勝手にしやがれのレビュー・感想・評価
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ヌーベルバーグの記念碑的作品
ジャン=リュック・ゴダールの初長編監督作。即興演出や手持ちカメラでの街頭撮影など、当時の劇場映画の概念を打ち破る技法で製作され、後の映画界に大きな影響を与えた、ヌーベルバーグの記念碑的作品。
ミシェルとパトリシアの絶妙に噛み合ってない会話面白い。
あとミシェルはセックスすることしか考えてなくて笑う。
有名なラストシーンもやっぱりよかった。
パトリシアはファム・ファタールだ。
今みても面白く観れる。名作です。
世界一咥え煙草が似合う男と世界一ベリーショートが似合う女
ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)は1950年代末に始まったフランスの若手監督たちによる映画運動であり、本作はその代表的作品のように言われることも多いのだけれど、自分は当時この世に生まれてもいなかったので(笑)、その時代の空気というものが全然分からない。
当時のフランスは植民地のインドシナを失い、同じく植民地であるアルジェリアでも独立戦争が起こって政治的にはかなり混乱した状態で、若者たちの間で政府に対する不信や不満がかなり広まっていたようである。
本作で刹那的に生きる犯罪者ミシェルはそんな鬱屈した時代を背景に生まれたキャラクターなのだ。
アメリカでも60年代後半から70年代にかけてアメリカン・ニューシネマと呼ばれる、従来のハリウッド娯楽作品とは全く異なる、体制に抗う若者たちが悲劇的な最期を迎えるような作品群が生まれたが、これも泥沼化するベトナム戦争を続ける政府に対するアメリカの若者たちの不信や不満と切り離せないだろう。
日本でも同じ頃に日本ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画運動が起こったり、ATG(日本アート・シアター・ギルド)という映画会社が非商業的な芸術作品を作ったりしたのだが、これらも学生運動や安保闘争、ベトナム反戦運動なんかと密接につながったムーブメントであったようである。
このように60年代から70年代にかけて世界のあちこちで起こった新しい映画運動というのは、当時の世相や若者たちの鬱屈した思いを背景にしているので、そういう時代の空気をじかに吸ってない人間が後から観てもイマイチピンとこない部分があるのだろうとは思う。
自分がこの作品を初めて観たのは二十歳になるやならずやの頃で、ヌーヴェルヴァーグのことなんか何も知らなかったし、ピンとこないといえばピンとこなかった(笑)。
ただハリウッドの娯楽映画とは違って、観客を突き放すような恐ろしくクールな映画だと強烈に印象に残っている。
特にジーン・セバーグの可憐さとクールさにはビビりまくってしまった(笑)。
(自分の中では)ベリーショートが世界一似合う女性であり、本作のパトリシアはそのクールさにおいても世界でトップクラスの女性キャラクターと言えるだろう。
ジーン・セバーグは劇中でもアメリカ人役だし、本人もフランス人ではなく、スウェーデン人の血を引くアメリカ人なのだが、若い頃の刷り込みというのは恐ろしいもので今でも自分の中でフランス人女性はクールで怖いという固定観念がある(笑)。
最初に本作を観た二十歳前後の頃はほとんどジーン・セバーグしか目に入らなかったのだが(笑)、今改めて感じるのはジャン=ポール・ベルモンドのカッコよさである。
とにかくカッコいい。
ビシッと決めるのではなく、ちょっとだらしない感じなのがカッコいい。
(自分の中では)咥え煙草が世界一似合う男だ。
しかも、ジャン=ポール・ベルモンドは撮影当時まだ26歳なので、けっこう眼がキラキラしててお茶目だったりもする(笑)。
さらに、映画の天才ジャン=リュック・ゴダールによる独特の編集や演出が今見ても十分に刺激的だ。
ジャンプカットと呼ばれる、時間をすっ飛ばしてショットを繋ぎ合わせる編集技法や、登場人物が観客に向かって語りかけてくるメタ演出など、一歩間違えると陳腐になったりダサくなったりしかねない技法がメチャクチャお洒落に使われている。
