FAKEのレビュー・感想・評価
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自分にとって酷い仕打ちと思う出来事にも意味がある
人間、やれば出来るじゃないの?
というオチで良かったのかなと思いました。
人生って結局、今まで逃げてきたことを最終的にやらされる時期が必ず訪れますから、ゴーストライターということが問題として取り上げれたことは単なるきっかけに過ぎないんですよね。
人ってどん底を味わうまで、自分では何がダメだったのか自覚できない生き物だと思うんで。
この映画そのものがFAKEだったら身もふたもないですけど、とりあえずいい音楽を作れる人ってことは証明できたんだと思います。
「衝撃のラスト」後の、衝撃
ゴーストライター騒ぎで世間を騒がせた、佐村河内氏に密着したドキュメンタリー映画。見終わった後に残ったのは、佐村河内夫妻の愛情に対する敬意と、「衝撃のラスト」によるモヤモヤ感。この映画が描いた「真実」は、佐村河内氏と新垣氏のどちらが嘘つきか、というレイヤーではない。罪人として石を投げられた或る夫婦、彼女たちのその後の生活という「真実」だったと思う。
ふたりが弱弱しく寄り添う姿は、報道過熱と佐村河内氏を嘲笑して石を投げた我々が生んだものだと思う。その意味において、佐村河内氏に同情してしまうような撮り方をした本作の終わり方は、あのラストをおいて他にないのだろう。
ところで映画館の帰り、ひとっ風呂浴びに近所の銭湯へ行った。番台を抜けると全裸の男が鏡の前に立って、サイドステップを踏みつつ軽快なリズムで「アッポーペン!パイナッポー・ペン!」と歌っていて、こりゃ随分なおfakeだなって思った。
FAKEだらけ
町山智浩がラストはヤラセだろと指摘していたけれど、実はラストのみならずいろんなところに怪しげなシーンを混ぜているように思える。
取材を申し込んだが断られたというテロップは?
警官は本物?
取材に来た人たちは本物?
そして、あのいかにもチープな曲は、本当は参照元があるのではないのか?
森達也は佐村河内守という絶好のキャラクターを巧みに使って、佐村河内守という個別の疑惑を一般化しようと試みているように見えてしまう。なんとしたたかな。
初めてのドキュメンタリーでしたがテレビ見てるみたいだった
このゴーストライター問題ははじめは興味がなかったが、なぜだか神山氏著のペテン師と天才が評判の様だったので読んだところ、なるほどなるほどこういうことだったのかと感心させられた。
その後、テレビや雑誌で新垣氏がもてはやされていて、なんか興味が薄れていたが、ドキュメンタリー映画ができたとのことで、試写会の評判が良いので鑑賞してみた。
雑誌の取材で外国人記者から、ほんとに音楽を作れるのかというかなり厳しい質問を浴びせられ、答えられなくシーンが印象的だったが、後半、佐村河内氏が何年かぶりにキーボードを購入してそれを自ら弾いて、打ち込みをしながら、曲作りを行っていき、その完成した曲と共にエンドロールとなり、え、もうそんな時間がたったのかとびっくりさせられた。
森監督が最後に佐村河内氏に私に隠していることはないですかという質問をして、それに怯むシーンで終わっている。
結局、雑誌、TV、マスコミ、ライター、作曲家、誰がFAKEなのかを最後に突きつけられ、なにか後味の悪さを引きずって帰らされた気がする。
豆乳、ケーキ、音楽
ある人のある対象に対する行動が、端から見たら全く理解不能でその動機が想像できないのであるが、実は本人にとっては一瞬の迷いなく一点の曇りなくストレートにその対象に対する溢れんばかりの愛に従ってとっている自然な行動でしかない、ということに気づいた時にもの凄い感動にとらわれる。最低でも3回もこの映画でそんな瞬間に立ち会うことができる。豆乳、ケーキ、音楽。
よかった
すっかり佐村河内さんの味方になって新垣さんが憎くて憎くてしかたがなくなってしまったのだが、最後の曲も佐村河内さんが本当に作ったのか分からない。どこまでが本当なのか、全然わからなくなってしまった。
新垣さんが出ているバラエティ番組を暗い目で見ている佐村河内さんが気の毒で仕方がなかった。
せめて楽譜の勉強くらいすればいいのにと思う。新垣さん以外の人と組んで作曲活動をして、才能を証明すればいいのではないだろうか。
