FAKEのレビュー・感想・評価
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ぼくにはとても怖い映画だった。
人は見たいものしか見ない、とは定型句みたいなものだけれど、見たいものを見せることに長けたメディアとの共犯関係が、誰かの人生を無邪気に、徹底的に毀損しているのだと思うとゾッとしない。あの頃、佐村河内氏を面白がるような、無責任な言葉を、自分はネット上のどこかに書き込まなかったか。面白おかしく仕立てられた<真実>の拡散に手を貸さなかったか。いま、この映画を観て、しかつめらしく真実の不確かさのことなど考えみたりしているおまえは何様なのか。
結局のところ、これはあの騒動の真実に迫るとかそういった類の映画では、たぶん、ない。「わかりやすい」「面白い」「自分に都合のいい」真実という物語を捏造している、あるいは、捏造に加担しているぼくたちの無頓着を糾弾している、そういう作品なのではないか。いや、そんな風に思えるのは、ぼくが疚しく思っていることの裏返しなのかもしれない。少なくともぼくは、あっけらかんと笑って観られるほど、自分に自信が持てない。心のある部分を酷く打ちのめされてしまった。
心底、怖い映画だった。
0%と100%の間にあるもの
タイトルは、劇中で森監督が佐村河内守さんに問いかけた「アナタはボクを何%位信頼していますか?」という言葉から(文言はちょっと違ったかも)。
自分の経験に照らしても「この人の言うことは20%位しか真面目に受け取れないなあ」とか「この人は8割方信用して良い」とかあるので、ココは腑に落ちた感じ。勿論この判断はある程度の付き合いが前提だけど。
あとは思ったことをつらつらと。
(多分に演出もあるんだろうけど)海外と国内の報道取材の質の違いの見せ方が容赦ない。テレビの人、全くメモとか取ってなかった雰囲気だったけど、あれで何が分かったのかな。
「長年連れ添った配偶者の愛情」と「猫の可愛さ」の価値は不変。これだけはこの映画でガチ。エビデンスとかいらないよね(あえて言えばこの映画自体がエビデンス)。
一体、何を見ていたのか
自分はゴーストライター騒動が起きるまで佐村河内守という人物を知らず、なんとなくの興味でニュースやワイドショーを見てた程度なので佐村河内氏に対して怒りや失望も無ければ好意的なものも無い。
が、それ故に佐村河内守という人物が見れば見るほど分からなくなっていく。何が真実で何が嘘なのか、何を見せて何を隠しているのか。
「考えもせず全てを見たつもりになってんじゃねぇぞ。」と言わんばかりのラストの余韻が恐ろしい。
「トルコ行進曲」をちょっとアレンジしちゃう佐村河内守
これは凄いドキュメンタリー。フェイクとは嘘とか贋作とかのことやけど佐村河内守が嘘をついているのかまたはこの作品が嘘をついているのかまたはタイトルが嘘で映るものみな真実なのかまたは…信じるか信じないかは自分次第。惹句の通りラスト12分の展開は誰にも言えないなあ
「トルコ行進曲」を思わずちょっとアレンジしちゃう佐村河内守がチャーミングだった
佐村河内守がコップに豆乳をなみなみに注ぐシーンも面白かったなあ。ご飯を食べる前に豆乳をワンパック空にするというルーティーンがあるとのこと
いや俺も完全に騒動を面白がった側の人間やし心が痛くなったよ。ただそれまでの自分の認識を揺さぶられることは文字通りの意味で「面白い」よな
関係ないけど小宮山悟も魔球「シェイク」とそれのフェイント「フェイク」で野球ファンの変化球に対する認識を揺さぶったことは記憶に新しい
損はしない1本!