こういう、一本間違えると陳腐になったりダサくなったりするようなことをカッコよくやられてしまうとやっぱり痺れてしまう。
今観ても痺れてしまうのだから、当時の世界中の若手監督たちが本作を観てメチャクチャ影響を受けたであろうことは想像に難くない。
そして、この作品の根底に流れているのはやっぱり芸術大国フランスに生まれた当時の若手監督たちが持つ「映画は芸術である」という強烈な信念と「新しい芸術を生み出す」という若々しい情熱なのだと思う。
芸術大国フランスの若手監督たちが「映画は芸術である」ということをひたむきに信じ、「新しい芸術を生み出す」ことにその若い情熱を傾けたことが、この作品はもちろん、ヌーヴェルヴァーグの作品群が今でも色褪せることなく輝き続けている一番の理由ではないかと自分は考える。
かつてフランスの印象派が世界の絵画の流れを一変させてしまったように、ヌーヴェルヴァーグも世界の映画の流れを一変させてしまったと言えるのかもしれない。
フランス恐るべし、である。
道化(ピエロ)・刹那的殺人・女との逃避行
1960年作品。
監督:ジャン・リュック・ゴダール。
コンセプト・テーマは「気狂いピエロ」と変わらない。
モノクロ映像が美しく。カメラアングルも洒落てる。
90分と短いので中弛みをしない。
BGMのジャズも1960年代らしさを醸して、「気狂いピエロ」より、
好きだった。
ジャン・ポール・ベルモントは、ヒーローでは全くない。
頭の悪い不良でジーン・セバーグに惚れている。
ミシェル(ベルモント)は自動車泥棒でサンダーバードを盗んで
乗り回すものの、古売商に見抜かれて、エンジンに細工され
動かなくされる。
執着をしない男で、すぐ車を捨ててしまう。
チカラも欲もない。
ジャン・ポール・ベルモントは自分の“たらこ唇“を親指の腹で、
横に何度もなぞる。この癖は何故か色っぽい。
この時ベルモントは27歳。
ヒロインのジーン・セバーグはこの時、23歳で、
見た目が意外と老けてるがジャーナリスト志望の大学生。
それにしてもベルモントはトビッキリ魅力的。
何も考えずにじーっと見ていられる。
ジーン・セバーグは設定通りにアメリカ人で、セシールカットが
とても似合っている。
ジーン・セバーグ。
40歳で変死しているのね。
自殺というけれど、夕暮れに車の中で毛布に包まれて
放置されて死んでいた。
フランス人俳優は(2枚目のアラン・ドロンは別として)
ジャン・ギャバン、イブ・モンタン、リノ・ヴァンチュラ、
と味のある変わった顔の俳優が人気だ。
ミシェルは死んだ、何故か?坊やだからさ
観終わって思い浮かんだのは、ガンダムのあの名文句。
とてもスタイリッシュでかっこいい映画。
車内のシーンは本当に運転しながら撮影しているのかな、とても臨場感がある。「勝手にしやがれ」と口にするシーンでは、客席を見ずに前を向いて運転して言いたくなる位だ。
そして、ろくでも無い主人公を演じるベルモンドの格好良いこと。極端に短いネクタイ姿や白トランクス姿、裸にハット姿、どんな姿をしても絵になってしまう。端正な二枚目とは違うが、ルパン三世の様な格好良さ。鼻につく加減、男の馬鹿さの中に見える可愛げの塩梅、分厚い唇の存在感。どれも行き過ぎているんだけど、嫌味にならなず彼の魅力にしてしまう。彼じゃなければ、あのラストシーンは成り立たない。
会話のシーンもとても面白い。話がすれ違っているようでいて時間差で拾ってきたり、カメラが話していない方の顔をずっと追ったりする。
刹那的な男と先を見る女のすれ違いという有りふれた内容なのに、すっかりこの作品の世界に引き込まれてしまった。
お洒落で
【”本当に最低だ。”男は自分の生き方も死に方も自分で決める。自由奔放に生きる男女のストーリー展開のテンポの良さも良き作品。】
■自動車泥棒のミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、マルセイユで盗んだ車を走らせている道中、追いかけてきた警官を射殺してしまう。
