勝手にしやがれのレビュー・感想・評価
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ヌーベルバーグの記念碑的作品
ジャン=リュック・ゴダールの初長編監督作。即興演出や手持ちカメラでの街頭撮影など、当時の劇場映画の概念を打ち破る技法で製作され、後の映画界に大きな影響を与えた、ヌーベルバーグの記念碑的作品。
ミシェルとパトリシアの絶妙に噛み合ってない会話面白い。
あとミシェルはセックスすることしか考えてなくて笑う。
有名なラストシーンもやっぱりよかった。
パトリシアはファム・ファタールだ。
今みても面白く観れる。名作です。
道化(ピエロ)・刹那的殺人・女との逃避行
1960年作品。
監督:ジャン・リュック・ゴダール。
コンセプト・テーマは「気狂いピエロ」と変わらない。
モノクロ映像が美しく。カメラアングルも洒落てる。
90分と短いので中弛みをしない。
BGMのジャズも1960年代らしさを醸して、「気狂いピエロ」より、
好きだった。
ジャン・ポール・ベルモントは、ヒーローでは全くない。
頭の悪い不良でジーン・セバーグに惚れている。
ミシェル(ベルモント)は自動車泥棒でサンダーバードを盗んで
乗り回すものの、古売商に見抜かれて、エンジンに細工され
動かなくされる。
執着をしない男で、すぐ車を捨ててしまう。
チカラも欲もない。
ジャン・ポール・ベルモントは自分の“たらこ唇“を親指の腹で、
横に何度もなぞる。この癖は何故か色っぽい。
この時ベルモントは27歳。
ヒロインのジーン・セバーグはこの時、23歳で、
見た目が意外と老けてるがジャーナリスト志望の大学生。
それにしてもベルモントはトビッキリ魅力的。
何も考えずにじーっと見ていられる。
ジーン・セバーグは設定通りにアメリカ人で、セシールカットが
とても似合っている。
ジーン・セバーグ。
40歳で変死しているのね。
自殺というけれど、夕暮れに車の中で毛布に包まれて
放置されて死んでいた。
フランス人俳優は(2枚目のアラン・ドロンは別として)
ジャン・ギャバン、イブ・モンタン、リノ・ヴァンチュラ、
と味のある変わった顔の俳優が人気だ。
ミシェルは死んだ、何故か?坊やだからさ
観終わって思い浮かんだのは、ガンダムのあの名文句。
とてもスタイリッシュでかっこいい映画。
車内のシーンは本当に運転しながら撮影しているのかな、とても臨場感がある。「勝手にしやがれ」と口にするシーンでは、客席を見ずに前を向いて運転して言いたくなる位だ。
そして、ろくでも無い主人公を演じるベルモンドの格好良いこと。極端に短いネクタイ姿や白トランクス姿、裸にハット姿、どんな姿をしても絵になってしまう。端正な二枚目とは違うが、ルパン三世の様な格好良さ。鼻につく加減、男の馬鹿さの中に見える可愛げの塩梅、分厚い唇の存在感。どれも行き過ぎているんだけど、嫌味にならなず彼の魅力にしてしまう。彼じゃなければ、あのラストシーンは成り立たない。
会話のシーンもとても面白い。話がすれ違っているようでいて時間差で拾ってきたり、カメラが話していない方の顔をずっと追ったりする。
刹那的な男と先を見る女のすれ違いという有りふれた内容なのに、すっかりこの作品の世界に引き込まれてしまった。
お洒落で
カッコよくって、美人で良いよね。
だけどテンポも内容も軽くってびっくりするよね‼️
そしてこんな調子で最後まで行ってすげーな。
と映画としてやり切ったスタイルに感動すら覚える。
そして最も驚いたことは
映画そのものに意味があるのではなく
これを観て、今観ている自身の状況に
ガッツリ振り返りを行うことになろうとは。
こりゃ名作だわ◎
【”本当に最低だ。”男は自分の生き方も死に方も自分で決める。自由奔放に生きる男女のストーリー展開のテンポの良さも良き作品。】
■自動車泥棒のミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、マルセイユで盗んだ車を走らせている道中、追いかけてきた警官を射殺してしまう。
その後にパリへと向かい、かつてベッドを共にした女性・パトリシア(ジーン・セバーグ)と気ままな日々を送ろうとしていたが、警官殺しの逃走犯として新聞に載ってしまう。
