皆さま、ごきげんようのレビュー・感想・評価
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「ロジック」の代わりに「笑い」をつなぎにした、イオセリアーニ群像劇の集大成的作品。
なんか、レビュー欄があまりにケチョンケチョンで、心が痛い(笑)。
確かに、何を言いたいのか、掴みどころのない映画かもしれない。
筋もあるようでないようなものだし、現実ベースかと思ったらファンタジー的要素もある。
おおまかにいうとゆるやかな群像劇だが、とくに前半のとっつきが悪すぎる。
時空を何度もスキップしたあと、同じ俳優を用いた現代篇が始まり、
ろくな人物紹介もないまま、ひたすら断片的なスケッチが続くからね……。
とはいえまあ、こういう映画は昔からいくらでもあるものでして。
それに「作り手が上手く語れていないのでわかりにくい」のではなく、
「作り手がわざと関節を外してわかりにくくしている」のも明らかなわけで。
それをわざわざ「わからない」と愚痴っても、あまり意味がないような。
明快なストーリーや、簡単に理解できるキャラ設定の「枠外」で、イオセリアーニはこの映画をつくろうとしている。それは間違いない。
これは、『素敵な歌と舟はゆく』『月曜日に乾杯』『ここに幸あり』など(未見の『月の寵児たち』『群盗、第七章』も含めて)、パリに移ってからのイオセリアーニの群像劇全体にいえることだが、彼のナラティヴやストーリーの構築は、常に流動的で、不確定で、コラージュ的だ。
時代や時間を跳躍して呈示されてゆくエピソード群。
異なる時間軸で別の役を演じ分ける同じ俳優たち。
つながらないロジック。意図の掴みづらいアクション。
説明のたりない舞台設定。投げっぱなしの唐突な展開。
それらが、ぼやっとした連関のなかで紡がれてゆくなかで、
変人たちの巣食う小集団の全容がなんとなく見えてくる。
といっても、全てがクリアにわかるわけではない。
思いがけない血縁や、単発的と思われた寸劇の続きや、
関係ないと思われた人々の交流のなかで、
ある種の戯画的な「世界」そのものが、
単純化されないカオスの状態のまま、立ち上がって来るのだ。
それは、つねに不確かで触知不能な、「実際に我々が生きる世界」の縮図でもある。
理屈による説明や、物語化や、善悪の単純化を導入することによって「損なわれてしまう何か」を損なわないために、イオセリアーニは敢えて、エピソード間のロジカルな結びつきを排し、混沌と不分明を包含した形で、映画を紡ごうとする。
ちょうどそれは、哲学者が「なるべくわかりやすく説明する」ことをせずに、あえて独特の術語と独特の語法で、自分の脳内の思索を「そのまま」言語化しようとすることと少し似ているかもしれない。
よくある「型」や理解しやすい「筋」に「考えていること」を落とし込むと、必ず削げ落ちてしまう「何か」があって、その「何か」にこそもっとも豊穣で独創的な「エキス」がつまっている、というのは一つの真実だ。
哲学的言語においても、映画的言語においても、それは同じことなのだろう。
要するに、監督は呑み込みやすい「ロジック」を封印することで、「ありふれた」物語の「型」に観客が逃げ込んで、映画世界を「矮小化」しないよう、心を砕いているのだ。
何が描いてあるかは概ねわかるけど、ほぼぎりぎりまで抽象表現へと近づけたような、ターナーの海洋画や玉澗の破墨山水のように、こうやって「わかる」「わからない」のあわいを目指す「意図された曖昧さ」というのは、実はきわめて繊細な感覚と緻密な計算によって成立せしめられている。
さりとて、監督はこの映画を「敢えて難解な映画にしよう」としているわけでもないし、
ベルイマンのように「観客にも高度で深遠な思考を追体験させよう」としているわけでもない。
