルトのピアノ協奏曲第20番K.466だったのです。
楽曲を聴いてすぐ分かりますね。
音の数が圧倒的に少ない。
それにモーツァルトが活躍した時代、そもそも現代とおなじピアノはまだ現れていなかったのです。
モーツァルトは61鍵のピアノを使っていたそうです。
現代のピアノはご承知の通り88鍵。7オクターブの音域が自由に選べます。
しかしモーツァルト時代のピアノは5オクターブしかカバーできません。
表現の幅がそれだけ限られるのです。
にもかかわらず、ハオツェン・チャンは、この表現の制約がある、モーツァルトのピアノコンチェルトで「勝負」にでたのです。
なんという大胆さ。
なんという勇気。
僕が思うに、かれは自分が表現できるピアノの「音色」に圧倒的な自信があったのでしょうね。
第二楽章の冒頭のメロディー。
もう一度聴いてみてください。
こんなに易しく、シンプルなメロディー。
おそらく、ピアノを習い始めた小学生でも弾けるでしょう。
それを彼は世界的コンクールという大舞台で「挑戦的」に弾きおおせたのです。
そして彼は辻井さんとともに世界へ羽ばたく切符を手にしました。
音楽におけるまさに劇的なサクセスストーリー。
ここで一つ問題提起しましょう。
音楽での成功とはなんでしょうか?
コンサートのチケットが売れること?
音楽ビジネスとして成り立ち、金持ちになること?
それとも芸術性の頂点を目指すこと?
これは両立するのでしょうか。
本作はピアノそのものが大好き、また、ピアノ曲が大好きという方には、大変豊かな体験をもたらしてくれるドキュメンタリー作品です。
ただ、邦題の「人生入門」については、やや疑問符があります。
本作はピアニスト、そして音楽芸術を極めてゆく過程において、芸術家が直面するジレンマについて、シーモアさんが語り部となって、自分の歩んできた人生を振り返り、洞察するというもの。
ピアノという楽器や、その演奏手法についてもかなり突っ込んだ解説がなされます。
したがって、音楽に全く興味のない方、ピアノが好きではない方には、退屈で仕方のない作品に思えてしまうでしょうね。
本作を作ったのは俳優イーサン・ホーク。
すでに俳優としてのキャリアは評価されていました。
しかし彼の言葉を借りれば「実にくだらない演技」を大衆は好み、喜んだのです。
そこに彼は「演じること」その芸術性を極めたい、という欲求が、体の中から湧き出てきたのでしょう。
彼のなかのモヤモヤは頂点に達しました。
やがて彼は、演劇の舞台に立つことに、極度の不安を覚えることになります。
そんな時に出会ったのが、ピアノ教師シーモア・バーンスタインさんでした。
彼は稀有な才能を持ったピアニストであり、賞賛と名声を得ていました。
にもかかわらず、自らステージを去り、一介のピアノ教師という生き方を選びます。
イーサン・ホークは、このシーモア・バーンスタインという人物、その人生に尽きぬ興味と尊敬の念を覚え、記録にとどめたいと、このドキュメンタリー作品を自ら監督します。
イーサン・ホークにとって、シーモアさんは、まさに「人生の師匠」とでも言える人だったのです。
僕も「心の師匠」と勝手に思い込んでいる人物がいます。
小澤征爾さんです。
小澤さんのボストン交響楽団時代のドキュメンタリー「OZAWA」は僕のバイブルとなりました。
心が疲れている時にこのドキュメンタリーはあまりに”眩しい”ものです。
「うつ病」を抱えている僕にとっては、やや調子のいい時に、このドキュメンタリーを見ることにしています。
それは人間と音楽の関わりが「こんなに楽しいもの」であることを感じさせてくれるのです。
「クラシック音楽は敷居が高くってね……」
と敬遠される方も多いでしょう。
小澤さんが生み出す音楽は本当に良い意味で敷居が低いのです。
たしか1980年代に、小澤さんの特集番組が民放で放送されたことがあります。
その中で、実に心憎い演出がありました。
当時デビューして間もないアイドル、野村義男君と、小澤さんが、屋台のおでん屋で、音楽について語り合う、というシーン。
これは小澤さんの音楽を理解する上で、実に的を得た演出でした。
こんなに「屋台の似合う」クラシック音楽の指揮者がいるでしょうか?