◆感想
・ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルと、ジーン・セバーグ演じるパトリシアのテンポ良き会話が、前半は魅力である。
■パトリシアはミシェルの行いを新聞で知り、密かにヴィダル刑事に密告の電話をする。
<ラストは警察に追われたミシェルが背中を撃たれ、よろよろと街中を走りながらも斃れ、”最低だ”と呟き絶命する。
パトリシアは”?”最低って何のこと?”とケロッとした顔で言い、彼女の顔のアップで暗転。
現在、この作品を見たら”なんじゃ、こりゃ!”だが、今作がその後の作品群に与えた影響(ジャンプ・カットとかね。)を考え、評点とする。>
意外な内容だった
逃避行とその結末を楽しむような映画かと思いきや、観てみたら、ワタシ的にはちょっと違っていた。
逃避行自体はハチャメチャなだけという印象。(これが作られた当時はそこが面白かったのかもしれないけれど…)
それより、このハチャメチャ自分勝手な男と、彼に悩みながらも付いていく女学生の、関係の推移、二人の心理のやり取りが、フランス映画っぽい見ごたえがあり、おもしろかった。
こういう男に付いていくのはバカバカしい、なんの得にもならない、とわかっていながらも、惹かれてしまう。その絶妙な心理を男の方はいまひとつよくわかっていない。そして、こんなはずじゃなかった的な結末へ。
この女性の気持ちは理解できる♪
キュートでモテる男も、多少は思慮深さを持っていたほうが身のためかも。
好きだけど、星のつけられない訳
映画史ではゴダールが唯一の革命といわれるほど、彼のこの処女作の影響力は大きいらしいが、今を生きる我々にとっては、そんなことはどうでもいいことで、要はこの映画が面白いかどうか。それだけが重要だろう。
そういう意味では自分は間違いなくこの映画を楽しめているし、レンタルで観た後、わざわざBDを買ったから今後も楽しむだろうし、自分が最期に観る映画を2本選ぶとすると、そのうち一本はこれを選ぶだろう。
だが、ご覧の通り、僕はこの映画に星をつけていない。
何故なら、僕には評価できないからだ。
この映画は僕の手に余る。間違いなく面白いのに、何がこんなに面白いのか理解できない。多くの人が60点ぐらいの評価をしてるのは、恐らく、何が起きたのか理解できなかったからだと思う。
いや、身構えなくても結構。ストーリーやコンセプトは至ってシンプル。(以下、あらすじだが読みたくない人はこの段落を飛ばせば結構)チンピラ(と言ってもパリのチンピラは随分洒落てる)がニューヨーカーの娘に惚れてる。チンピラはゴリラみたいに欲望に忠実で学がないが、女は大学生で、芸術を愛し、ピカソやフェルメールを愛し、ヒューストンを愛してる。が、このゴリラのことも愛してる。このゴリラ、人殺しだけど好きだ。困った、さぁ、どうしよう?それだけだ。
よくある、三文小説じみたプロットだが、多くの人が考え付くということはそれだけ世情を反映させているということ。僕はこの話に出てくるチンピラに随分共感したし、ニューヨーカーにも同情し、自分の好きな女の子を投影できた。
ストーリーは分かり易く。登場人物にも簡単に共感し自己投影できる。なのに、何が面白いかわからない。とても、不気味だ。その不気味さをどう書いたら良いのかわからない。
今は自分のことがよくわらないようなものだと考えている。あまりにも距離が近いことはよくわからないように、あまりにも私事のように感じられる作品は意味がわからない。
それはともかく、主演のベルモンドはまだ縁起が洗練されてなくて、初々しい。
ニューヨーカーの娘、ジーン・セバーグはベリー・ショートが人類史上最も似合う。
二人の輝きは万人の目の肥やしになるだろう。
最初にゴダールが映画史に残る唯一の革命家だと書いたが、彼がこの規格外の映画を作ったことで、彼の映画がスタンダードになり(事実、古い映画にありがちな妙なダルさは皆無だ。)、映画が不可逆的に変化したから、その別れ目である、ゼロの映画を認識できないのでは?
もしくは、映画のようで映画でない全く別のものなのではないか?
もしくは、僕にはわからん超絶技法が使われているからなのか?