もっとどぎついドキュメンタリーを想像していたけど、優しい雰囲気だった。
結局何が撮りたかったのか
フジテレビのくだりはおおむねあの通りなのだろうし、だとしたら酷い話だと思うのだけど、それについて佐村河内氏の総括があって初めて価値のあるドキュメンタリーたり得ると思う。『テレビなんてそんなものだ』みたいな総括を森監督がするんじゃなくて。
『怒りではなく悲しみを撮りたい』という冒頭の森監督の言葉は、裏を返せば悲しんでないなら悲しまなければならないし、怒っていても知ったことではないと言っているわけで、つまりは森監督の都合に佐村河内氏の方を合わさせて撮りたい絵図があったんだろう。
だから新垣氏の映像を見せたり、作曲しろと言ってみたり、森監督自身が佐村河内氏にいろいろ働きかけてるし、佐村河内氏より森監督のほうがよく喋ってる。
ただ、その割には結局何が撮りたかったのかはよくわからなかった。
というより、人目を避けてずっと家に閉じこもって、たまにメディアの人が取材に来て、というくらいしか撮れなくて話が作れなかったんだろうな。
神山典士氏や新垣隆氏に取材を申し込んで断られたって、まぁそうだろうなとしか思わなかった。
神山・新垣氏が逃げ回ってるというより、単に森監督が取材を取り付けるために、そんなに頑張ってないんだろうと。
妻以外誰一人味方のいない佐村河内氏がフルオーケストラの交響曲を作曲する様はある種異様で、あそこで作られた曲がどこかで人の手で演奏される可能性の絶望的なことに思い至るなら、そこに悲愴感・寂寥感を見出だすことも可能ではあるけれども、それよりも裸の王様・佐村河内氏と仕立て屋・森という滑稽のほうがしっくり来るように思った。
真実とは何か
「わかりやすさ」を求める世間は怖い。世間に翻弄される佐村河内氏と家族の苦悩。彼のスキャンダルを踏み台に世間に注目され、名声をモノにした人たちと、それをもてはやす世間の軽薄さを、この映画はいやらしく炙り出す。ぐっと、観客を佐村河内氏へのシンパシィーに導いた監督が、映画のラストに放った毒にやられた。最後の最後に空中に放り出され、訳が分からなくなったまま席を立たされる。結局真実とは何なのか、を鋭く問う映画だった。
人間のおかしみと美しさ
面白かった。それに、最後まで緊張しながら観た。
もともと森達也さんのファンで、かなりの前評判(軽いネタバレも含む)を目にしていたので、ある程度内容は予想がついているつもりだったので、こんな緊張は想定外だった。
怖い映画だった。
渦巻く悪意の中をよろよろ歩きながらさまよう人間を苦しく見守る映画のはずだったけれど、やはり私は笑ってしまった。
嘲笑ではなく、滲み出るおかしみのせいだ。
それはひとえに佐村河内守という人のキャラクターが、かわいくて仕方がないせいなのだ。
長い髪、かけたり外したりするサングラス、感応性難聴という伝わりずらい障害、「聴覚障害者にしては」流暢な語り口、
彼の風体すべてがあまりにも彼を天才のそれらしく、また胡散臭く見せてしまう。
おそらくこの人は社会の機微に無頓着で、人と関わるときには無邪気な、よくいる善良で繊細な人なんだろう。
もっとうまいやり方がいくらでもあるのに、それができない。
自分が信じているように、他人も自分を信じてくれていると安心している。
巷で噂されているような「障害者を語る金に汚いペテン師」のイメージとはかけ離れている。
もし新垣サイドが潔白であれば、テレビや雑誌で語ったことと同じことをこの映画でも語ればよかったのだ。
裁判でも同じように振る舞えば良いだけだ。
それをしない彼らにも、後ろ暗いところがあるのは間違いない。
「自白した共犯者」として免罪され、自らをプロデュースし、高い社会性で成り上がっていった姿を見るにつけ、ちょろい仕事だと言わんばかりだなと感じた。
この映画を見ながら、私は佐村河内さんを信用しつつあった。
彼が最後の問いにシンプルに答えれば、私はそれを信じただろう。
しかし、映画はそれを映さなかった。
ただ、辻褄は合っている。納得はできた。
この人はおそらく黙ってしまう人なのだと。
それを図星と捉えることもできるし、この人の良心と捉えることもできる。
そんなことは、「主観」であり「真実」とはなんの関係もないことだからだ。
一体誰が稀代の?
