「圧倒的な衝撃と愛しさに、胸がいっぱいになる」FAKE まうまうさんの映画レビュー(感想・評価)
圧倒的な衝撃と愛しさに、胸がいっぱいになる
まず思ったのは、映画として完璧な構成だということ。佐村河内さんの耳が聞こえるのかどうかという疑問から始まって、きっと聴覚障害なのだろうと感じたところで、でも本質は実はそこじゃなかったんだよ。耳が聞こえないということなんて別に疑ってない。佐村河内さんが音楽ができるかできないか、そこでしょ?証拠を見せて?って外国人記者からの問いかけ。それは、世間がこの一連の報道に対して辿るであろう反応の軌跡を、森監督によって意図的に辿らされているともいえるのかもしれない。最後は森監督の提案から始まる、カタルシス。どうしたって、佐村河内さんを応援したくなる。もう新垣さんは必要ないよね。
だけれども、誰が善でも悪でもないんだよ。前半どちらかといえば悪側として描かれていた新垣さんが、後半、サイン会で森監督とぜひ話したいと告げる。後日取材を申し込むと[事務所から]拒否されたというテロップ。テレビの制作者に信念はないという、森監督の言葉。新垣さんもまた、真実を伝えられずに苦しむうちの一人なのか?テロップが、森監督の言葉が、新垣さんの映し出され方が、それを示唆する。示唆するだけで、そうかもしれないしそうでないのかもしれない。佐村河内さんは、怠慢し、人を欺いて、新垣さんはそれを告発した。メディアはそれを、[一番面白くするため]に、信念の欠けた演出で、飾り立てた。だけどメディアにだって、[一番面白くする]という目的がある。一人ひとりが自分の役割を果たそうと、主張を通そうとした結果が今の状況なのだとしたら。世界は混沌としているし、この映画はそんな世界の一部を切り取った、ほんの一場面にすぎない。どの一場面を切り取るかによって、見え方も、世界そのものも、きっと全く違うものになる。それでもそんな一場面の中に、カタルシスは訪れる。それがfake かどうかなんて、もはや関係ないくらいに、圧倒的なかたちで。だって、この映画の主人公は、佐村河内守さんだから。
映画が終わったと思ったあのとき、拍手したいと思ったよ。本当は終わってなかったけど。笑。後から、森監督はフィクションとノンフィクションの境界線は酷く曖昧なものだと言っている人だと知った。佐村河内さんの最後の沈黙が、あの問いかけを、[自分を守るために事実を脚色したところはありませんか?]と変換した、自問自答に対する沈黙だといいな。
豆乳、ケーキ、コーヒー、猫、タバコ、電車の音。進んでいく物語と、変わらない日常をつなぐアイテム。撮りたかったのは本当に[佐村河内さんの悲しみ]なの?それすらfake というタイトルの前には危うい。確実にfake じゃないのは、くすりと笑えて少し虚しくて愛しくて優しい、日常そのものなんだよって。繰り返し出てくるアイテムたちに、一緒にいることを後悔なんてしてない、と言った奥さんに、そんなことを言われてる気がした。