時間の流れの不自然なのに、しっくりくるところ、記憶の中の自分を見ているときのような感覚をどのように感じたのかは全くわからないが、万人受けしうる作品にはなっている。僕は自分と同年代の若者に観て欲しい。
ノワール映画もどき
久しぶりに観たのでレビューします。
この映画を知ったのは、
“勝手にしやがれ”ってジャズ系バンドの影響です。
同バンドが好きだった僕は、さっそく借りて観たものの、ガッカリした記憶しかなく、それ以外は覚えていませんでした。
あらためて観たら、ノワール映画っぽい始まりに胸が高鳴ったが、すぐに失速…
『俺たちに明日はない』っぽいんだけど、ロマンス要素が強めで、下らない男女間の会話を淡々と聞かされる…
基本的に淡々として退屈で盛り上がりに欠け、眠くなります(笑)
淡々として退屈だからか90分の尺が長く感じた(笑)
最初と最後は、ノワール映画っぽくて良い(笑)
60点ぐらい。
ゴダールは映画界で最高のクリティークではないか。
フランスからの帰国便(AF)で鑑賞。
1960年、ヌーヴェルヴァーグの嚆矢となったジャン=リュック・ゴダールの長編第一作。既成のフランス映画に挑戦し、根本から覆そうとしている。斬新の一言!カイエ・デュ・シネマの批評家(クリティ-ク)として出発したゴダールのすべてが現れているのではないか。
テーマは、僚友フランソワ・トリフォーが見つけてきた、言わば三面記事だが、アメリカの犯罪映画にありそうな筋立て。しかし、徹底して即興性に富むドライな映画に仕立てた。演じているのも長編映画へのデビュー作となるジャン=ポール・ベルモンドとアメリカ人のまだ若い女優ジーン・セバーグ。私は、ゴダールの映画では、アンナ・カリーナが一番のお気に入りだ。
手法として手持ちカメラでの街頭撮影が頻用され、セリフは自発性を重視し、即興演出、同時録音、ただし編集で、当時の定番の90分の枠に入るよう、ジャンプカットが多用された(今でも、フランス映画の過半は90-100分の枠に収まっている)。
アメリカの影響も顕著。ベルモンドの演じたミシェルは、ハンフリー・ボガードが大好きで、キャデラックのオープンカーなどを盗んでは乗り回す。セバーグの扮するパトリシアは、アメリカからソルボンヌへの留学生だが、シャンゼリゼ通りで、英語版のヘラルド・トリビューンの立ち売りをしている。通りを行ったり来たりするところが大変、可愛い。
斬新な手法で出来事をビビッドに伝えようとするこの映画は、主人公たちの魅力もあって、世界中に広まった。同時代的に、各国の映画に与えた影響は計り知れない。流行した面があったにせよ。日本でも、数限りのない追従者をえて、TVドラマでも同じ手法が繰り返し使われた。特に、我が国では、松竹ヌーヴェルヴァーグを含む多くの映画作家や批評家に大きなインパクトを与えた。実際に、かなり長い間、外国映画を語ることは、ゴダールの映画について語ることだった。後の北野武にも衝撃を与えたことが見て取れる。ダイナミックでシャープな画面に、僅かに滲み出る抒情性に共通したものが感じられる。
ただ、この手法が映画そのものを終焉に追い込む危険性を孕んでいたことも事実である。音階(メロディー)とリズムを分解した現代音楽がクラシック音楽を終焉させたように。この手法が、その後、主流になったわけではないことは、ゴダールも認めている。
テーマにも議論の余地があり、ゴダールが来日した時、インタヴューに応えて、大島渚の「青春残酷物語」を、ヌーヴェルヴァーグの先駆けとしている。ゴダールは、日本には何人かのよい映画作家が存在したとして、溝口、黒澤、小津、成瀬らの名前を挙げ、しかし「日本映画は存在しなかった」と言いきっている。「日本が何だったのか」「日本が何になりたいのか」を表現する日本映画は存在しなかったと捉えていたのだ。
私は後にも先にも、日本映画について、これほど的確な文章に接したことはない。
大変興味深いことに、ゴダールは、インタヴューの中で、最近の作家として、北野武の「HANA-BI」を挙げ、普遍的な映画として激賞している。
このように本質的にはクリティークであるゴダールは、一生をかけて映画を変革しようとしたのだ。その出発点となったこの映画を、虚心なく鑑賞したい。
カッコイイとはこのことか
全てのスタンバイは出来た!