「理屈」の枠外では描かれているが、気負わず観られる映画。
イオセリアーニが目指すのは、たぶんそんな映画だ。
あまり考え込むことなく、いかにも「映画的」な時間にただ身を浸しているうちに、なんとはなしにイオセリアーニの抱えている問題意識や思索的テーマに触れられるような映画。
そういう、「お話としてはよくわからないけど、肩肘の張らない、全体としてはゆるっと楽しい、でもちゃんと深みのある映画」を目指している。
そこで、彼が「ロジック」の代わりに、映画の潤滑油兼「つなぎ」として導入したのが、「笑い」であり、「醒めたブラック・ユーモア」だ。
新ウィーン楽派の作曲家が、「聴きやすいメロディ」を封印するかわりに「十二音技法」を発明し、あるいはゲンオンの作曲家が新奇な音響と音色とミニマリズムに頼ったように、彼は「つかみどころのない」話に敢えてするかわりに、「笑いのセンス」で映画の統一をはかったわけだ。
だからこそ、反撥もあるのだろう。
一見、気楽なコメディのようにも見えるのに、筋がよくわからない。
なんでキャラクターがそんなことをやってるのか、皆目伝わってこない。
これが、もっと難解で思索的な佇まいの映画なら、観客も逆に、そこまで不満には思わないのだ。
わかりそうな映画だからこそ、わからないことを不満に思う。
表面上の「とっつきやすさ」と、作品としての「とっつきにくさ」の齟齬が、観客をイラつかせ、まずはわからない自分への不安とムカつきを喚起し、やがてそれは「なぜかわかりやすく作らない」監督への怒りへと変質してゆく。そういうことなのではないか。
たしかに、僕もずいぶんと「老人力」の強い映画だな、とは思う。
単に映画内の老人たちがあまりに好き勝手やっていて、しかもそれが比較的肯定的に描かれているというだけでなく、まずはイオセリアーニ自身が、すでに巨匠としてフリーハンドで映画を作る絶対的権限を手にしていて、まさにやりたい放題で(≒観客そっちのけで)、作りたいものを作りたいように作っている。まさに、「老人力」のなせる業だ。
黒澤にしても、鈴木清順にしても、晩年は個人的で歯止めの利かない映画を撮っていたものだ。イオセリアーニも、初期の映画製作においては、もう少し「観客の理解」をちゃんと考慮しながら映画を作っていた。それがこれだけおじいちゃんにもなると、商業映画としてのバランスはどうしても崩れてくる。
それでも、イオセリアーニらしい映画だという意味では、これほどイオセリアーニらしい映画もない気がする。
彼を愛するファンにとっては、ご褒美のような映画であることは間違いない。
『皆様、ごきげんよう』は、イオセリアーニがこれまでの「あやふやな群像劇」で培ってきたテクニックを集大成した映画であると同時に、監督がこだわってきたテーマやヴィジョン、モチーフや呪物をこれでもかとばかりに詰め込んだ映画でもあるからだ。
独立独歩で好きに生きるご老体。
石を積んで組み立てられる小屋。
一部オープンエアになった廃墟。
恋に落ちた男女の追いかけっこ。
夫婦間の度を過ぎたどつき合い。
象徴性を背負った牛、鳥、ヒツジ。
アパートに集められた変人集団。
街を闊歩する陽気なホームレス。
街の路上で老人が奏でるチェロ。
呑みかわし、乾杯を交わす二人。
……実のところ、これらはすべて、デビュー仕立ての頃に撮った『四月』や『田園詩』でもすでに登場していたモチーフや設定だったりする。
イオセリアーニは、自分の好きな物、こだわってきた物をすべて注ぎ込んで、この映画を作った。
そこにはバッハやロッシーニの音楽も含まれるし、脚の異様に長い美女へのフェティシズムも含まれる。そういえば、壁に『秘密の花園』の扉が開くときに一瞬鳴っていたのは、シューマンの『予言の鳥』ではなかったか。
