十字架(2015)のレビュー・感想・評価
全3件を表示
願い
この映画を観て、同じような経験をしない人が少しでも増える事を願う。
「いじめ」というモノの実態は分からない。
把握もし辛いんだと思う。
なぜ、発生するのかも理解し難い。
そこまで、他人の存在を貶める事が、どうして可能なのだろうか?
だけど、そういうモノがもたらす一つの結果を本作は声を張り上げ叫ぶ。
誰も幸せにはならない。
誰一人、幸せを感じない。
一過性のものと思うのは大きな間違いだ。
…昔なら苦い思い出と苦笑くらいはしあえたかもしれない。
でも、でも、現代のように、あのようなものが横行し、いや…あれより酷い状況だってあるのだろう。
ダメだ。
ひたすらにダメだ。
死んだ事では終わらない…。
何かが、また始まる。
今度は卒業とか節目とかは訪れてこない。
1人でも多く、このような過去をもつ人がいなくなりますように。
そういう切なる願いが、胸に去来する。
そんな作品。
主役が中学生を演じている事に最初こそ違和感を感じもしたが、本作の主軸であろう「降ろせない十字架を背負った人」「継続していく時間」の事を鑑みると英断だったと思う。
実際、それは些細な事だと思えた。
それをも凌駕するメッセージ性がこの作品にはあると思えた。
「シュートだ、フジシュン」
私の大好きな作家のひとりである重松清さんの同名小説を原作とした映画で、もちろん原作は既読です。
いじめによって自殺に追い込まれてしまった中学生の、遺書に親友として名前を書かれていたクラスメイトの男子、片想いを寄せられていた女子、いじめの主犯格たち。
見て見ぬ振りをしていたその他大勢として罪の意識を共有することさえできず、十字架を背負うことになった彼らは、何を思って、どのように生きてゆくのか。
許すこと、許さないこと、許されること、許されないこと。
もっと言うと、許されるべきでないこと、許されたくないこと。
「赦し」を主題に、人の身勝手さや脆さ、十字架を背負って生きることの困難と葛藤、それでも生きることの大切さを描いた、静かな名作だったと記憶しています。
特に印象的だったのは、クライマックスのシーン。
大人になって子どもができた主人公が、自分の息子とサッカーをしているときに、息子と自殺したクラスメイトをオーバーラップさせて感情を発露させるシーン。
「フジシュン、パスだ」
クラスメイトに向けてパスを出す主人公。
ボールを受けてドリブルするクラスメイト。
ゴール前。
「パスだ、ゆうくん」
自分でシュートを決める自信がないのか、主人公にボールを戻そうとするクラスメイト。
「だめだ、シュートだ!」
「パスだ、パスだよ、ユウくん」
「だめだ、シュートだ、フジシュン!」
主人公は、クラスメイトの一方的な親友であり、憧れの存在だった。
かたや、スポーツ万能、頭脳秀才。
かたや、体操着を便器に突っ込まれ、運動靴には焼きそばと牛乳をぶち撒けられる存在。
ずっと見ていた。
ずっと憧れていた。
ずっと、親友になりたかった。
「シュートだ、フジシュン!」
前を向くクラスメイト。
振り抜いた足から放たれたボールは、力強い軌道で無人のゴールネットを揺らす。
振り返るクラスメイト。
その目は、主人公を見ている。
その目は、親友を見ている。
フジシュンの遺書に、一方的に親友として名前を書かれたユウくん。
彼には親友と呼ばれるような理由はなにひとつ思い浮かばなかった。
その他大勢のクラスメイトと同様、いじめを見て見ぬふりして過ごしてきた。
見て見ぬふりは、見ていないのと同じだ。
彼はフジシュンを見ていなかった。
遺書に名前を書かれて、フジシュンの家に通うようになって、仏前に線香をそなえているときも、彼は本当にはフジシュンを見ていなかった。
自分に関係のない存在、もの、勝手に死んだ弱いやつ、そのくせ自分を巻き込みやがった迷惑なやつ。
そんなふうに、表に出さなくても、心のどこかで思っていた。
20年以上の時が過ぎ、大人になった。
結婚して、生まれた子どもも、もう小3だ。
そんな息子に、父の知らない親友がいるらしい。
母がこっそり父に教えてくれる。
その親友は、あの子の憧れのクラスメイトなの。だから、悲しいけど向こうは、あの子のことを親友とは思っていないと思う。
はっとするユウくん。
あの日のフジシュンの顔が脳裏に浮かぶ。
パンツを脱がされながら、こちらを見て助けを求めている顔が浮かぶ。
土まみれの靴を水道で洗いながら、差し出したスリッパを笑顔で断る顔が浮かぶ。
位牌の中で目を細めて破顔するフジシュンの顔が浮かぶ。
「サッカーしよう」
息子を突然サッカーに誘うユウくん。
フジシュンは自分に憧れていた。自分はフジシュンの憧れだった。
じゃあ、俺にとってフジシュンは......?