「さあ、映画を撮るぞ!皆んなどけ!!」
それがこの映画から聞こえてこない。
街ゆく人も「お前ら何やってんだ」の表情。
自然で決まりは無い。無いようで決めている。
枠から飛び出した映画作りに
当時の関係者は衝撃を受けただろう。
撮影、演技、音楽、編集、どれもカッコイイ。
カッコイイから今に残り、何度も観ることになる。
※
名作だが映画史の文脈の中での評価から免れない
ヌーベル・バーグの代表的作品で、ゴダール初の長編映画。
移動しながらのトラベリング撮影や同時録音、セットではなく街中で撮影することにより一般人を巻き込んだ偶発性の創出、大胆なカットなど今見ても大胆な作品。
ただこの評価の通り、どうしても技法を中心とした評価になってしまい、映画史という文脈の中での評価に引っ張られてしまうなと感じた。
そのため単に娯楽として映画を見る方にはあまり惹きつけられない可能性はある。
お洒落でかっこいいベルモンド💕
今見ても、クールでかっこよくて知的で面白い場面が沢山散りばめられている映画だから、公開当時のヨーロッパなり映画界はびっくりしたんだろうなあと想像できる。ゴダールもトリフォーも凄いんだろうが、凄いのはベルモンドが主役だからだ!ゴダールが人間国宝ならベルモンドはもっと凄い人間国宝です。ベルモンドだから車がピッタリ、背も高く足も長くお洒落なフランス男で愛嬌あって可愛いいたずらっ子。彼だからパトリシアは好きになるし、パトリシアに惚れちゃったんだよと言う彼の言葉も分かってあげられる。
抽象的・哲学的な言葉のやりとりやモノローグは大島渚の映画「絞死刑」(1968)を思い出した。いきなり撃つとか撃たれるはタランティーノ。
パトリシアが膝から足までをビデで洗うシーンが好き。ビデは便利で大袈裟なシャワーもバスタブも不要で小回りが効くからとてもいい。パトリシアが映画館のトイレの小窓からパンプス脱いで逃げて刑事をまくところは小鹿みたいでよかった。ピカソとかルノアールの絵がピンナップみたいに壁に貼ってあったりモーツァルトを聞いたりディオールの服がいいな、などアメリカ人の女の子がヨーロッパに憧れて学んでる感じが面白かった。
ベルモンドはサングラスも帽子も煙草も運転姿も親指で唇をなぞるのも全部が素敵だった。でも孤独と絶望が溢れ出ていた。江戸木さん企画・セレクトのベルモンド映画大会、今年で3回目(で最後?悲しい)。その中で見た「オー!」(1968)は他の作品と色合いが異なるなあと思ったことを思いだした。若いベルモンド。美しい恋人がいて彼女には自分の仕事を隠している。お洒落でネクタイたくさん持っていて元カーレーサーだから運転素晴らしく、孤独で認められない辛さが滲んでいた。このベルモンドはゴダールの映画に出たからできた役なんじゃないかなあ、と勝手に今日から思うことにした。
おまけ
よく聞く話に、高倉健の映画を見ると映画館から出る時に男性は高倉健になってしまって歩き方まで変わるとか。今までそういう経験なかったけれど、今日は、映画の人物(ベルモンドとジーン・セバーグ)が混ざりあった人になって映画館を後にした。視線とか首の傾げ具合。ハッと気がつき恥ずかしかった。
ジャン=リュック・ゴダール監督を偲んで
ジャン=リュック・ゴダール
9月13日死去
享年91
持病に苦しみスイスで薬物による安楽死を選択
U-NEXTで鑑賞
ヌーベルバーグ
ニュースで久々に耳にした
脚本より映像か
ゴダール監督作品初鑑賞
昔のフランス映画は野暮天にはハードルが高い
1960年だから日本の年号では昭和35年
既に日本でもカラーが主流だからこの作品がモノクロなのはゴダール監督の拘りだろう
あらすじ
自動車泥棒の常習犯ミシェル・ポワカールはマルセイユ郊外で追跡中の警察官を射殺してしまう
パリに逃亡したミシェルはアメリカ人留学生パトリシア・フランキーニと再会しやがて男女の関係になる
ミシェルとの逃亡を断念したパトリシアは警察に密告してしまう
映画の原題は『A bout de souffle』
「息ができない」か
ミシェル
「もしあんたが海が嫌いで山も嫌いならそして街も嫌いなら勝手にしやがれ!」
邦題のタイトルはこの台詞から取られたんだろう
むかし公開された洋画の日本だけのタイトルはかっこいいものが多い印象
『勝手にしやがれ』といえばまず思いつくのが阿久悠が作詞した沢田研二の代表曲だがこの映画のタイトルから拝借したらしい
この映画がなければジュリーが帽子を飛ばすことは無かったし『プレイバックPart2』も『勝手にシンドバット』も生まれてなかったかもしれない
その点だけでもこの作品は日本に絶大な影響を与えた黒船といえる
語尾にやがれといえば「待ちやがれ」「一昨日きやがれ」だが時代劇っぽくもありなんだか古めかしい