前日、「貞子vs伽椰子」を見た口直しの意味もあって、鑑賞。
結論から言うと、佐村河内守を巡って、世間が大騒ぎしたその「真実」について、森監督は一定の答えを示した、と思う。
彼の奥さんが、手話通訳してないのに、うなずいているように見える場面もあったりして、彼の耳が聞こえるかどうか…という点については最後まで疑問は消えない。
しかし、現代のベートーベンと言われたとしてもおかしくないような、その「実力」は見せているのである。
いや、そのこと自体も、タイトルにあるように「FAKE」なのかもしれない。
その判断を見る者に預けている点で、「真相」を想像させる作品になっているのはすごいことだ。
映画好きを任ずるのであれば、見ておくべき作品。損はしない。
上映館が少ないのが、残念である。
黒か白かよりも大切なこと
明らかにどこかで嘘をついているのがわかっても、魅力的な嘘をつく人と、人を遠ざける嘘をつく人がいる。
例えば、
ティムバートン作品の「ビッグ・フィッシュ」に出てくるホラ吹き父さんのような人が前者。
400人いた友達をすべて失ってしまった佐村河内は後者だ。
佐村河内は、楽曲の制作において、ほぼ全てが共作であったのに単独制作だと欺いていた。そこは大衆の前でカミングアウトしているし、世間もマスコミも周知で既に過去のものになっている。
それでもなお佐村河内は、森監督や、外国人ジャーナリストの問いかけに対し、頑なに、知られたくない何かを守っている。
自分のためなのか。誰かのためなのか。
罪の意識なのか。
何か、うっすらと嘘をついている、ように見える。
それが自分を守るためだけだとしたら、うんざりするほど魅力のない嘘。
周りの近しい友人たちが離れていってしまったのは一つの事実。
佐村河内自身が白か黒かは、
そこまで大事なことだろうか。
それより、
人を惹きつけるか否か、なのではないだろうか。
どんなに嘘をついてるとしても、
魅力がありさえすれば、それでいいと思う。
なんにも過去から吹っ切れていない表情。くすぶっているオーラがハンパない。
そんな佐村河内を見ていると、息苦しくてたまらなくなる。
堂々としろよ!!(怒)
またそのフリーズ顔やめろ!!(怒)
と同時に、平然と強い態度をつき通せない、ナイーブな人柄も垣間みえるのが可愛らしいところ。豆乳好きすぎて可愛すぎ。
うーん...。
耳ってわりと聞こえてるんじゃないの?
なんでそれが聞こえて、それが聞こえないの?
新垣は接触したがってるの?何なの?
あれ?新垣が嘘をついてるのか?
楽器弾けるの弾けないの?
聞こえないのにOK出せるの?
てか本当に音楽を愛しているの?
映画全体を通して、
いーろんな曖昧なグレーが漂いまくる。
そんななか突如現れる、
テレビ局の、限りなく黒に近い黒。
そして、
バッキリ輝きを放っている、
佐村河内への愛。
グレーにまみれているからこそ、
確固たる奥さんの愛が、
くっきりと浮き彫りになって感じられる。
(それが佐村河内だけに対してじゃないのも素晴らしい。ケーキのバリエーション!)
この映画には、
間違いなく愛が記録されている。
(遠出したときの腕を組んで歩いてるカットなど、さりげないけど本当に美しい)
そこは本当に、間違いない。
信じる、信じないとかではなく、
どうであれ受け入れるのが当たり前だと。
そんな奥さんの姿勢は、ある種受け取る側のひとつの答えを提示しているのかもしれない。
疑うのも疲れるでしょ?楽になれば?
とも言われているような気がしてくるのは、大げさだろうか。
さて、
衝撃のラストシーンは、
白か黒かどころではなく、
本当にいろんな詮索や想像ができてしまう。
いずれにせよ、ラストの曲は、共作の制作スタイルがメインだった佐村河内にとって、初の100%ソロ楽曲だろうし、彼はここから始まったのだという見方もできる。
本当に彼が作ったのであれば。
監督の靴下と最後の問いかけは、
「嘘にしたくなかったらてめえで本当に塗り替えてみろ」
という監督の、愛ある怒りではないだろうか。
白と黒とが衝突して、ゼロになった今(いうても見せかけのFAKEだけど)、ここからどう舵を切るかは、彼次第だ。
全部見てきた猫がしゃべれたらなあ、と思いながら。
なんちゃない。結局、この本人も、奥さんも、ノンフィクション作家も、TVプロデューサーも、新垣も、みんなFAKE。監督自身も、その自覚があるのだろう。だから、最後の最後に、あんな幼稚な音源を自慢げに披露した本人を担ぎ上げ、奥さんをも持ち上げて、「私を信用してます?」といまさら聞き、「何か隠していることはないですか?」と踏み絵を踏ます。
どう見ても、監督自身が本人の嘘を確信しているでしょ?