誰が騙しているのか?、誰が本当の事を言っているのか?
これ程、ドキュメンタリーに『FAKE』をコーティングした映画は始めてだ。
全てがマヤカシで、全てがウツロ・・・ しかしそれがまた鼻につく位、人間臭い映画である。
多分、ドキュメンタリー部門だと洋画に負けていないのではないだろうか?
ラストのラスト、稀代のエンターティンメントの『ウーン…』はとても秀逸で、オトボケの極地を垣間見た!!
監督意地悪い
佐村河内さんに興味無さそうなところが・・。奥さんへの愛を言わせるところとか、証明するためには作曲するしかないですよ!と言うところのしらじらしさ・・・
佐村河内さんの騒動がどんなものだったか良く知らないで映画を観たから、新垣さん・神山さんサイドが悪そうに見えたけど、映画では意図的に描いてないところもやっぱりあるようで、Yahoo!ニュースに飯田一史さんが書いてた記事が面白かった。
あと町山さんの映画むだ話も面白かった。
みんなが一世にある方向を向くことは恐ろしいしな。それを茶化したり搔き回したりするようなものは必要だと思う。
でも、やっぱり、佐村河内さんに対しても新垣さんに対しても尋ねてくるテレビの人たちに対しても私たち観客に対しても意地悪というか視線が冷たいというか・・・森監督はちょっと怖いなぁ。
意外とチャーミング
この映画により、佐村河内氏の見方や偏見が多少なりとも変わるのは、間違いないと思われます。
少しでも変わった人間が、私です。
氏が言っている事だけを信じるとは流石に言えませんが、この映画を通して、
耳が悪い件については、本当だったんだなと理解しました。
あの会見の裏側に、大手週刊誌の某記者が、あんなやり口を使っていたのかを知り、
腹立たしさと氏に対する同情を率直に感じました。
マスコミにアレだけ叩かれたんだから被害妄想が強くなるのは仕方ないとしても、
流石にコレは違うと思われるドラマ番組の紹介の帯に対してまで私を貶める揶揄ではないのか?
と憤っている姿を観た時、氏には申し訳ないのですが、少し天然で、意外とチャーミングな人なんだなとも思ってしまいました。加えて、大の豆乳好きも含めて
結構、気にしいで、テレビや雑誌をよくチェックしているのも意外でした。
特に、新垣氏に対する言動や行動に対するチェックは細かくしているようでした。
やはり、真実をあぶり出す為にも、佐村河内氏と新垣氏との話し合いは必要不可欠で、何故、告発された新垣氏の方のみが拒否しているのかが不明であり、逆に新垣氏の方に不信感が出てしまうので残念でもありました。加えて、監督のインタビューも拒否という事に関しても…
結局の所、真実は、当事者2人にしか分かりません。
個人的には、ラストの方で、ある重要部分の真実の片鱗というか氏が持っている才能~魂の発露みたいものが少しでも感じられたならば、佐村河内氏に対し奥さんに対し親御さんに対し少しでも救いになるのでは…いや、そうであって欲しいと、勝手につい思ってしまいました。
人は、大なり小なり嘘をついて生きています。その切り取り方によって、正誤の判断を大きく偏らせる事が往々にしてあります。
この騒動は、当事者が悪いのは、言うまでもありませんが、マスコミの対応次第で、どちらの方にも大きく偏向された形で転ぶんだと今に始まった事では無いけれど、改めて、その危険性を感じることが見て取れると思われます。
追記
マスコミの偏った情報や嘘の垂れ流しに惑わされる事なく、あらゆる隠蔽された真実をさらけ出し、衆目に知らしめ、普通に日常を過ごす事と同じ様にこれらの事をごく普通に考えられる世の中になるように、大袈裟ですが、私もアクションを起こさねばならないと感じた次第です。
タイトル通りのfake
ドキュメンタリー映画と言ってるがこれはfakeドキュメンタリーじゃないのか?