とくに前半で、「ギロチン」「武器密輸」「大砲」「戦場」といった、フランス革命とソヴィエト連邦の記憶がない交ぜになったような「戦争」と「暴力」の不吉な影が色濃いのも、本作のポイントだろう(その意味では、前半はどこか『群盗、第七章』と近しいテイストを示している)。
冒頭のフランス革命後のロベスピエール独裁において、貴族が断頭台の露と消えるシーン。
街のご婦人方がわれ先に処刑場のかぶりつきに陣取って、編み物に興じている(当時実在したらしい)。で、首チョンパされて落ちてきた首を拾って、自分のものにしてしまう。
「大衆」とは、かくも残酷で、刑罰に興奮を感じてしまう度し難い存在なのだ。
さらに時代が飛んで、現代の内戦(撮影現場はジョージアらしい)。兵士は戦場の女性の死体から、指輪を奪って彼女へのプレゼントにする。うわあ、こういう掠奪とかレイプとか、つい最近「生のニュースで」観たばっかりじゃないか。
いまロシアがウクライナに侵攻している現状では、きわめて先取り感が強いというか、イオセリアーニがどこかで怖れていたロシア的な狂気が、ここに来て現実のものになってしまったんだな、という感じがして、実に生々しい。
『人間の歴史は、戦争の歴史だ』。
ジョージアの苦難の歴史を知る、イオセリアーニの言葉だ。
本編ともいえる、二人の奇矯な老人と、愛すべき(?)隣人たちの物語においては、
まず老人が脇ではなく「主役」として映画に君臨し、テーマとしても「老い」を真正面からとらえている点が、巨匠の(今のところ)「最後」の作品としてふさわしいように思う。
かたや、武器商人としての裏の顔を持つ、古書蒐集家のアパート管理人。
かたや、頭蓋骨を蒐集し、復顔術を趣味とする得体の知れない人類学者。
(当然ながら、頭蓋骨と向き合う姿は、美術史的には「メメント・モリ(死を想え)」の象徴であり、同時に聖ヒエロニムスやアッシジの聖フランチェスコ、マグダラのマリアなどに共通する「瞑想」のアトリビューションでもある。)
ふたりには、裏で戦争に加担していながら、ホームレスたちを庇護し、官憲と常に戦っている闘士の側面もある。善いこともすれば、悪いこともする。イオセリアーニ映画において、善と悪、正義と暴力は常に不可分だ。
ふたりが現代的な「武器」を密売しながら、古書や頭蓋骨といった「過去のノスタルジア」と強烈に結びついている点も見逃せない。彼らが恋をしている大邸宅の老嬢(いつも古い蓄音機で大昔のシャンソンを聴いている)も含めて、老人たちはしたたかに「今」を生きながらも、同時に「過去の追憶」のなかに暇さえあれば耽溺している。携帯電話は、秘密の花園の神秘を破り、ふたりに害悪をもたらす「不吉な器具」として何度も登場するが、本作の最大の見せ場ともいえる電車のホームでの言い争いのシーンで、「小道具」としての魅力を最大限に発揮するのも携帯電話だ。
ここでは、「現代」と「過去」をめぐる価値の認識が、乱高下を繰り返しながらせめぎあっているのだ。
徹底的にホームレスの自由人としての生き方を擁護し、それを制御・追放しようとする官憲をとことん悪しざまに描くのも、イオセリアーニ映画の特徴だろう。
それは、デビュー長篇『四月』でもすでに明確にされていたとおり、ジョージアがソヴィエト連邦に組み込まれ、共産主義的な支配に膝を屈せざるをえなかった民族的な歴史と不可分の要素でもある。イオセリアーニの政治的スタンス自体は、普通に考えればきわめてリベラルなものだが、同時に「権力の押し付け」としてのソヴィエト共産主義に対しては、生涯を通じて不屈の闘志を示している。
同時に、少し頭の弱い感じの人間(この映画でいえば、女流ヴァイオリニストに恋をする青年や、車をぶつけたり署長に食い物にされたりしている売春婦)に対して向けるどこまでも優しい眼差しと肯定的な扱いも、イオセリアーニ特有のものだ。