「一昨日きやがれ」に至っては全く無理な話でドクにデロリアンを改造してもらわないといけない
最近では大島優子の写真集『脱ぎやがれ!』だが目立つのは半ケツ程度で中西里菜に比べたら然程脱いでいるわけではない
半ケツは腰が曲がり切った片田舎の婆さんが誰に頼まれたわけでないのに野外露出するのであまり好きじゃない
話を映画の内容に戻す
パトリシアのこの台詞も良い
「あなたを愛したくないの。だから警察に電話したの。これが愛なのかを知りたくて一緒にいたわ。自分の気持ちを確かめるために。私はひどい仕打ちをした。つまりこれは愛じゃないわ」
白昼の街中だというのに丸腰のミシェルの背中にいきなり発砲するパリ警察
無茶苦茶だ
ミシェル
「君は本当に最低だ」
パトリシア
「最低って何?」
不自然な映像が多い気がする
トイレで警察を巻いたパトリシアがミシェルに会うシーンはいきなりすぎた
いらないシーンをカットして強引にくっつけたせいだろう
初のヌーベルバーグだがそれ以前のフランス映画を詳しく知らないのでその違いがよくわからない
自分は幸いなことに鑑賞中に眠ったりはしなかったが王道のハリウッド映画こそ本当の映画だと断言するようなタイプは爆睡する可能性大
都会的でインテリなセレブならこのくらいの映画の良さは十分理解できるだろうし一流の嗜みといえよう
僕は一回観ただけではこれだけ高く評価されている理由がよくわからなかった
ただなんとなくだがカッコ良さは伝わった
ショートカットのジーン・セバーグがとてもキュート
『悲しみよこんにちわ』のセシルカットだ
ジーン・シバーグが可愛かった
ミシェルはマルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺し、パリに逃げた。パリに着いたものの、金もなく、警察から追われているため、アメリカ人留学生のガールフレンド、パトリシアと行動を共にしていた。しかし、ミシェルが警察に追われる身であることを知ったパトリシアは、一緒に逃げることを断念し警察に通報した。そしてミシェルは・・・という話。
ひっきりなしにタバコ吸うジャンポール・ベルモンドが印象に残る。
昔は自動車泥棒って簡単に出来たのかな?
最後の、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられたパトリシアが「最低ってなに?」と訊き返すシーンはどういう意味なんだろう?
全体通してよくわからなかったが、60年前は斬新だったのかも。
ショートへヤーのジーン・シバーグが可愛かった、
やっぱり最高!
う〜ん。やっぱり超カッコイイ…
どうしても久々にスクリーンで観たくなって、キネマ旬報シアターまで遥々と電車を乗り継ぎ辿り着き、タップリ堪能してきた。
もう本当に最高。
オープニングの唐突なスピード感。
マーシャル・ソラールの粋な音楽。
あまりにもモノクロ映えのするフォトジェニックなジーン・セバーグ。
ボギーに憧れる若気の至りココに極まりなベルモンド。
ナボコフをイメージして、すっかり大物作家になりきってたジャン=ピエール・メルヴィル(人生最大の野心は?→不老不死になって死ぬこと!)
ラウル・クタールの本当にヌーヴェル・ヴァーグとしか言いようのない鮮烈軽快なカメラワーク。
そして、あのラストシーン!
最後に“FIN”の文字が出た瞬間、思わず久々に「おおお…」と唸ってしまった。
こんな映画、もう二度と誰にも作れないだろう。
1959年の製作で、こんなことをやってしまうなんて…
今さら言うまでもないが、これが無かったら、アメリカン・ニューシネマだってタランティーノだって、その他の数多の諸々の映画だって存在しなかったに違いない。
そして邦題『勝手にしやがれ』が兎にも角にもズバ抜けてる!冒頭のベルモンドの台詞なのだが、原題からの翻訳などでなく、この言葉をチョイスしたセンスが本当に素晴らしい。
もう本当に最高だ。
何度でも言う「本当に最高だ!」
睡眠導入剤
大むかしに大阪の某劇場で、オールナイトのゴダール特集を観たが、それはある種の拷問のような、あるいは修行のような体験であった。
そのときに上映された作品名も内容もまったく憶えていない。憶えているのは、ただただ眠かったこと。そして、退屈な作品の連続に、「早く終わってほしい、朝になってほしい」と思ったことだけだ。このときにもしかすると本作を観たのかもしれないが、何しろ作品のことはなんにも憶えていないのだからどうしようもない。
で、あれから幾多の歳月が流れ、何故かまたゴダールの映画を観にいってしまった。やっぱりつまらないし、眠かった。眠気とのたたかいであった(僕は映画鑑賞という行為を大切にしているので、どんなにつまらない映画や気に入らない作品でも眠ったりしないのだ)。
