劇場公開日 2016年10月8日

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「説得力に欠ける」少女(2016) 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

2.0説得力に欠ける

2016年10月20日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

どんなに文明が進歩しても、日本はいまだにムラ社会である。国家という大きなムラの中に、無数のムラがある。企業や学校や各種団体などの公的な組織もそうだが、サークルや同好会などの任意のグループ、或いはママ友みたいなはっきりしない集まりに至るまで、個人の自由よりも集団の和が優先される集まりはすべてムラといっていい。仲間外れになるといわゆる村八分にされ、孤立するだけではなく、場合によっては暴力を受け、LINEやSNSで誹謗中傷され、インターネットを通じて世界中の晒し者にされることもある。

女子高生の仲良しグループも例外ではなく、仲良しグループから外れるとどんな目に遭うかわからないという相互的な恐怖心から、自分の自由を投げ出してひたすら集団に同調する。
集団の向かう方向は誰にもわからないが、建設的な方向に向かうことはない。一番よくあるのが紋切り型の価値観に従って他人を断罪することだ。「あいつ、うざくね?」と誰かが言えば、その途端にいじめがはじまる。同調圧力が強ければ誰もいじめをやめることができず、どこまでもエスカレートする。いじめた相手が自殺するか、遠いところに転校するまで終わらない。同じことは女子高生の仲良しグループだけではなく、日本中のいたるところで起きている。日本は大小のムラの集合体なのだ。

この映画では女子高生の間に普通に見られるであろういじめの場面が出てくる。いじめる理由は上記の通りで改めての理由づけは不要だが、いじめられる敦子とその友人の由紀の行動の動機が理解できない。子供のころのトラウマを引きずっているという理由だけでは、日頃の行動の理由としては弱すぎるのだ。逆にトラウマが蘇るたびに過呼吸の発作を繰り返す演出はくどすぎる。
足の怪我が治っていないふりを延々と続けられる意志の強さを持っている人は、簡単にはいじめの対象にならないだろう。敦子はどう見てもいじめられるキャラクターではないのだ。いじめにリアリティがないから、由紀が敦子のために小説を書く理由にもリアリティがない。プロットが根本から崩壊している。死ぬ瞬間の表情を見たいという台詞は、それを見たら何かがわかるという説明がなく、とってつけたようだ。小説を書く人間の精神構造はそれほど単純ではない。

原作を読んでいないので違いは不明だが、登場人物の相関関係がやたらに密集しているのも、予定調和的過ぎて現実味に乏しい。痴漢ぼったくり女子高生が自殺するのも理解できない。中年男をカツアゲするだけの度胸が据わっている女の子なら、たとえ父親が逮捕されたからといっても短絡的に自殺を選ぶことはないだろう。カツアゲ少女に、人間の出生の平等に関わる哲学があったとも思えない。

同じ湊かなえ原作の映画でも「白ゆき姫殺人事件」にはリアリティがあった。「北のカナリアたち」にはヒューマニズムがあった。しかしこの「少女」は最も平板なプロットにも関わらず、何故か最もリアリティがない。
LINEやSNSを使った同時代的な背景の映画では、リアリティがないとあらゆる説得力を失ってしまう。バラバラに登場する人物がいたるところで結びついて輪になるのは、監督としては満足なのかもしれないが、観客に訴えるものは何もない。へえ、そうだったんだ、という淡々とした感想とため息が漏れるだけだ。物語をまとめることに集中しすぎてテーマを深めることができなかったのだ。その結果、何がテーマなのかさえわからない作品になってしまった。

耶馬英彦