「また観たい・・・」アデル、ブルーは熱い色 ricoさんの映画レビュー(感想・評価)
また観たい・・・
カンヌ国際映画祭で絶賛の『アデル、ブルーは熱い色』
序盤から長く、中流階級の家庭に育つ極々普通の女子高生アデルのリアルな日常を、少し退屈な程に描かれている。しかし、食事をむさぼるシーンや睡眠、学校生活のリアルな様はまるでカーテン越しに垣間見ているようだった。そしてあの授業風景の中にはアブデラティフ・ケシシュ監督が伝えたかった「性を超えた愛への理解」以外にも伝えたかったメッセージがあったと思う。教科書の中で、一目ぼれをし、声をかけずにすれ違ったことへの後悔という感情を先生が説いていたが、これこそが「若者よ!やりたいと思ったことは後悔のないように挑戦しよう!」と伝えたかったのではないだろうか?そしてこの淡々としたシーンは、普通の女子高生がこの後どのように同性愛の世界に引き込まれていくのか興味津々に観ている観客を焦らしているようだった。
男の子との恋愛に違和感を持ち始めているアデルは、街ですれ違ったブルーの髪をした女性に魅了されるのだ。ここから映画の中でブルーがアクセントカラーとなり、ブルーのベンチ、発煙筒のブルーの煙、ブルーの絵画、ブルーのシーツ、洋服、海、映像はさりげなくブルーが美しくしまってくる。
ある日、ガールズバーに行ったアデルは、そこでブルーの髪をした美大生のエマと再会するのだ。そして二人は惹かれあい、愛し合う。
この二人のベッドシーンは、女優魂を見せつけられたようで感服した。
音楽の少ない映画だったが、アデルの誕生会でかかった曲(I FOLLOW RIVERS)が、私には心地よく、ノスタルジックな中に新しさと力強さを感じて一瞬で好きになった。そんな音楽にあわせて踊るアデルの複雑な心情をした目が印象的だ。
やがて先生の職についたアデルはエマと一緒に暮らすようになるが、インテリジェントな家庭で育ち、違った世界観を持ったエマに、アデルは少しずつ距離を感じ、寂しさを覚えるのだ。そしてその寂しさを埋め合わせるために、アデルは職場の同僚の男性と浮気をする。
終盤、畳み掛けるように、二人が強く結びつき、すれ違い、裏切り、別れる。
アデルの裏切りがばれ、エマの家から追い出される時の泣きじゃくるアデルの演技は圧巻だ。胸がつまる。
エマと別れたアデルは孤独と後悔に苛まれるが、数年後、カフェでエマと再会する。
エマはニッコリ微笑んで現れるのだが、それはやさしい大人の女性だった。あのはにかんだような微笑みの虜になった人は少なくないはずだ。二人はハグをして昔を懐かしむ、エマの臭いをいっぱいに吸い込むアデルの表情が切なかった。そして抑えられずキスを交わし再縁を懇願するアデルなのだが、エマの潔癖さがアデルの愛をもう一度切り捨てる。エマは今のパートナーとの良好な生活を話す。
「本当にもう私に愛情がないのか」と訝るアデルの表情がたまらなく悲しい。
ただ私的には、もう少しエマの芸術家としての苦悩と、才能が認められないもどかしさが欲しかったように思う。
ラストシーンは、あんなに華やかな成功をにおわせるのではなく、数人の画家仲間と共同でギャラリーを借りて個展を開く設定の方がリアルだ。そして、アデルがその個展を訪れ、エマとパートナーとの熱い関係を見せつけられる。アデルはひとりで作品を見て回り、エマのパートナーをモデルにした絵画をいくつも眺める中で、1点だけ自分(アデル)をモデルにしている絵画をみつける。アデルは回想する。エマが、いつもこの絵を自画自賛し、自分の作品の中で一番好きな作品だと豪語していたことを。しかし、その絵画は、売約済みというラベルが貼られていることに気付き・・・アデルは愕然とするのだ。エマが一番好きだと言っていたアデルとの思い出の作品を売ってしまうのだと・・・。アデルは確信する。本当に二人の愛が終わったのだと・・・。そしてアデルはギャラリーを一人寂しく出ていく。そこへ例の元俳優の男が追っていく。
最後のシーンは、数日後、エマが自宅で作品を描いている。その足元にはアデルをモデルにしたあの作品が立て掛けられていた。売られていなかったのだ。エマはアデルに対して売約済みだという見栄をはって小さな復讐をしたのか、やっぱり手放すことができなかったのか、わからない。おそらくパートナーに遠慮して壁には掛けられず粛然と置かれているのだろう。エマは一生この絵を手放すことはできないだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが『モナリザ』を一生持ち続けたのと同じように・・・。人は愛した人を、一生引きずるのだ。時に思い出に浸り、時に心の中で話しかける。
私はこんなラストがいい。アデルとエマの愛は互いの心の中で永遠に続いて欲しい。