劇場公開日 2015年11月21日

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「映画?いいえ小説の朗読です」流れ星が消えないうちに tomboyさんの映画レビュー(感想・評価)

0.5映画?いいえ小説の朗読です

2015年11月21日
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鑑賞方法:映画館

単純

寝られる

名代富士そばのワカメそばファンな監督が映像化に3年掛かったと舞台挨拶でその熱意を語っていた(内実は原作者からの許可に2年を要したが適切であろう)のだが、果たしてわざわざひと昔前のライトな小説を映像化する意義があったのか?
監督は、3.11後に誰にでも生じたであろう死生観を全く考慮せずにこの映画を製作したのだと断言して差し支えない。ゆえに軽く、胸に響かないのである。

全体としての感想は、ひたすらに原作小説のバイアスが監督自身気になり映画としてのエンターテイメント性が全く感じられない平面的な凡作。

最初から最後まで、フレッシュなキャストを用いた事による期待感からの盛り上がりあるシーン、山場が無く、文章で淡々と描かれる日常を映像化したせいか冗長で上映時間が異様に長く感じられた。
原作のイメージから忠実に製作された意図は理解できるが現在の世相にマッチした映像とは到底思えず長い長い2時間を過ごさせて頂けた。

武蔵野市、三鷹市協力の元に製作されたオールロケ映画と大きく謳う割には借りた空き家に作ったセット内でのシーンが多く、三鷹市の天文台シーンをさらりと挿入する事でお茶を濁す。
街の魅力を全く描ききれていない。武蔵野市、三鷹市でロケをした必要性がほとんど感じられずに非常に残念。
協力者はさぞかし無念であろう。

また、小説にも登場し違和感ありまくりの『大学生?の恋人同士がその父親を介在して家で食事をしたり晩酌するシーン』が退屈だ。現在若しくは原作小説の時代背景の学生恋愛にしても随分と年寄り臭い恋人同士に見えて嘘くさい。押し付けがましく独り言のようなセリフで強調される二人が背負う傷(これも拍子抜けするほどあっさりとしか描写されない)の深さ?を差し引いてもリアリズム皆無なズレた恋愛感覚の描き方に目を背けたくなる程。チープでノーセンス、気持ち悪くなるウェットさ。
独り言のようなセリフは映像からの逃げで、まるで小説の朗読じゃあないのか。

画面も意図的なのだろうが暗く、目を凝らさなければよくわからないシーン満載で疲れる。

そして、恋人を失った奈緒子という女性の現在、普段はいったい何をしている人なのか背景が希薄で不明瞭。感情移入出来ない。
もしや奈緒子や巧の互いが死別した恋人・友人との思い出によがってプータローや学生しながらも次の恋人だけは早々に手短で済ませていたというのなら、そんなもののどこがロマンチックで純愛なのか到底凡人には理解に及ぶまい。

カット割りで画面が黒く塗りつぶされるのも観ていてイライラして来た。
これも映像の逃げだ。

映像化に際しては、巧と巧の姉、巧の先輩とのエピソード、これは完全に不要で無意味なシーンだったと思う。
こんなものは省いて他の核心部を丁寧に描くべきだっただろう。

原作は奈緒子、加地、巧の三者からなる視線で描ききったが、映像化ではそれが仇に散漫。
やるせない退屈な映画になってしまった。
原作小説も大概退屈な印象だがそれ以上に退屈な映画を観てしまい非常に後悔している。夢や元気を授ける映画ではなく、観終わった後に溜息が出るほど疲れてしまった。

最後に、ライトノベル作家の長編作品映像化につき登場人物の葛藤が非常に希薄、自己肯定感が陰惨な程あっさりしてシラける。憤りさえ覚えた。
さらに奈緒子は現在の価値観でなら『完全なるビッチ』だと言えよう。
どこが純愛文学なのか?
”ひと昔前には流行っていた”のかも知れないらしいネットに溢れたビッチの自己肯定ストーリーである。
この掃き溜めのお花畑のメインテーマは、綺麗事絵空事を排除した後”誰にだって性欲はある 。恋人がいたり、死んだ直後であっても”。としか読み取れない。
恋人と死別した地味な女でも早々にやる事やってんの?というネタをひたすらに美化した三文作品小説&可哀想な加地君のセカンドレイプ映画だとわたしは感じた。

tomboy