劇場公開日 2017年3月4日

「草壁先生の想いとラストシーンの解釈」ハルチカ ねいんとさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5草壁先生の想いとラストシーンの解釈

2017年3月8日
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鑑賞方法:映画館

泣ける

楽しい

興奮

ここでは物語のテーマと直結する草壁先生の想いと、よく話題に上がり物議をかもしているラストシーンについての考察を通して、映画全体としてのレビューを記したいと思います。
<以下ネタバレ>

まず草壁先生の想いについて考えます。音楽室で草壁先生の楽譜を見つけたチカが涙を流すシーンがあります。なぜ急に泣き出すのかわかりにくいですが、このシーンを注意深く見てみると、チカが手に取った楽譜は何冊もあり、曲が完成するまで何度も書き直されたことがわかります。『soloは1人という意味じゃない』『ゆっくり 焦らないで』と記述があることから、初心者のチカにあえてソロパートを担当させる構成にしていったこと、また1人で皆に追いつこうと苦悩するのではなく、その壁を仲間と共に乗り越えてほしいという想いが込められていたこと、そしてそんな仲間の大切さを草壁先生が「音楽」を通して伝えようとしていたことを、この時チカは知ります。
この草壁先生の想いは、保健室のシーンでハルタに「言葉」として伝えたメッセージ『「見上げれば」仲間がいる。1人で抱え込まなくていいんだよ。』と同じであることが重要です。

さらに、チカが入部してから程なくして曲が完成したことから、草壁先生はチカが部員集めに奔走する姿を静かに見守りながら、まだ廃部の可能性が高い状況にもかかわらず、吹奏楽部の再生を信じて曲を書き続けていたと考えられます。 書き直された楽譜と記されたメッセージを見て、最初から自分を信じてくれていた草壁先生の口には出さない想いを知り、チカは涙を流した。

また部の存続が確定する前から、初心者ながらも懸命にフルートを練習していたチカのためにフルートのソロパートを用意していたことから、『春の光、夏の風』という曲自体チカのため(チカを中心とした吹奏楽部のため)に作られた曲であり、「部員」と「吹奏楽部」の関係性を「楽器」と「曲」に見立てて組み込み、吹奏楽部を再生させたハルタとチカのソロパートの成功をもって曲(=吹奏楽部)が完成する、という構成にしていったのだと考えられます。

また草壁先生がハルタに「言葉」で伝え、チカには「音楽」で伝えようとした「仲間となら乗り越えられる」というメッセージは、ラストシークエンスにそのまま直結しており、この映画のテーマにも深く関わっています。ハルタにだけ「言葉」で直接メッセージを伝えたのは、ハルタがいつもチカの側にいて、チカを信じて見守る存在であることに気づいているからです。
その想いを知っているハルタだからこそ、草壁先生の想いに涙を流すチカに、そっと無言でハンカチを差し出すだけのシーンに、確かな優しさと力強さが感じられるようになっている。そしてその後のコンクールからエンディング直前のラストカットに至るまで、一貫して静かにチカを見守るハルタの姿が描かれます。そこに草壁先生の介在はなく、この時点でハルタが草壁先生の代わりにチカを見届ける存在として、草壁先生と同位の存在になったことが自然と表現されています。

本編では語られませんが、壁にぶち当たり音楽家の道を断念したという過去を持つ草壁先生から、テーマに関わるメッセージが2人に語られることの意味を考えた時、ここに「草壁先生→ハルタ→チカ」という想い(テーマ)の伝承関係が見えてきます。その想いの伝承と3人の関係性は、楽器を使って描き出されたラストの合奏シーンへ繋がり、表現されます。
渡り廊下にいるチカが「見上げる」先には屋上から見守るハルタ(仲間)がいて、ハルタの向かいの屋上には、彼と「同じ高さ」から彼に向けて指揮を取る草壁先生がいる。ここまで述べてきた3人の関係性が全てここで表現されています。

誰もが成功できるわけでもなく、努力の末に望みが叶うわけでもない。これから先、多くの人が失敗や挫折を経験する厳しい世界が待っている。しかし、その世界は美しい。草壁先生が経験した挫折の先に見た世界の姿、そして伝えたかったその想いは、チカが望んだ「学校に吹奏楽の音を乗せたい」という「ささやかな」願いを叶えることで示されます。そこに言葉はなく、「音楽」と優しく見守る「眼差し」だけがあり、それが逆に高いメッセージ性を持ち、より一層の感動を伴いながら深く心に響いてきます。