彼の描く「世界」は、善悪のないまぜになった、相当に「えぐみ」のあるものではあるが、同時に、弱者や抑圧を受ける者に常に恩寵を施そうとする、きわめてジェントルな世界でもある。
しょうじき、かなりわかりにくいし、とっつきにくい映画ではあるけれど、イオセリアーニのやろうとしてきたことがぎゅっと凝縮された映画であることは論を俟たない。
僕はそれなりに楽しめました。
あと、間違いなくイオセリアーニの映画には、ジャック・タチに通ずる部分があって、その意味で「ピエール・エテックス映画祭」のあとにこの企画をやってくれたのは、大変に気の利いたプログラミングだった。さすがはイメージ・フォーラム。
みなさまホントに。
どこか映画ひとつ見るたびに、コメント試験でも受けられているような・・・。
映画から何か読み取って成長しないことには明日が来ないような必死さが嫌です。
観てよかったなあ。の一言じゃダメですかね。来週には忘れちゃっててもイイじゃないですか。
あまりに他人の考察が素っ頓狂なのばかりなのでつい・・・。
映画の中の架空の人間の考えや架空の出来事、ドラマなんて、
誰の人生の役にも立たなくていいじゃないですか。
そんな目的で映画観てると結局は、どの映画観ても時間の無駄、
オレの人生を返してくれよなんて叫び出しかねないですよ。
いかにもフランス映画
武器商人と骸骨収集家のジジイ二人に、あくの強い住人たちが加わり、毒気のあるギャグが連続していく。
フランス人と友達になるのは大変だろうが、面白そう。
人間の面白みは繰り返しの中に潜んでいる
腐れ縁で結ばれた悪友同士。周りを囲う癖のある人たちと大規模な取り締まりによるホームレスたちの危機に立ち向かう。
痛快ブラックコメディ。
笑っていいのかわからないくらい、反骨心たんまりなユーモラスな描写が多い作品でした。
時空を超えて描かれるので飽きることなく頭を回転させた120分でした。
どこの世界でも、犬の方が人より偉いという志向はあるものなのですね。
言語明瞭意味不明
全体的に脈絡なくつながるシーンは、1つ1つは明瞭、全体としてつなげると意味不明。
というと、わかりやすい映画のように見えるが投げ放しの観た後に地雷を踏んだと思わせるもの。
意味不明なシーンもあり、何度もみても同じ感想を抱くのは間違いないと思う。
皆さま、ごきげんよう
映画『皆さま、ごきげんよう』(2015年仏=ジョージア/オタール・イオセリアーニ監督作品)評
-オタール・イオセリアーニ監督は映画が歴史的パースペクティヴな同一性を纏う為に都市にさ迷う戦闘力が、人であり動物であり自然現象であり消費社会である事を無闇にも白日の下に晒す。そこには絶え間ない争いが虚構に近付けば近付く程、リアルさを秘めた闘争劇に終始する即物的な速度と運動性の劇場空間の裸形の姿を認識できるのだ-
映画が空間芸術として君臨するには画面のここかしこに遍在する記号を一旦メタファの懐で包括させ、それを表層に浮かせる作業を厭わない余裕の必要がある。この困難を克服するには、荒唐無稽とも準える映画史と闘う倫理学の醸成に賭ける強靭なる通俗的制度から逸脱した領域を開拓すべきだ。例えばこの映画監督オタール・イオセリアーニは、それを記号さえをも超越したメタの聖域にまで昇華させる術を試みるにやぶさかではない。その術とは映画の引用行為、即ち「盗む」事に他ならない。
イオセリアーニの「盗み」の根源を語る上で不可欠なのはこの「盗む」という行為が単なる引用ではなく、自らの意匠として登場人物に映画人を模倣させるという極めて大胆な構想を実現する事だ。例えばこの映画の主役・管理人の盟友の人類学者をその風貌から、ヌーベル・バーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールその人だと見抜くのは実にたやすい。それはゴダール自身がもつ映画内映画という間=テクスト性に実にあっさりと収まる比喩的人物像をイオセリアーニが聡明にも演出する事が、この映画の出発点として設定されているからだ。