当時のパリの風物、ブレッソンやドアノーの写真を思わせるような映像、スタイリッシュなファッション、ジャズによる軽快なBGM……。それらのおかげでなんとか最後まで観ることができたが、映画じたいはほんとうに退屈だった。
ヌーヴェル・ヴァーグの傑作かなんか知らんけど、ゴダールの映画は、僕の頭でストップし、こころや魂には届かないのであった。
よっぽどインテリジェンス溢れる人でないと、こういう作品の価値はわからないのでしょうね。
寝つきが悪い方にはオススメです。
フィルム・ノワールの「分流」としてのヌーヴェル・ヴァーグ。その起点を成すゴダール流「ファム・ファタル」映画
ジャン・ポール・ベルモンドの『リオの男』で、ベルモンドがさんざん車を後ろから走って追っかけてったり、最初から最後まで無賃乗車を繰り返しながらパリからリオまで行ってまた帰ってきたりするのって、思い切り『勝手にしやがれ』のパロディだったんだな(笑)。
今回およそ30年ぶりに観て、初めて気づいたよ。
あまりに仕事が忙しすぎて、有楽町で観られず、横浜でも観られず。
ようやく柏のキネマ旬報シアターでのリヴァイヴァルで観ることができました。
大学生の時以来だから、筋から何からさっぱり忘れてた。
ゴダールといえばやはり「難解」という印象がどうしても強いが、長編第一作である本作は、必ずしもそれは当てはまらない。
たしかに、技術や演出技法において当時真に革新的だったことは確かだが、のちのゴダール映画とちがって、いちおうちゃんと筋はあるし、何が行なわれているかもだいたいわかる。
すなわち、ある程度は物語映画としての「体裁」を保っている。
むしろ、オーソドックスな「ノワール」+「恋愛映画」=「逃避行」の枠組みに、新たなるヴィヴィッドな感性と即興性、そして意識的な「作家主義」を注ぎ込んだ作品と位置付けるのが妥当ではないか。
それに、自然光の下でのロケーション主体の撮影や、手持ちカメラ、ノーメイク、即興演出、リアルなダイアローグ、ジャンプカットなどの諸々の「新手法」は、当時はそれこそ誰しもがぶっ飛ぶくらい斬新だったかもしれないが、いずれも、その後普遍化して“当たり前”になったやりくちばかりだ。つまり、われわれ今の視聴者にはむしろ「違和感がない」。
マーシャル・ソラールのジャズの小粋な使い方などは、60年代以降の気の利いたアクション映画やサスペンス映画の「お手本」みたいな感じで、ちっとも難解だったりとっつきにくかったりはしない。
全体に満ち溢れる、「動き」の気配と躍動感、切れの良い音楽、魅力的な俳優と女優のしぐさや立ち姿は、間違いなく観客を楽しませるものであり、バリバリに「エンタメ」している。
現代人からすれば、他の50年代、60年代の古臭い映画より、よっぽど「今に通ずる普通の感覚の延長で」楽しめる映画だといっていいかもしれない。
お話は比較的、単純だ。
無軌道な青年が、米国人ジャーナリストの女性に会いにいくために、いつものように車をパクってパリに向かうのだが、途中でスピード違反でポリ公に目を付けられ、職質されかかったので射殺する。
青年はパリで元カノの金をネコババして女に会いに行くが、新聞ではお尋ね者として指名手配されている。ふたりは再会し、デートするが、官憲の影は間近に迫っていた。
逃避行、一夜の情事。その末に女が下した決断は、「密告」だった……。
もともとはトリュフォーが自身のデビュー作として温めていた企画で、1952年に起きたほぼ同内容の実在の事件「ミシェル・ボルタイユ事件」を題材にとっている。トリュフォーは結局プロデューサーの同意が得られず、先に撮った『大人は判ってくれない』(59)でデビューを果たしていた。ゴダールはぜひこの企画を譲ってくれと懇願し、親友の許可を得た彼は、トリュフォーのシノプシスをもとにさっそく脚本を書き上げたのだった。
僕個人にとって、『勝手にしやがれ』が達成した最大の功績というのは、主演ふたりの魅力を最大限に引き出したことにあるのではないかという気がしている。
すなわち、従来の映画では、役がまずあって、それに合わせて俳優が演技をした。あるいはその逆で、まずスター俳優がいて、それに合った役があてがわれた。
ところが、『勝手にしやがれ』において、その「後先」は不分明だ。
本作における、ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグは、あたかも最初からこのフィルムのなかにいたかのように自然にふるまっている。そのうえで、ちょっとしたしぐさや立ち姿、目線の動かし方や歩き方といった日常の何気ない所作から、途方もない魅力と吸引力を発している。
彼らはミシェルとパトリシアでしかないのだけれど、同時にベルモンドとセバーグでもある。
ここでのベルモンドとセバーグは、役を生きながら、同時に、本人そのものであるかのように生きているのだ。