世界を探してもそれは小澤さんだけでしょう。
その小澤さんが、世界の頂点に君臨するオーケストラ
ベルリンフィルを率いて演奏したチャイコフスキーの「くるみ割り人形」
そのなかの「花のワルツ」
なんという愛らしさ。美しさ。クラシック音楽が決して限られた特権階級の音楽ではないことを示してくれます。
本作はいろんな問題提起を僕たち観客に投げかけてきます。
芸術とは何か?
芸術と一般大衆との乖離について。
芸術に関わる芸術家はどう生きるべきか?
さらには、芸術は人間を本当に幸せにするのか?
これは、大変シリアスな問題ですね。
たとえば「最高の音楽を目指そう」というアーティストは、世界中にゴロゴロいます。
それはクラシックに限りません。
大衆音楽でもそうです。
その代表格は今は亡き、マイケル・ジャクソンでしょう。
映画「THIS IS IT 」
を見れば分かります。
彼は「キング・オブ・ポップス」と呼ばれました。
まさに王者として、つねに頂点に、居続けなければならない。
そのプレッシャーと戦う姿は、ある種痛ましささえ感じられるのです。
その結果、彼の生涯は悲劇的な結末を迎えました。
音楽が彼を死に追いやった、とさえ言えるのかもしれません。
本作でも語られるように
あまりに音楽の芸術性を追求するあまり、グレン・グールドのように、自分の殻に閉じこもるように、神秘的な存在になってしまった人もいます。
彼は後年、人前でリサイタルをすることをやめてしまいました。
以前テレビで彼のインタビューを目にしました。
「私が人前で演奏しないのは、すべての人に、私の音楽が”等しく”聴かれることを願っているからです」
グールドは、コンサートでは人々は座る席によって、音の響きが違ってくる「それが嫌だから演奏しない」というのです。
しかし、いくらレコードでグールドが奏でる音楽を「共通体験」しようと試みたとしても「再生装置」である、オーディオ機器は、各家庭において違いがあります。
数万円のものから、マニアが購入する数百万円のものまで。
当然音質も変わってきます。
それを考慮すると、グールドの主張はどうにも”あやふや”です。
本作でのシーモアさんは、グールドのこともよく知っていました。
「いい演奏をしたいと願うアーティストは例外なく、客の前で緊張します。グールドは極度の緊張に耐えきれなかったのです」
さて、こんな芸術と人間との関わり。
芸術は人間が生み出した美しい側面ではあります。
しかし「美の探求」という側面もあります。
それは物理学や数学の法則が、それを学ぶ者にとっては「とてつもなく美しい」と感じることと同じです。
「E=mc2」というアインシュタインの方程式は、シンプルで素人目にも調和と美しさを感じます。
しかし、この美しさを持った方程式を利用すれば、おそるべきエネルギーを持った兵器を作ることも可能です。
「永遠の真理」は地球を木っ端微塵に破壊する可能性さえ内包する、冷酷さを持ち合わせています。
「永遠の美や真理」は人間にはしょせん「扱いきれない」もの、なのかもしれません。
だから人間はいつまでも「美や真理」の前では子供なのでしょう。
間違った使い方をしても愚かなままで、何も学ぼうとしません。
そして過ちを繰り返す。
失敗を再生産してゆく。
本作は、見る人により、様々な印象、感想を持つことでしょう。
自分の人生をよりよく生きること。
自分の生を全うすること。
人生においての成功、現世においての成功と、芸術性の成功は両立するのか?
ジャンルは違いますが、一つの分野において頂点を極めようとする人たちのドキュメンタリーとして
「二郎は鮨の夢を見る」
「鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言」
などもご参考までに上げておきましょう。