それでは主役の管理人とは、映画史の誰を引き受けているか? これはまさしく、ユーモア溢れるオプティミストの監督自身に他ならない。そしてこの映画が内包する極めてご都合主義に反する先の読めぬ展開とその荒唐無稽な虚構の連鎖反応から推察するに、それは明らかにゴダールの先輩とも謂うべきルイス・ブニュエル監督の相貌と酷似している。
物語が登場人物に映画史上の人物を担わせる宿命を持たせる事でイオセリアーニが実に軽々と踏襲するのは、ゴダールの映画的冒険とブニュエルの越境性を各自が装い乍、この非日常という名の虚構にどっぷりと浸かる事でエスプリの効いたユーモアを人道主義で諮るルネ・クレール監督の『自由を我等に』以来の二人組の映画的概念の露呈にも窺えるのだ。
事ほどさようにこの映画は、二人組という記号に執着する。それはこの主役級の老人二人は勿論の事、都市を滑走する女スケーターの二人組である。そして売春行為で暮らすプチ・ブルの婦人二人組。警視総監とその召使の二人組。しかし映画は、過酷にも主役級の二人を除き全てが瓦解してしまう。それはこの二人の老人が、未だ死ねぬ映画という代物を作った偉人の模倣であることからも頷けよう。
ここでイオセリアーニは映画史の未来をも暗示させるかのように最期では、自転車に乗り人類学者を下り坂へそして管理人を上り坂へと向かわせる。この反ベクトル作用には聡明にもイオセリアーニ自身のこれからの映画人生を予告する寸劇的な分節化も認められ実に秀逸である。
それでは上記に記した「盗む」という行為が映画全体に及ぼす機能を考察すると、そこにはスラプスティックな行動原理が確認されよう。それはこの映画が勝ち得た歴史性が盗まれる主体が盗む客体との間で、現代的風土を明示するに足る記号体系の極みを発している。
例えば冒頭、固有名詞を阻む匿名性に溢れた都市の路地で遊戯的特権を担う女スケーター二人組が管理人の帽子を盗み取り、それをラグビー・ボールに見立て通行人にパスしそれが連続的に模倣者を編み出す場面は、反復と複数性というポスト・モダンの様相を呈する。これこそ都市の幼児性と共に、ルネ・クレールが愛した巴里のシャンゼリゼの風景を彷彿とさせる映画の記憶装置の現代的変貌が披瀝されるのだ。
更にこの女スケーター二人組は映画の後半では、携帯電話をスリ取る作業に従事しこの行為は辺りに犇めく人々にも伝播。この不可視の電波を掻き乱すかのようなリゾーム的行動学はそれが傍若無人に徹すればするほど、画面を横切るスケーターや人物そして車までもが動物的な視線を獲得する。
この動物と人間、そして車という記号の遍在はアニミズムとユートピアのイオセリアーニ的解釈を臨む。映画の前半と後半に繰り返される何とも微笑ましい横断歩道を渡る犬の群れの場面には、笑いと共に動物と車社会の融合が生成する現代的都市空間の一面が読み取れよう。それはシニカルなユーモアと、かつてジャック・タチが表象したスピード感覚に慣れた現代社会との齟齬感をきたすマイペースな動物的行動学が顕となる。
管理人が、都市の壁に度々観るイマージュ。それは前半ではエデンの園への誘いとしての扉が開き中には美女と都会のオアシスとも謂える草木と動物の共存が窺えるが、後半ではそれは朽ち果てた都会的デカダンスの悪夢とも取れる強風の吹き荒れた場面となる。