その後にパリへと向かい、かつてベッドを共にした女性・パトリシア(ジーン・セバーグ)と気ままな日々を送ろうとしていたが、警官殺しの逃走犯として新聞に載ってしまう。
◆感想
・ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルと、ジーン・セバーグ演じるパトリシアのテンポ良き会話が、前半は魅力である。
■パトリシアはミシェルの行いを新聞で知り、密かにヴィダル刑事に密告の電話をする。
<ラストは警察に追われたミシェルが背中を撃たれ、よろよろと街中を走りながらも斃れ、”最低だ”と呟き絶命する。
パトリシアは”?”最低って何のこと?”とケロッとした顔で言い、彼女の顔のアップで暗転。
現在、この作品を見たら”なんじゃ、こりゃ!”だが、今作がその後の作品群に与えた影響(ジャンプ・カットとかね。)を考え、評点とする。>
意外な内容だった
逃避行とその結末を楽しむような映画かと思いきや、観てみたら、ワタシ的にはちょっと違っていた。
逃避行自体はハチャメチャなだけという印象。(これが作られた当時はそこが面白かったのかもしれないけれど…)
それより、このハチャメチャ自分勝手な男と、彼に悩みながらも付いていく女学生の、関係の推移、二人の心理のやり取りが、フランス映画っぽい見ごたえがあり、おもしろかった。
こういう男に付いていくのはバカバカしい、なんの得にもならない、とわかっていながらも、惹かれてしまう。その絶妙な心理を男の方はいまひとつよくわかっていない。そして、こんなはずじゃなかった的な結末へ。
この女性の気持ちは理解できる♪
キュートでモテる男も、多少は思慮深さを持っていたほうが身のためかも。
好きだけど、星のつけられない訳
映画史ではゴダールが唯一の革命といわれるほど、彼のこの処女作の影響力は大きいらしいが、今を生きる我々にとっては、そんなことはどうでもいいことで、要はこの映画が面白いかどうか。それだけが重要だろう。
そういう意味では自分は間違いなくこの映画を楽しめているし、レンタルで観た後、わざわざBDを買ったから今後も楽しむだろうし、自分が最期に観る映画を2本選ぶとすると、そのうち一本はこれを選ぶだろう。
だが、ご覧の通り、僕はこの映画に星をつけていない。
何故なら、僕には評価できないからだ。
この映画は僕の手に余る。間違いなく面白いのに、何がこんなに面白いのか理解できない。多くの人が60点ぐらいの評価をしてるのは、恐らく、何が起きたのか理解できなかったからだと思う。
いや、身構えなくても結構。ストーリーやコンセプトは至ってシンプル。(以下、あらすじだが読みたくない人はこの段落を飛ばせば結構)チンピラ(と言ってもパリのチンピラは随分洒落てる)がニューヨーカーの娘に惚れてる。チンピラはゴリラみたいに欲望に忠実で学がないが、女は大学生で、芸術を愛し、ピカソやフェルメールを愛し、ヒューストンを愛してる。が、このゴリラのことも愛してる。このゴリラ、人殺しだけど好きだ。困った、さぁ、どうしよう?それだけだ。
よくある、三文小説じみたプロットだが、多くの人が考え付くということはそれだけ世情を反映させているということ。僕はこの話に出てくるチンピラに随分共感したし、ニューヨーカーにも同情し、自分の好きな女の子を投影できた。
ストーリーは分かり易く。登場人物にも簡単に共感し自己投影できる。なのに、何が面白いかわからない。とても、不気味だ。その不気味さをどう書いたら良いのかわからない。
今は自分のことがよくわらないようなものだと考えている。あまりにも距離が近いことはよくわからないように、あまりにも私事のように感じられる作品は意味がわからない。
それはともかく、主演のベルモンドはまだ縁起が洗練されてなくて、初々しい。
ニューヨーカーの娘、ジーン・セバーグはベリー・ショートが人類史上最も似合う。
二人の輝きは万人の目の肥やしになるだろう。
最初にゴダールが映画史に残る唯一の革命家だと書いたが、彼がこの規格外の映画を作ったことで、彼の映画がスタンダードになり(事実、古い映画にありがちな妙なダルさは皆無だ。)、映画が不可逆的に変化したから、その別れ目である、ゼロの映画を認識できないのでは?