ただ通常fakeドキュメンタリーというとドキュメンタリー仕立ての手法で作る映画を言うけど、これは主人公佐村河内守氏がある意味病的な嘘つきであることを見透かした監督が彼が嘘を重ねていくように、そういうことを言うように仕向けた結果のドキュメンタリー作品。
猫の使い方とかもあざとい演出を見せてこれがいわゆるドキュメンタリー映画ではありませんよということをちらつかせている。
入れ子構造のドキュメンタリー
佐村河内含めて、出てくるヤツらがみんな嘘つき。マスコミ、監督も。
ただ佐村河内って、答えにくい質問されると間をとって嘘つくんですけど、奥さんを愛してるかという質問には即答する。あと、猫がとても幸せそうできっと佐村河内自身も悪い人ではないのだろう。動物は嘘をつけないから。
この二つは少なくも真実なのではないか?
というある種の希望を台無しにして、全部作り話にしてしまう最後の12分。監督がタバコを止めることに動揺する猫すら捏造できてしまう。ベタ劇映画的な絵面で二人の愛すら陳腐化してしまう。
ドキュメンタリー映画としては反則に近いどんでん返しだと思いますが、佐村河内事件なので成立する手法だと思いました。嘘だらけの佐村河内をやらせドキュメンタリーで描くっていう。
結構衝撃的な内容
結局あの一連の報道は“祭り”だったのだろう。分かってはいたが、日本のメディアは真実が何か、はどうでもよくて数字がとれるかどうかが重要なのだ。絶賛もバッシングも、彼らメディアにとっては数字さえ取れれば同じことなのだ。作品中、海外のメディアも一社だけだが取材に来ていた。その取材も記者自身が納得するかどうかが焦点で、日本のメディアでは恐らくその質問は出なかったのではないかと推測する。近い将来(実はすでに現在でも?)日本人より一部の外国人の方が日本国内の事件について、より詳細に知っているなんてこと普通に起こりそうで(すでに起こっているのかも・・・)何とも実にイヤな気分にさせられた。個人的には必見の映画と思う。
共犯関係
私は佐村河内氏をほぼクロだと決めつけて、作品を鑑賞し始める。
佐村河内氏は聴覚障害者ではないのかもしれない。作曲することができないのかもしれない。もしかすると嘘をついているのかもしれない。しかし、この作品は私の期待を反して、佐村河内氏個人が起こした捏造物語ではなかった。
森監督は、撮る側も撮られる側も、作る側も作り出される側も、共犯関係であるということを暴きだした。更に、捏造を捏造と疑わずに受けとる私達をもあぶり出し、ある問いを投げかけた。
映画をニュースをテレビをどの眼で見て、どの耳で聞いて、どの頭で考えたら良いのだろうかと。
佐村河内氏が飽きられれば、メディアはネタを量産し「FAKE」を仕込み続ける。某タレントの不倫報道、某野球選手の薬物騒動、某歌舞伎俳優の、某、某、某。
しかし、私は何の根拠もない「FAKE」を目にした時、頭の中で繰り返し繰り返しこの作品のことを思いだし、そして自問し続けることになるだろう。捏造を受けとるという自問を。
猫の眼にうつるもの
わりと話題になってる映画のはずなのに、渋谷の一館でしかやってないってどういうことなんだろ?