確かにこの映画は進行するに連れて非日常的空間に満ちる事でフィクショナルな現実化が、反復と差異を生成する歴史的視点を有してゆく。それはメタ空間として最後に提示される一軒の家屋が野外演劇の舞台となる時、その完成が売春行為に耽っていた女性とその舞台建築者がテーブルに座しティータイムを過ごす場面。ここでは、それまでの都市の非日常的虚構空間が取り戻したユマニストの側面を如実に反映している。それも都市の風景が劇場空間に徹すればする程、このメタ空間はシニフェな日常性を滲ませるのだ。
この映画の冒頭が、それを見事に証明している。そこではいかにも虚構然としたフランス革命での恐怖政治に加担したバルタザールの処刑が、女性ばかりの一般市民の観る側と断頭台で切断されるその首がまさに作り物である事からも推察されよう。
そして現代の戦争状況を闘争のエチカに溢れた記号として爆弾破裂による気化作用の煙の存在と、兵士達を慰め聖体拝領のトポスともなる河の満々とした水がその煙の液状化として変容する場面では、戦争という極限状態での水という記号が治癒と聖水の役割を果たす事、つまり闘争と休戦の絶え間無い反復に偏在する記号としての液体の変貌が確認出来るのだ。
これら革命と闘争の寸劇とも取れる二つの冒頭の場面が遊戯的虚構として徹底される時、その後の本筋のトポスを都市の場面に費やす事でここにも上記の「盗む」行為や紫煙やアルコール類までもが、革命や戦場と何ら遜色のない記号の遍在として共示作用を促すのだ。それは一見平和に見える都市空間を虚構で一杯にする際、穿たれる闘争の異空間の醸成とも謂えるだろう。
オタール・イオセリアーニ監督はこれが歴史的パースペクティヴな同一性を纏う為に都市にさ迷う戦闘力が、人であり動物であり自然現象であり消費社会である事を無闇にも白日の下に晒す。そこには絶え間ない争いが虚構に近付けば近付く程、リアルさを秘めた闘争劇に終始する即物的な速度と運動性の劇場空間の裸形の姿を認識できるのだ。それは、管理人のもう一つの顔でもある武器商人の役柄からも察知できよう。
(了)
つまんない!わからん!
唯一笑ったのは、はじめのギロチンが野菜を切るところで野菜カッターとして出てきたところかな!それにつけても、新聞の映画評の的はずれなこと。映画会社のコピーを丸写ししたような映画評はいらない…自分で見て自分の言葉で書いてくれー
この作品は地雷です
何がやりたいのか全くわからず、今まで見た中でワースト級の作品と断言しても良いと思う。
冒頭の処刑や戦争シーンがB級C級映画臭くて嫌な予感がしていたが、その悪い予感が的中してしまった。
(実際に最初の20~30分で観客が2人帰ったが、彼らの判断は全く正しいと思う。)
登場人物たちの背景も行動も、あらゆるすべてが意味不明。
テンポも悪く、最後まで意味不明で終わる。
この映画を理解できない自分が悪いのか不安になる。
血のつくはずの箇所に血はなく、濡れているはずの服が濡れていない等、演出も酷い。
この映画の教訓は以下の通り。
・たとえテアトルであっても、こんな酷い作品を配給することがある。
・序盤からB級臭さを感じた場合は、払った金のことは忘れて
即座に席を立って帰るべき。
こんな作品のためにお金と時間と他の作品を見る機会を失ったことへの怒りと、他の人にこのような体験をして欲しくないという思いから、初めてアカウントを作って書き込みました。
テアトルでは他にいい作品が多々あるので、そちらを見ましょう。
難しいユーモア
フランス革命の時代、(多分第二次大戦)戦争の時代、そして現代。パリで営まれる生活にある、そしてどの時代やどの場所にもある諸々のことと不条理。笑えるような笑えないような…。
チョット難しくて、よく分からないのに、つい笑ってしまうところがすごいのかな?
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