さらにこのシーンがすごいのは、曲の完成にはさらに「物語の完結」という3奏目の意味が込められている点です。草壁先生(指揮)から受け取った想いがハルタ(ホルン)からチカ(フルート)へ、そして学校中へと響き渡り、曲にこめたそれぞれの想い、テーマ、さらに物語とが共鳴し、渾然一体となりながらラストを迎えます。

この3奏目がもつ意味はキャスト全員が踊り出す問題のシーンについての考察につながります。このシーンはミュージカルと捉えたとしてもあまりにも唐突で現実離れしていて、ふざけているようにも見えます。しかしこれはミュージカルというよりは、主役の2人と草壁先生以外のキャスト全員(それこそ校内の教員、生徒含めて全員)が演技から離れ、チカのフルートの成功を持って物語の完結を迎えた映画の舞台(校内)から舞台の外(中庭)に解放され、打ち上げに興じているというメタ的な表現と捉えることができます。校内各所にあったはずの楽器が瞬時に全て中庭に並べられ、部員達も3人を残して全員中庭に出てきて、物語の前後関係や登場人物の立ち位置も関係なく、キスしたり踊ったりして騒いでいるというのも、不自然で明らかに意図的です。無人となった校内をパンするカットが数カット入りますが、中庭に比べ不気味なほど無音にすることにより、物語の「舞台」から全て人がいなくなったことが表現されています。

先程述べたように曲の完成が物語の完結を意味すると考えると、校内(映画の舞台)上空にいる3人だけはまだ物語の中にいて、それ以外の中庭(舞台の外)にいる物語を終えた出演者たちが、メタ視点でチカの演奏よって紡がれた物語の完成を祝っている、と捉えられます。

「映画の中」に登場させた曲に、「物語」という本来「映画の外」にあるはずの構造上の意味を与えることで、その曲の完結をもって物語を一度完結させ、さらに映画を継続させることで「物語の中と外」を学校の校内と中庭という「映画の中」の舞台に表現し、さらに「映画としての」ラストシーンで、その2つにまたがる舞台を本作の題材である「音楽」で一つにまとめ上げつつ、テーマの回収も同時にやってしまうという、恐ろしく意欲的なラスト。それを多少の違和感を与えつつも破綻なく仕上げているのはすごいです。

これは唯一原作者から言われた「ハルタとチカ、草壁先生の3人を出せばあとは何をしてもいい」という要望に対する、監督なりの回答とも取れます。
そして最後には草壁先生も物語を終え、主人公ハルタとチカの2人だけのカットとなり「ハルチカ」として物語は完結する。

映画全般にわたり言葉は可能な限り省略され、音や情景、表情や仕草によってのみ意図的に演出される登場人物達の心の葛藤や関係性が物語の随所に散りばめられている。
それら全てがラストの1点に向かって集束され、草壁先生が作り上げた曲=物語の完成という形をもって、映画として完成するという構造になっています。

また原作にあった推理要素は薄まっていますが、散りばめられた細かな表現や演出から登場人物の心情やバックに隠されたテーマを観る側に想像させるという手法は、ある意味では推理映画的であり、ここでもメタ的な構造を意識した映画の構成が成り立っているといえます。

このように、テーマや物語に対する言葉や音楽の捉え方、映画の構造上の挑戦的な作りを見る限り、とてつもなく意欲的な作品であり、監督は作家性を全く諦める気がないように思えます。ここまで作家性をぶち込んでいる女子中高生向けの映画はなかなかないでしょう。オススメです。

ねいんと
ごうさんさんのコメント
2024年11月12日

そういう見方もあるんかぁと気づかされました。

ごうさん
ねいんとさんのコメント
2017年3月19日

>kamisama さん
どーもありがとうございます。
この映画はラストシーンが最高ですね。
kamisamaさんの他映画のレビューも参考にさせてもらいます。

ねいんと
映画大好き神谷さんChさんのコメント
2017年3月15日

激しく同意します。

ちょっと、ねいんとさんとは仲良くなりたいですね。

映画大好き神谷さんCh