ラスト上映の3時間前に満員締め切りになってた。早めに行った方が良い。注意。
あと、手ブレがかなりキツイので、酔いにも注意。
ラストは、「ここで感動したら負け」と思いつつも感動して眼がうるうるしてしまい、この感動も含めてFAKEだなんて、なんて凝った構成なんだ、と監督の策士っぷりに驚いた。
ほんとに凝った構成。
出だし、明らかに監督の言葉に反応してうなずく様子が映り、「やっぱり聞こえないってウソなんだな」と思わせる。
観客の興味は、「ホントは聞こえてんだろ? ほら、よく言葉の反応見てると分かるよ…。聞こえないって演技も過剰すぎてバレバレだよ」というところにうつる。
佐村河内さんの「うかつさ」に逆にはらはらし、「もうちょっとうまく隠さないと…」とすら思ってしまう。
しかし、次第に「本当に聞こえてないのかも」と思わせる描写が多くなり、神山さんや新垣さんの取材拒否で、いったいウソをついてるのはどっちなのか、確信が持てなくなってくる。
ほんとのとこはどうなんだ?ともんもんとしたところで、外国雑誌の核心に迫る取材で、この事件のある程度の真相らしきものが明らかになってくる。
聞こえているか聞こえてないかもはっきりとしないし(本質的に証明することは不可能)、実質的に作曲したのがどちらなのか、ということもはっきりしない(主観の要素が大きい)が、実は「ディテール」でしか語れない部分がある。
日本のテレビの取材の不完全さがあらわになるのは、この瞬間だ。結局日本のテレビは、「わかりやすいストーリー」「わかりやすい善玉、悪玉」が欲しかっただけで、実際はどうだったのか、には関心がないことが明らかになる。皮肉にも外国人の取材によって。
そして、観客が、「やっぱり佐村河内さんて作曲能力ないのね。楽器すら使えないのね。自分で思い込んでるだけなのね。口だけヤローじゃねえか」と思ったところで、衝撃的なラストの展開。
まさか作曲なんかできない、と思い込んでしまっているところに、あの曲、そしてエンドロール。これは感動するな、という方が無理。
ここで感動したら、あの薄っぺらいテレビで佐村河内さんを短絡的にペテン師だと思ってしまうことと同じじゃね?とわかりつつも、感動せざるを得ない。
だって、無理だ、不可能だ、と思ってることをやってしまうんだから。「セッション」のラストの展開にも似ている。
そしてエンドロール後。監督の最後の問いかけに、長く沈黙して口を開く。その瞬間終わる。完璧な終わり方だ。「インセプション」を連想した。
ドキュメンタリーで、時系列で実際の出来事が展開されているだけなのに、あまりにドラマチックで、全く飽きない。
「謎」と「裏」が次々に提示されていって、観客の先入観をゆさぶり、テレビの裏にある滑稽さや残酷さを浮き彫りにする。
普段見慣れているバラエティ番組が、その企画段階や、笑われている当事者の視点から見ると、こんなにも印象が違うことに驚く。
この事件で一番の被害者は、佐村河内さんというよりはむしろ、新垣さんなのではないか、とも思った。
映画の最中、観客から何度も笑いが起こった。それは、テレビ局の担当者の振る舞いだったり、新垣さんの取り上げられ方だったりするのだけど、ドキュメンタリーの映像なのに、まるでコメディのように出来すぎた滑稽さで、滑稽すぎて残酷、ホラーにすら見える。
テレビは、僕らの頭をこんなに「馬鹿」にしてしまったんだ、と思うと、背筋が凍る。
猫の眼が印象的だった。きっと、何も考えてないんだろう。でも、人間の様子をじっと見ている。ときどき、人間の言葉に反応してるように見えるときもある。
人間の側の複雑な事情、悩みなんかは、猫は分からないし、そもそもなんの関心もない。はっ、と思ったのが、そういう、全く違う価値観をもっている存在が身近にいるって、すごい救いだなあ、と。
どんな人間にもとる行為をしても、猫だけはその人間を軽蔑することは絶対にない。だから、嘘をつく必要も全くない。
奥さんがたんたんとしてるのも良かった。だんなに寄り添いながらも、そんなに作曲に関心があるわけでもない。たぶん、誰がウソをついてるかなんていうことにも、あまり興味がない。でも一緒にいる。たぶん、ずっと一緒にいるんだろう、この夫婦は。その、ただ自然に、当たり前に、一緒にいること。なんて素敵なんだろう、すごいな、と思った。
ねえ本当は何か本当があるはず
ハラハラしながら観賞しました。
聴覚障害を疑われるときはムキになるんだけど、作曲のくだりになるとしどろもどろになるところとかはドキドキ!
外人ジャーナリストのシュートな質問に死体みたいな顔になっちゃった佐村河内さんを見ると、
「守、よく頑張った!もう楽になっちゃいなYo」
とか思っちゃった。
曲の指示書がヤバくて笑ってしまった。
内容の中二感がなんともたまりません!