もしくは、映画のようで映画でない全く別のものなのではないか?
もしくは、僕にはわからん超絶技法が使われているからなのか?
時間の流れの不自然なのに、しっくりくるところ、記憶の中の自分を見ているときのような感覚をどのように感じたのかは全くわからないが、万人受けしうる作品にはなっている。僕は自分と同年代の若者に観て欲しい。
ノワール映画もどき
ゴダールは映画界で最高のクリティークではないか。
フランスからの帰国便(AF)で鑑賞。
1960年、ヌーヴェルヴァーグの嚆矢となったジャン=リュック・ゴダールの長編第一作。既成のフランス映画に挑戦し、根本から覆そうとしている。斬新の一言!カイエ・デュ・シネマの批評家(クリティ-ク)として出発したゴダールのすべてが現れているのではないか。
テーマは、僚友フランソワ・トリフォーが見つけてきた、言わば三面記事だが、アメリカの犯罪映画にありそうな筋立て。しかし、徹底して即興性に富むドライな映画に仕立てた。演じているのも長編映画へのデビュー作となるジャン=ポール・ベルモンドとアメリカ人のまだ若い女優ジーン・セバーグ。私は、ゴダールの映画では、アンナ・カリーナが一番のお気に入りだ。
手法として手持ちカメラでの街頭撮影が頻用され、セリフは自発性を重視し、即興演出、同時録音、ただし編集で、当時の定番の90分の枠に入るよう、ジャンプカットが多用された(今でも、フランス映画の過半は90-100分の枠に収まっている)。
アメリカの影響も顕著。ベルモンドの演じたミシェルは、ハンフリー・ボガードが大好きで、キャデラックのオープンカーなどを盗んでは乗り回す。セバーグの扮するパトリシアは、アメリカからソルボンヌへの留学生だが、シャンゼリゼ通りで、英語版のヘラルド・トリビューンの立ち売りをしている。通りを行ったり来たりするところが大変、可愛い。
斬新な手法で出来事をビビッドに伝えようとするこの映画は、主人公たちの魅力もあって、世界中に広まった。同時代的に、各国の映画に与えた影響は計り知れない。流行した面があったにせよ。日本でも、数限りのない追従者をえて、TVドラマでも同じ手法が繰り返し使われた。特に、我が国では、松竹ヌーヴェルヴァーグを含む多くの映画作家や批評家に大きなインパクトを与えた。実際に、かなり長い間、外国映画を語ることは、ゴダールの映画について語ることだった。後の北野武にも衝撃を与えたことが見て取れる。ダイナミックでシャープな画面に、僅かに滲み出る抒情性に共通したものが感じられる。
ただ、この手法が映画そのものを終焉に追い込む危険性を孕んでいたことも事実である。音階(メロディー)とリズムを分解した現代音楽がクラシック音楽を終焉させたように。この手法が、その後、主流になったわけではないことは、ゴダールも認めている。
テーマにも議論の余地があり、ゴダールが来日した時、インタヴューに応えて、大島渚の「青春残酷物語」を、ヌーヴェルヴァーグの先駆けとしている。ゴダールは、日本には何人かのよい映画作家が存在したとして、溝口、黒澤、小津、成瀬らの名前を挙げ、しかし「日本映画は存在しなかった」と言いきっている。「日本が何だったのか」「日本が何になりたいのか」を表現する日本映画は存在しなかったと捉えていたのだ。
私は後にも先にも、日本映画について、これほど的確な文章に接したことはない。
大変興味深いことに、ゴダールは、インタヴューの中で、最近の作家として、北野武の「HANA-BI」を挙げ、普遍的な映画として激賞している。
このように本質的にはクリティークであるゴダールは、一生をかけて映画を変革しようとしたのだ。その出発点となったこの映画を、虚心なく鑑賞したい。
カッコイイとはこのことか
名作だが映画史の文脈の中での評価から免れない
お洒落でかっこいいベルモンド💕