はじめてフジシュンという存在を自分の関係性の中にいる人間として認識したユウくん。
俺は、あの日のフジシュンに、どんな言葉を掛けたかったんだろうか。どんな言葉を掛けることができたんだろうか。
頼りなく笑うフジシュン。心をじゅくじゅくに濡らしながら、それでもまぶしそうに笑ってみせるフジシュン。
「シュートだ。シュートだ、フジシュン!」
20年の歳月を経て、はじめてユウくんがフジシュンに何かを求めた瞬間。
求めるということは、期待するということ。
期待するということは、その人を、かけがえのない存在として認めるということ。
フジシュンと自分との関係が、真新しい糸で一気に編み直されてゆく。
幻想から覚めると、ボールはどこか遠くへ飛んでいってしまっていた。
自分が思いきり宇宙開発してしまったらしい。
「新しい、プロ仕様のボールを買ってやるから」
息子と約束して家に帰る。
寝入った家族を起こさないように、思い出ダンボールの中からあるものを取り出すユウくん。
それは、フジシュンのお母さんが、大学入学祝いにとプレゼントしてくれた万年筆だった。
自分にとってのフジシュンは、どんなやつだったか。
今なら書ける気がする。フジシュンと過ごした数年を、今ならイチから書ける気がする。
万年筆を右手に、手紙と向き合うユウくん。
その背中は知っている。
十字架は背負わされるものじゃなく、内臓のひとつのように体の中にあって抱えて生きていくしかないものなんだと。
私たちができるのは、荷を下ろすことではなく、背中を強くして、足腰を鍛えることしかないんだと。
きっと本作の監督・五十嵐匠監督は、この『十字架』という物語が大好きで大好きでたまらなかったんだと思います。
だからこそ、この作品を作れたことに無上の喜びを感じていらっしゃるのではないかと思いつつ、もっとやれたという燻りも残っているのではないかと。
どうなんだろうと首をかしげてしまう演出もなかにはあったけれど、それはともかくとして、物語自体はとても考えさせられる、味わい深い作品だと思います。
小説と合わせて、ご興味があれば、是非ぜひ。
人が人を思う機会がもっとあればいいですね
最近は、気分が萎える映画とのめぐり逢いが多い。
小出の中学生役は無理がある。しかし、自分の息子とサッカーをしているうち息子が
フジジュンにオーバーラップする場面が終盤にある。小出がそこで夕日を眺めながら、肩を震わせて涙を
流す所があるのだが、あの時の裕の感情を芝居で見せることが出来るのは、たぶん、小出しかいないだろう
と思った。っていうか私が涙した所だから。
今回の作品で気になった場面がある。永瀬が「最近、やっとおいしいお茶がいれられるようになってねぇ…。」と言う場面????この男は、実は家のことも家族のことも無関心だったのではないだろうか?生前の息子が何に悩み、なにに苦しみ、なにを思って生きてきたのか?一番知ろうともせずに生きてきたのは自分ではないかと。気づいたのではないだろうか。だから家の庭の木をチェンソーで切り倒すというよからぬ行動にでたのではないか?
意味もないのに。この映画は「一人の少年の自殺」によって、いじめ意外で彼と関わった人間たちの後悔や反省がずっしり描かれている。
ラスト、フジジュンの「あこがれ」であった小出さんが永瀬へ手紙を書く自信を持てるようになった時点で
終わる。このような自殺は、これからも終わらないであろう。結局自分のことしか考えない自己中心的な人間が増えているからだ。生活指導教師が、教壇に立って言ったことは、亡くなった生徒を思って?自分の立場を考えて?学校のイメージを考えて?ますます人が人を思う機会が薄れつつあるから。
全3件を表示