「猫の眼にうつるもの」FAKE SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
猫の眼にうつるもの
わりと話題になってる映画のはずなのに、渋谷の一館でしかやってないってどういうことなんだろ?
ラスト上映の3時間前に満員締め切りになってた。早めに行った方が良い。注意。
あと、手ブレがかなりキツイので、酔いにも注意。
ラストは、「ここで感動したら負け」と思いつつも感動して眼がうるうるしてしまい、この感動も含めてFAKEだなんて、なんて凝った構成なんだ、と監督の策士っぷりに驚いた。
ほんとに凝った構成。
出だし、明らかに監督の言葉に反応してうなずく様子が映り、「やっぱり聞こえないってウソなんだな」と思わせる。
観客の興味は、「ホントは聞こえてんだろ? ほら、よく言葉の反応見てると分かるよ…。聞こえないって演技も過剰すぎてバレバレだよ」というところにうつる。
佐村河内さんの「うかつさ」に逆にはらはらし、「もうちょっとうまく隠さないと…」とすら思ってしまう。
しかし、次第に「本当に聞こえてないのかも」と思わせる描写が多くなり、神山さんや新垣さんの取材拒否で、いったいウソをついてるのはどっちなのか、確信が持てなくなってくる。
ほんとのとこはどうなんだ?ともんもんとしたところで、外国雑誌の核心に迫る取材で、この事件のある程度の真相らしきものが明らかになってくる。
聞こえているか聞こえてないかもはっきりとしないし(本質的に証明することは不可能)、実質的に作曲したのがどちらなのか、ということもはっきりしない(主観の要素が大きい)が、実は「ディテール」でしか語れない部分がある。
日本のテレビの取材の不完全さがあらわになるのは、この瞬間だ。結局日本のテレビは、「わかりやすいストーリー」「わかりやすい善玉、悪玉」が欲しかっただけで、実際はどうだったのか、には関心がないことが明らかになる。皮肉にも外国人の取材によって。
そして、観客が、「やっぱり佐村河内さんて作曲能力ないのね。楽器すら使えないのね。自分で思い込んでるだけなのね。口だけヤローじゃねえか」と思ったところで、衝撃的なラストの展開。
まさか作曲なんかできない、と思い込んでしまっているところに、あの曲、そしてエンドロール。これは感動するな、という方が無理。
ここで感動したら、あの薄っぺらいテレビで佐村河内さんを短絡的にペテン師だと思ってしまうことと同じじゃね?とわかりつつも、感動せざるを得ない。
だって、無理だ、不可能だ、と思ってることをやってしまうんだから。「セッション」のラストの展開にも似ている。
そしてエンドロール後。監督の最後の問いかけに、長く沈黙して口を開く。その瞬間終わる。完璧な終わり方だ。「インセプション」を連想した。
ドキュメンタリーで、時系列で実際の出来事が展開されているだけなのに、あまりにドラマチックで、全く飽きない。
「謎」と「裏」が次々に提示されていって、観客の先入観をゆさぶり、テレビの裏にある滑稽さや残酷さを浮き彫りにする。
普段見慣れているバラエティ番組が、その企画段階や、笑われている当事者の視点から見ると、こんなにも印象が違うことに驚く。
この事件で一番の被害者は、佐村河内さんというよりはむしろ、新垣さんなのではないか、とも思った。
映画の最中、観客から何度も笑いが起こった。それは、テレビ局の担当者の振る舞いだったり、新垣さんの取り上げられ方だったりするのだけど、ドキュメンタリーの映像なのに、まるでコメディのように出来すぎた滑稽さで、滑稽すぎて残酷、ホラーにすら見える。
テレビは、僕らの頭をこんなに「馬鹿」にしてしまったんだ、と思うと、背筋が凍る。
猫の眼が印象的だった。きっと、何も考えてないんだろう。でも、人間の様子をじっと見ている。ときどき、人間の言葉に反応してるように見えるときもある。
人間の側の複雑な事情、悩みなんかは、猫は分からないし、そもそもなんの関心もない。はっ、と思ったのが、そういう、全く違う価値観をもっている存在が身近にいるって、すごい救いだなあ、と。
どんな人間にもとる行為をしても、猫だけはその人間を軽蔑することは絶対にない。だから、嘘をつく必要も全くない。
奥さんがたんたんとしてるのも良かった。だんなに寄り添いながらも、そんなに作曲に関心があるわけでもない。たぶん、誰がウソをついてるかなんていうことにも、あまり興味がない。でも一緒にいる。たぶん、ずっと一緒にいるんだろう、この夫婦は。その、ただ自然に、当たり前に、一緒にいること。なんて素敵なんだろう、すごいな、と思った。