今見ても、クールでかっこよくて知的で面白い場面が沢山散りばめられている映画だから、公開当時のヨーロッパなり映画界はびっくりしたんだろうなあと想像できる。ゴダールもトリフォーも凄いんだろうが、凄いのはベルモンドが主役だからだ!ゴダールが人間国宝ならベルモンドはもっと凄い人間国宝です。ベルモンドだから車がピッタリ、背も高く足も長くお洒落なフランス男で愛嬌あって可愛いいたずらっ子。彼だからパトリシアは好きになるし、パトリシアに惚れちゃったんだよと言う彼の言葉も分かってあげられる。
抽象的・哲学的な言葉のやりとりやモノローグは大島渚の映画「絞死刑」(1968)を思い出した。いきなり撃つとか撃たれるはタランティーノ。
パトリシアが膝から足までをビデで洗うシーンが好き。ビデは便利で大袈裟なシャワーもバスタブも不要で小回りが効くからとてもいい。パトリシアが映画館のトイレの小窓からパンプス脱いで逃げて刑事をまくところは小鹿みたいでよかった。ピカソとかルノアールの絵がピンナップみたいに壁に貼ってあったりモーツァルトを聞いたりディオールの服がいいな、などアメリカ人の女の子がヨーロッパに憧れて学んでる感じが面白かった。
ベルモンドはサングラスも帽子も煙草も運転姿も親指で唇をなぞるのも全部が素敵だった。でも孤独と絶望が溢れ出ていた。江戸木さん企画・セレクトのベルモンド映画大会、今年で3回目(で最後?悲しい)。その中で見た「オー!」(1968)は他の作品と色合いが異なるなあと思ったことを思いだした。若いベルモンド。美しい恋人がいて彼女には自分の仕事を隠している。お洒落でネクタイたくさん持っていて元カーレーサーだから運転素晴らしく、孤独で認められない辛さが滲んでいた。このベルモンドはゴダールの映画に出たからできた役なんじゃないかなあ、と勝手に今日から思うことにした。
おまけ
よく聞く話に、高倉健の映画を見ると映画館から出る時に男性は高倉健になってしまって歩き方まで変わるとか。今までそういう経験なかったけれど、今日は、映画の人物(ベルモンドとジーン・セバーグ)が混ざりあった人になって映画館を後にした。視線とか首の傾げ具合。ハッと気がつき恥ずかしかった。
ジャン=リュック・ゴダール監督を偲んで
ジャン=リュック・ゴダール
9月13日死去
享年91
持病に苦しみスイスで薬物による安楽死を選択
U-NEXTで鑑賞
ヌーベルバーグ
ニュースで久々に耳にした
脚本より映像か
ゴダール監督作品初鑑賞
昔のフランス映画は野暮天にはハードルが高い
1960年だから日本の年号では昭和35年
既に日本でもカラーが主流だからこの作品がモノクロなのはゴダール監督の拘りだろう
あらすじ
自動車泥棒の常習犯ミシェル・ポワカールはマルセイユ郊外で追跡中の警察官を射殺してしまう
パリに逃亡したミシェルはアメリカ人留学生パトリシア・フランキーニと再会しやがて男女の関係になる
ミシェルとの逃亡を断念したパトリシアは警察に密告してしまう
映画の原題は『A bout de souffle』
「息ができない」か
ミシェル
「もしあんたが海が嫌いで山も嫌いならそして街も嫌いなら勝手にしやがれ!」
邦題のタイトルはこの台詞から取られたんだろう
むかし公開された洋画の日本だけのタイトルはかっこいいものが多い印象
『勝手にしやがれ』といえばまず思いつくのが阿久悠が作詞した沢田研二の代表曲だがこの映画のタイトルから拝借したらしい
この映画がなければジュリーが帽子を飛ばすことは無かったし『プレイバックPart2』も『勝手にシンドバット』も生まれてなかったかもしれない
その点だけでもこの作品は日本に絶大な影響を与えた黒船といえる
語尾にやがれといえば「待ちやがれ」「一昨日きやがれ」だが時代劇っぽくもありなんだか古めかしい
「一昨日きやがれ」に至っては全く無理な話でドクにデロリアンを改造してもらわないといけない
最近では大島優子の写真集『脱ぎやがれ!』だが目立つのは半ケツ程度で中西里菜に比べたら然程脱いでいるわけではない
