「もう宗教をタブーにしたままではまずい」A2 完全版 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
もう宗教をタブーにしたままではまずい
はじまってそうそうに手振れで酔って、ほとんど目をつぶっていたので、かんじんなところを見逃してしまったかも。
このドキュメンタリーで感じるのは、「そうそう、現実ってこうだよね」てこと。
テレビで報じられるオウム事件は、作為的なストーリーでごてごてにされていて、全体にウソくさい。現実を見ているように見えない。もっといえば、自分のいるこの現実と、テレビの中にある向こうの世界、という感じで、地続きになっている気がしない。
A, A2の趣旨の1つは、我々がテレビで見せられているのは、「意図的なストーリーに沿って作られた虚構の世界である」ということなんだろう。
オウム事件は、被害の大きさという理由だけでなく、日本社会にとって極めて重大な事件だったと思う。
そんな重大な事件を、虚構の世界を通して表面的に理解したつもりになってしまうのはとても恐ろしいことだ。
とくに、オウム信者を自分たちとはまるっきり違う異質な存在(たとえば、凶悪犯罪者のような)ととらえ、彼らを排除しさえすれば問題が解決する、という考え方ですませてしまうことは、何の解決にもなっていない。
正常なこちら側と、異常な向こう側、という視点や世界観を提供してきたのがマスコミなんだと思う。
本作のような、オウムを内側から撮影した、生の生活の実体に近い映像の方が、はるかに面白く、考えるべき材料が無数にあることに気づかされる。
とても印象深いシーンがたくさんあった。
もし自分が麻原に命じられていたら、実行したか、と聞かれた信者が、言葉を選びながらも、「するだろう。それが信仰だ」ということを、実に自然に答えるところ。
彼らのサイコパスっぷりに、ではなく、彼らが無差別殺人という、絶対に超えられないはずの壁を超えてしまった理由が直観的に理解できたことに、身震いする。
彼らにとっての信仰がなんなのかがわかり、それは同意できないまでも、宗教としてはあり得ると思った。
彼らの世界観の中では、「人を殺してはならない」という一般的な倫理観にとらわれてしまうことが、エゴであり、迷いであると認識される。
宗教者は、一般的な価値観や常識を理解していないわけではない。俗世とか世間法とかよんで、真実を理解し、実践している自分たちとは低いレベルのものだと考え、ある種見下げているのだ。
その意味で、より世界を俯瞰的に見ることができているのはオウムの方であり、狭い常識や世界観にとらわれてしまっているのは、反対運動をしている住民の方だともいえる(少なくともオウム信者はそう考えていて、そういう世界観=彼らにとっての真実、に生きている)。
オウムの信者たちは、信仰のコミュニティの外では生きられない人間でもある。
彼らを単なる少しおかしくなってしまっただけの頭の弱い人、みたいにとらえて、そんなカルトから抜けて、まともな社会人になれよ、みたいに言うことは、とても的を外している。
この映画には、オウム信者、反対運動の住民、マスコミ、右翼、警察、様々な立場と思いをもつ人達が登場するが、皆、どこか愛せる、日常に生きる普通の人々に見える。
そして、対立しているはずの人達が、ずっと一緒にいるうちにだんだん仲良くなってしまう様子を描いているのが、この映画の一番の見どころになっている。
一般のマスコミの報道では、このような様子はマスコミが演出したいストーリーにうまくはまらないので、排除されてしまう。
しかし、「立場の違う人たちでも仲良くできる」「多様性を認めることが大事」なんていう薄っぺらいことですませられることではない。
オウム信者と地域住民は、心の根底ではおそらく絶対的に分かり合えない価値観や世界観を持っている、にも関わらず、表面的には(日常では)仲良くできてしまうことが、恐ろしいことだ、というように思う。
表面的に何も起こらないことで、記憶も、印象も、風化していくままになることをなんとなく許容していく。問題は何も解決していないのに、人が一緒にいるだけで、気安く話せる仲になっていく。それが良いことなのか、悪いことなのか、分からない。
この問題はあまりに考えるべきことが多すぎて、複雑で、思考停止になってしまうほどだけれども、日本でも世界でも、「お隣さんはテロリスト」ということが不思議ではなくなってきている今、きちんと向き合わなければならないことだと思う。
かつて同じ部活動の仲間だった同級生が、一方はオウムに、一方はその取材をするジャーナリストになり、なぜこうなったのかね、と話すシーンはなにか物悲しい。
両者は、どちらも、自分の道が正しいと感じている。一方が一方を哀れんでいるようでもない。ただ、違った道を行っただけ、という感じ。
なぜなんだろう?という疑問だけが残る。
オウム信者に、頭が足りないとか、常識が無い、とかは感じない。もちろん、自分だったらこうはならないな、とは思うが、彼らと自分が全然違う人間だとは思わない。
むしろ、現実や自分のあり方に悩む青年、誰もがなり得る可能性の1つではないか、と思う。オウム信者は自尊心が強く未熟なところも感じるが、正義感が強く、真摯で真面目な人間にも見える。
だから宗教はこわい、という話でもあるけど、宗教ではなく、他の道で生きがいを見つけられたら良かったのに、と考えるのは意味が無い。
彼らは、たぶんいろいろな道を模索して、彼らの中で、これしかない、と見つけた道がオウムだったんだろうと思うから。
オウム信者が河野義行さんの家を訪問したとき、彼らがノープランだったのを河野さんにたしなめられて、「セレモニー」としての言葉は用意しておくものですよ、ととても大人の対応をされて、まるで小学生がその場で発表会を相談するみたいに、マスコミ向けの文書を用意するところが、彼らの幼さというか、未成熟さをよく表していると思う。
オウムだけではなく、日本全体が幼く未成熟なんだな、と、いろいろな場面で感じた。
幼い、というのは、自分が何なのか、どうしていきたいのか、何が望みなのか、他人をどうしたいのか、何を目指しているのか、そういったことが定まっておらず、仮に決めたとしてもそれに確信を持っておらず、他人に語る明確な言葉を持っていない、というところだ。
マスコミや反対運動の住民も、ただ自分たちのエゴを単調に繰り返しているだけで、主張する言葉はあっても、語る言葉は無く、そのために「言葉」が言葉としての機能を持たず、空転しているようだった。
この完全版では、三女のアーチャリーの場面が入っている、ということが完全版たる理由だったようだ。たしかに、教団にとって重要な位置づけである彼女の、素の言葉や表情を見れたのは良かった。
警察の監視役と仲良く会話している様子はほほえましかった。
オウム信者をいくら責めても、彼らは彼らとして生きていくしかない。そして、彼らを否定する価値観や世界観よりも、肯定するそれらの中で生きていくことを選ぶのは、当たり前のことだろう。
解決は難しいだろうが、せめて、宗教にまつわるこれらの問題点を共有することができれば、と思う。その、立場を超えた俯瞰的な視点の足がかりとして、この映画は重要だと思う。
宗教や信仰の問題はオウムに限らず、とても身近で重要だ。政党の中には、宗教団体を母団体と持つものもあるし、若い人をねらった新宗教の勧誘も多い。
宗教について語ることをタブーとしたままではまずいと思う。