なぜか。
それは、ゴダールが「役」に俳優を当てはめず、俳優そのものの資質や佇まいに、役を「引き寄せて」演出したからだ。その場で実際に会って感じたベルモンド個人の魅力、セバーグ個人の魅力を、貪欲に「役に取り込み、役の一部として同化させた」からこそ、本作の二人は「奇跡的なかっこよさ」を身にまとうことになったのだ。
ゴダールの用いた「即興演出」「自然光撮影」「手持ちカメラ」「ロケ」といった新手法は、「そのため」の手段として採用された技法だ。
役者独自の魅力を見逃さないこと。それをヴィヴィッドにフィルム上に切り取って見せること。フレキシブルに役者に合わせて役を改変すること。
その「対応性」を高めるための手段が、演出における即興性であり、リアリティを付与する撮影方法だった。
それから、もう一点。
われわれは、ゴダールの名前、あるいは『勝手にしやがれ』のタイトルを聞くと、つい反射的に「ヌーヴェル・ヴァーグ」と直接的に結び付けて想起しがちだ。
実際に『勝手にしやがれ』がヌーヴェル・ヴァーグ初期の輝ける結実であることは、もちろん論を俟たない。
だが、こうやって久方ぶりに観直してみると、『勝手にしやがれ』が、題材選択においても、キャラクター造形においても、撮影技法においても、「フィルム・ノワール」の延長上にある映画だということを改めて痛感させられる。
それも、フランスによって変容させられた50年代のフレンチ・ノワールではなく、その大本にあるアメリカン・ノワールからの直摸の部分が大きい(ここ数年、シネマヴェーラでフィルム・ノワールをお勉強がてら見まくって、だいぶ脳内比較ができるようになった)。
何よりまず、本作は「ファム・ファタル(運命の女)」に狂わされる男の転落人生を描いた、典型的なノワール・プロットを採る。
試みに、Wikiのフィルム・ノワールの稿を見ると、ノワールの典型的な特徴としてあげられているのは、以下の通りである。
舞台設定(現代の大都市)
視覚的スタイル(コントラストを強め陰影を強調した画面)
テーマ(犯罪、詐欺、離別、精神疾患など)
登場人物の性格(ハードボイルドな男性主人公、謎めいた女性)
物語手法(時系列を複雑に行き来する構成、説明省略の多用など)
全体的なムード(社会に対するシニシズムや憎悪、閉塞感)
いかがだろうか。まさに『勝手にしやがれ』を説明しているかのような文章ではないか。
(まあ、本作では上記「シニシズムや憎悪、閉塞感」を超えて、ある種の「ニヒリズム」の領域に達しているのが、真に「新しい」といえるのだろうが。)
自然光の採用や、ロケによる撮影といった技法も、もともとは40年代~50年代のアメリカン・フィルム・ノワールに端を発するものだ。
トリュフォーも、ゴダールも、もともとセリ・ノワール(フランスで出されていたアメリカやイギリスの犯罪小説中心の叢書)の熱烈な愛読者であり、幾度も映画の題材に採っている(とくにトリュフォーが繰りかえしアイリッシュ原作を採用していたのが印象深い)。クロード・シャブロルなんか、たぶん撮った映画の半分くらいはミステリー映画だったくらいの推理小説好きだ。要するに、ヌーヴェル・ヴァーグの担い手にとっては、大きな霊感源のひとつが、フィルム・ノワールであり、ノワール小説だったのだ。
そもそも、『勝手にしやがれ』は、冒頭の献辞において、アメリカの低予算映画専門スタジオだった、モノグラム・ピクチャーズに捧げられた映画だ。
作中で登場・引用される映画群も、ロバート・アルドリッチの『地獄への秒読み』(59)、リチャード・クワインの『殺人者はバッヂをつけていた』(54)、オットー・プレミンジャーの『疑惑の渦巻』(49)、同『歩道の終わる所』(50)、ジョン・ヒューストンの『マルタの鷹』(41)など、総じてアメリカのフィルム・ノワールのプチ映画史を形成している。
ジャン・ポール・ベルモンド演じるミシェルの葉巻を用いたキャラクター付け自体、ハンフリー・ボガードを祖型としたものだ。
すなわち、「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、「フィルム・ノワール」の「分流」――あるいは、フレンチ・ノワールとは別の形での(より本質的で批評的な形での)受容から始まった「新運動」だったのではないか、というのが僕の問題提起である。
このテーマは、二週間後にもう一度柏まで行って観る予定の『気狂いピエロ』に直接的に引き継がれ、そこでは原作であるライオネル・ホワイトによる小説版との比較が、きわめて重要になってくるはずだ。
ー ー ー ー
にしても、この僕がよりによって、ゴダール特集上映なんかに足を運ぶなんてなあ、と思うと、ちょっと面はゆくなるし、なんだか気恥ずかしい。