半ケツは腰が曲がり切った片田舎の婆さんが誰に頼まれたわけでないのに野外露出するのであまり好きじゃない
話を映画の内容に戻す
パトリシアのこの台詞も良い
「あなたを愛したくないの。だから警察に電話したの。これが愛なのかを知りたくて一緒にいたわ。自分の気持ちを確かめるために。私はひどい仕打ちをした。つまりこれは愛じゃないわ」
白昼の街中だというのに丸腰のミシェルの背中にいきなり発砲するパリ警察
無茶苦茶だ
ミシェル
「君は本当に最低だ」
パトリシア
「最低って何?」
不自然な映像が多い気がする
トイレで警察を巻いたパトリシアがミシェルに会うシーンはいきなりすぎた
いらないシーンをカットして強引にくっつけたせいだろう
初のヌーベルバーグだがそれ以前のフランス映画を詳しく知らないのでその違いがよくわからない
自分は幸いなことに鑑賞中に眠ったりはしなかったが王道のハリウッド映画こそ本当の映画だと断言するようなタイプは爆睡する可能性大
都会的でインテリなセレブならこのくらいの映画の良さは十分理解できるだろうし一流の嗜みといえよう
僕は一回観ただけではこれだけ高く評価されている理由がよくわからなかった
ただなんとなくだがカッコ良さは伝わった
ショートカットのジーン・セバーグがとてもキュート
『悲しみよこんにちわ』のセシルカットだ
ジーン・シバーグが可愛かった
ミシェルはマルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺し、パリに逃げた。パリに着いたものの、金もなく、警察から追われているため、アメリカ人留学生のガールフレンド、パトリシアと行動を共にしていた。しかし、ミシェルが警察に追われる身であることを知ったパトリシアは、一緒に逃げることを断念し警察に通報した。そしてミシェルは・・・という話。
ひっきりなしにタバコ吸うジャンポール・ベルモンドが印象に残る。
昔は自動車泥棒って簡単に出来たのかな?
最後の、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられたパトリシアが「最低ってなに?」と訊き返すシーンはどういう意味なんだろう?
全体通してよくわからなかったが、60年前は斬新だったのかも。
ショートへヤーのジーン・シバーグが可愛かった、
やっぱり最高!
う〜ん。やっぱり超カッコイイ…
どうしても久々にスクリーンで観たくなって、キネマ旬報シアターまで遥々と電車を乗り継ぎ辿り着き、タップリ堪能してきた。
もう本当に最高。
オープニングの唐突なスピード感。
マーシャル・ソラールの粋な音楽。
あまりにもモノクロ映えのするフォトジェニックなジーン・セバーグ。
ボギーに憧れる若気の至りココに極まりなベルモンド。
ナボコフをイメージして、すっかり大物作家になりきってたジャン=ピエール・メルヴィル(人生最大の野心は?→不老不死になって死ぬこと!)
ラウル・クタールの本当にヌーヴェル・ヴァーグとしか言いようのない鮮烈軽快なカメラワーク。
そして、あのラストシーン!
最後に“FIN”の文字が出た瞬間、思わず久々に「おおお…」と唸ってしまった。
こんな映画、もう二度と誰にも作れないだろう。
1959年の製作で、こんなことをやってしまうなんて…
今さら言うまでもないが、これが無かったら、アメリカン・ニューシネマだってタランティーノだって、その他の数多の諸々の映画だって存在しなかったに違いない。
そして邦題『勝手にしやがれ』が兎にも角にもズバ抜けてる!冒頭のベルモンドの台詞なのだが、原題からの翻訳などでなく、この言葉をチョイスしたセンスが本当に素晴らしい。
もう本当に最高だ。
何度でも言う「本当に最高だ!」
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