あれは静止画で見たい。
きっと彼はイメージが豊かな人なんだろうね。
作曲家としては、シンプルな歌メロくらいはできる人かなと思った。
元ロッカーだったみたいだし。
ラスト曲はまさにFAKEかな、って思えたけど、曲はキャッチーな旋律で押し切るようなポップクラッシックなので、自作だろうと思いました。
共作曲の制作過程を想像すると、彼は自身が曲の核と捉えているであろうイメージや構成、あれば主旋律とかを新垣氏に伝えて、あとは丸投げしてたのだろう。
新垣氏を技術者と呼んでいたけど、曲のグランドデザインは自分だ、だから自分が作曲者なんだって思ってたんじゃないかな。
ドキドキムービーだったけど、一番のドキドキは夫婦愛でした。
監督に促され、愛を確かめ合うシーンはウルっときました。
あんなに腹の据わったパートナーと関係を築けた佐村河内さんは本当に幸せ者だと思いました。
ラスト曲のシーンは、監督の足よりも香さんの他の指の陰に隠れても僅かに見える薬指の輝きが印象深いです。
圧倒的な衝撃と愛しさに、胸がいっぱいになる
まず思ったのは、映画として完璧な構成だということ。佐村河内さんの耳が聞こえるのかどうかという疑問から始まって、きっと聴覚障害なのだろうと感じたところで、でも本質は実はそこじゃなかったんだよ。耳が聞こえないということなんて別に疑ってない。佐村河内さんが音楽ができるかできないか、そこでしょ?証拠を見せて?って外国人記者からの問いかけ。それは、世間がこの一連の報道に対して辿るであろう反応の軌跡を、森監督によって意図的に辿らされているともいえるのかもしれない。最後は森監督の提案から始まる、カタルシス。どうしたって、佐村河内さんを応援したくなる。もう新垣さんは必要ないよね。
だけれども、誰が善でも悪でもないんだよ。前半どちらかといえば悪側として描かれていた新垣さんが、後半、サイン会で森監督とぜひ話したいと告げる。後日取材を申し込むと[事務所から]拒否されたというテロップ。テレビの制作者に信念はないという、森監督の言葉。新垣さんもまた、真実を伝えられずに苦しむうちの一人なのか?テロップが、森監督の言葉が、新垣さんの映し出され方が、それを示唆する。示唆するだけで、そうかもしれないしそうでないのかもしれない。佐村河内さんは、怠慢し、人を欺いて、新垣さんはそれを告発した。メディアはそれを、[一番面白くするため]に、信念の欠けた演出で、飾り立てた。だけどメディアにだって、[一番面白くする]という目的がある。一人ひとりが自分の役割を果たそうと、主張を通そうとした結果が今の状況なのだとしたら。世界は混沌としているし、この映画はそんな世界の一部を切り取った、ほんの一場面にすぎない。どの一場面を切り取るかによって、見え方も、世界そのものも、きっと全く違うものになる。それでもそんな一場面の中に、カタルシスは訪れる。それがfake かどうかなんて、もはや関係ないくらいに、圧倒的なかたちで。だって、この映画の主人公は、佐村河内守さんだから。
映画が終わったと思ったあのとき、拍手したいと思ったよ。本当は終わってなかったけど。笑。後から、森監督はフィクションとノンフィクションの境界線は酷く曖昧なものだと言っている人だと知った。佐村河内さんの最後の沈黙が、あの問いかけを、[自分を守るために事実を脚色したところはありませんか?]と変換した、自問自答に対する沈黙だといいな。
豆乳、ケーキ、コーヒー、猫、タバコ、電車の音。進んでいく物語と、変わらない日常をつなぐアイテム。撮りたかったのは本当に[佐村河内さんの悲しみ]なの?それすらfake というタイトルの前には危うい。確実にfake じゃないのは、くすりと笑えて少し虚しくて愛しくて優しい、日常そのものなんだよって。繰り返し出てくるアイテムたちに、一緒にいることを後悔なんてしてない、と言った奥さんに、そんなことを言われてる気がした。
森達也監督おもしろい
「レンズに真実は写るのか?」って聞かれた気がするね。
結局ほんとのところは何なのか、観てるだけの僕らは確証もてないと思った。
自分で色々と調査してけば、自分なりの見方ができて、納得すると思うけど、そこまでする話じゃないんだよな。
色んな人が画面に映るけど、画面を通じて一番伝わるのは「森達也監督がどんな人か」ってところだなと思ったよ。面白い視点で撮るし、ラストも題名も面白いと思ったな。
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