大昔、まだ大学生だった僕にとって、ゴダールはある種の「仮想敵」だった。
より正確にいうと、「ゴダールを絶賛するような手合い」を、勝手に敵認定して猛烈にイラついていたのだった。
今から考えるとお恥ずかしいかぎりだが、当時の僕は、映画の本道は娯楽にあると信じ、客を楽しませることに腐心している映画こそ評価されるべきだと本気で考えていたから、藝大に入れなかった私立美大生あたりが「やっぱゴダールだよねぇ」みたいなことを言ってると勝手に妄想し、反吐が出るぜ、こいつら絶対いつか滅ぼしてやると過剰反応し、レオーネやペキンパーやデ・パルマを偏愛し、「秘宝」的な映画観に大きな影響を受ける一方で、オナニズムと承認欲求に毒されている(と僕が独断で決めつけた)難解な「ゲージュツ」映画を、ことごとく嫌悪していたわけだ。
振り返ってみると、あれも若さゆえの「潔癖主義」だったんだろうな、と。
なんか、柄谷やら蓮實やら浅田やらデリダやらラカンやらフーコーやら、「当世流行りの難解な言説&芸術批評」を、さもしたり顔で「わかってるか」のように語る一部のスノッブ連中が、とにかく憎くて憎くてたまらなかったのだ。その前提には「俺がまったく何言ってるのかわからないのに、なんだよそれ! わかるやつがいるなんて信じたくないよ!」というやっかみと羨望があっただろうし、恥ずかしげもなく「難しいことを読み解いてる自分」を誇示できるメンタルの強さが信じられないというのもあった。
でも、時を経て、そのうち思うようになった。
「ちょっと待て。ゴダールにせよ、ニューアカにせよ、世間でしっかりヒットしてブームになっている時点で、それはもう十分『エンタメ』としても成功してると言えるんじゃないか?」
「たとえ難解でも独善的でも意味不明でも、一定層のスノッブを刺激して集客して彼らを良い気持ちにさせているのだとすれば、それはそれで立派な『娯楽映画』であり、お金儲けの正しい『エクスプロイテーション』ではないのか?」
この視点に気づいた瞬間に、僕のなかで「ゴダール・コンプレックス」は雪解けを迎え、ゴダール映画もまた、豊穣なるエンタメ映画の海へと還っていたのだった。
逆に最近は思う。
自分が若かったときにあれだけ鼻に付き嫌悪した、「難解さへの憧憬」という若者独特の背伸びしたカルチャーが、いまや恐ろしいことに、日に日に廃れつつあるのではないか?
ネットやSNSの「わかりやすさ」にスポイルされ、「三行」「終了」「論破」といった脳停止ワードに精神を毒された連中には、歯ごたえがあって、ちょっとやそっとでは読み解けないような評論をもっと読ませたり、一見しただけでは意味すらつかめないような映画をもっと観させたりしたほうがいいんじゃないのか?
というわけで、最近の僕はゴダール容認派であるどころか、大いに推進派へと鞍替えした次第。
みんな、もっとゴダール観ようぜ!
ひさびさに拍手したくなったこのラスト W
ヌーベルバーグ=新しい波= と言うけれど、
男女の追いかけっこと すれ違いってもんは、時代を超えて国を超えて、いつもどこでもこんなものなのではないだろうか。
(それまで作られてきた)夢見心地のおとぎ話映画ではないから、せっかく金を払って映画を観にきた人間の神経を疲れさせてくれるのかもしれないが、この会話の諧謔性は、いつもの男と女を蒸留し濃縮して見せてくれるからこそ、だからツボにハマるのだよ。
いろいろと思い当たるからね。
ジャン・ポール・ベルモンドは、ふられる男の哀切を演じてはトップクラス。
東の渥美清、西のベルモンドか。
♥
仕事に遅れるのに、朝のベッドでしょ。
警察がやってくるというのにスケとの会話一択でしょ。
そして銃で撃たれてフランキーニに見せるあのふくれっ面。
「サイテーの女だよオメェ」。
で、臨終の儀式はセルフとか。
ものすごっく幸せそうなブランキーニの表情で FIN
うわー、
カッコよすぎて、おいらも眠っていた不良の血がたぎったよ
61歳。映画館を出て、何か嬉しくって、バイクをすっ飛ばして夜の街を家まで帰りました。
スケを幸せにできなくったって構わんのよ。追いかけること、そして逃げること、それが幸せ。
破戒も、幸せ。
「あなたの野望は?」
「不老不死を手に入れて死ぬ」。
これ、ヤラレタ。
助演者も、ちょい役出演のゴダールも 粋だわ
・・・・・・・・・・
東座の支配人さん、
いい映画をありがとう。
今夜の彼女は、白の小紋を散らした濃紺にほそい縦縞のワンピース。ペチコートも?フレアのワンピースのスカートが広がっていて素敵だった。
(マスクは同じ濃紺にベージュのレース)。
薄暗いロビーでよく見えなかったけれど、気合いの入った東座は切符を買う時から映画が始まっています。
ぜひ。
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