こんな内容(判断を客にゆだねるような)じゃなきゃ、本人の承諾を得られないからこうしたまでだ。正直、ところどころにはっきりと悪意のある編集はされているのに、それに気づかない本人は間抜けだ。
だって、耳が聞こえない人特有のどもったしゃべりじゃないし。たまに明らかにリアクションが早い(会話を聞き取れている)ときがあるし。父親の話が、全部聞こえてる反応をしているし。
おかしいよ、観てて。いま、確実に聞こえてたでしょ!って何度も思ったもん。
それに、音楽をやっていた人間が、譜面を書けないなんて、どう考えたってあり得ない。あの、指示書見せられて、新垣がバカにしてしまうのもわかるよ。
ほんとに、マスコミがでたらめを垂れ流したって主張するのであれば、「隠してないか?」と聞かれたときに、「ない!まだ信用できないのか!」と怒るだろう?
監督は、味方のフリをして懐深く潜り込み、世間に真実の一端を公開してくれた。その労力にはご苦労さんと言いたい。
上映回数増やしても、それでも満員。いまだ、世間の関心の高さを垣間見た。
フェイクドキュメンタリーっぽいドキュメンタリー
佐村河内氏のインタビューが大半で結局重要な事はあやふやなままラスト12分は!!と前評判では話題にしていたが特に何も無し意図的に疑問を残したままで単なる彼の取材映画
虚実皮膜の理
佐村河内事件の真実を求めて、作中の情報からエビデンスを捜すような見方をしたところ、最後に足をすくわれました。人は物語なくしては生きられない、見たいものだけしか見ない。何度も聞いて理解しているはずなのに、不盲の輪廻から脱せない自分を認識しました。
本当の「FAKE」は誰なのか…。
森監督のドキュメンタリーは、「A」「A2」共にリアルタイムで映画館にて観ていた為、「FAKE」も迷わずリアタイで鑑賞を選んだ。
世間で騒がれていた佐村河内のイメージが覆され、そして、如何にマスコミのやり方が汚いか知らしめさせられた。
佐村河内に有利な情報はわざと伏せ、ペテン師イメージを世間に植え付けさせる偏った報道をする日本のマスコミ…。
いや、発端となった文春の記事を書いた神山とかいうジャーナリストが一層偏った報道を煽っていたのが、本当に腹立たしかった。
一つの騒動を丁寧に描く事で、一体本当は誰が「FAKE」なのかが顕著に表現されていた。
そして、真顔で平気で嘘を吐く大人達が、これほどまで汚いやり方なのかと愕然とした。
佐村河内は、全てを失わされたけど、彼なりの出口が見えたラストを導いた森監督は、素晴らしいドキュメンタリー監督だと思う。
安っぽい。見る価値なし。
ただただ安っぽい映画。
佐村河内氏が全聾ではないことと、
ゲーム音楽くらいの簡単な(そして陳腐な)
作曲ができることは、知っている人は知っている。
騒動のあとに出されたBPOの調査レポートを
読めばよくわかる。
それなのに、それを知らんぷりして、よくぞ最後まで
「本当は聞こえるのでは?」「作曲はできないのでは?」
という「謎」で押し切ったものだ。
また、この映画で描かれる「マスコミのいい加減さ」は
さして目あたらしいものではないし、
佐村河内夫妻の愛情物語(もたれ合い?)は、
「ありそうなこと。だから一緒にいるんでしょ?」
というくらいのもの。予想を裏切るものではない。
「傑作」と評する人もいるが、
この作品は、おそらく映画史には残らないだろう。
前宣伝につられて見たが、とても残念な映画だった。
DVD化されてから見ても、十分に間に合う凡作。
これで感動したり、驚いたりすると思われたら
観客も安く見られたものだ。
見終わった後、ただただ圧倒され、考えさせられる。 森監督の白か黒か...
見終わった後、ただただ圧倒され、考えさせられる。
森監督の白か黒か判断したがるマスコミや世間への批評的な視線が込められているのは間違いない。
森監督は黒に白をぶつけたらどうなるか?ということを意識したと、本作のインタビューで答えている。
この映画を観る前の佐村河内守の我々のイメージは?しかし映画ではその逆のイメージをある種ドキュメンタリーという形をとって、故意的に描き出す。
ラストのある仕掛けで、佐村河内の正当性を明らかにしたいわけではないのは、森監督の最後の最後の質問をもっても明らか。
本当は何で、嘘は何なのか?そしてその間のグレーはどこにあるのか?
そのうえで我々はなにを考えるのか。
上記のテーマは陳腐だという人でも、構成が圧倒的にスリリングで、舞台はマンションの密室なのにとても映画的なのを認めるのにやぶさかではないだろう。
今年を代表するとんでもない傑作であるのは間違いない。映画が好きな人には必ず見てほしい。
悲しみを撮る
「佐村河内さんの怒りではなく、悲しみを撮りたい」と森達也監督は言った。
怒りとは即物的で、瞬時に現れる行為だろう。でも、悲しみとはもっと深い感情ともいえるだろう。
それも、渦中の出来事から少し時間が経っているから、なおさら冷静なものが必要だ。あまり、周りに右往左往されるのではなく、猫の目のように、客観的な視点が必要だと思い、自ら望んで監督を引き受けた。
はじめのうち、佐村河内氏は怒りを隠せなかった。
ゴーストライターとして告発した新垣氏にも、それを単純化して伝えたマスメデイアにも、また、それを商業化して一大見せ物としたコマーシャリズムにも。
事実よりも、面白おかしくして、見せることに佐村河内氏は不信感がいっぱいである。
そもそもゴーストライター事件として扱われることに嫌悪している。この問題は共演者事件であると言っている。
作品をつくるということはどういうことか?
僕も弟と何曲も曲を作っているが、いろんなパターンがある。
たとえば、初めに僕が詩を書き、リードとなるフレーズをつくる。そのとき、あるイメージ(それはビートルズの曲だったりするのだが)をもっている。それを弟はなるほどね、とか言ってミドルパートを作り、全体を膨らませる。僕はここはもっとこんな感じがいいな、でも、全体にはOKだといって曲ができる。レノン&マッカトニーの作品もいろんなパターンがあったろうが、こんな感じでできていったのではないかと思う。だから、佐村河内氏がイメージを伝え、新垣氏がそのイメージを膨らませていくということはひとりの作品ではなく、ふたりの共作以外のなにものでもないだろう。
耳も聞こえる音もあり、聴こえない音もあるというのは確かだろう。僕自身、長年ウォークマン生活で耳には自信がない。人には聞こえてるのに、僕には判然としない会話もあるからだ。最近、特に感じることが多くなった。佐村河内氏の場合、妻の手話がなければ困る場面がたくさんあることが、この映画でもわかる。
この映画で事実を歪曲して伝えた張本人のように描かれている新垣氏も、実はこの面白おかしくすれば視聴率があがるという組織の罠にはまっている人に思える。一個人としては気の小さな善人であるのだが、大きな体制のなかでは抗えないのだ。
個人としては悪い人はいない。しかし、それが全体として集約させる時、おかしな動き、変な結論になってしまう。それが増幅されて全く違うものとなる。いろんなディテールを切り取ってしまうとき変質が起こる。だから、表層だけでなく、「じっくり、ちゃんと考えてみようよ」と言われている気がするのだ、僕自身にも。
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