セッションズのレビュー・感想・評価
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こんな職業があるのか!?
こんな職業があるのか?などと、セックス・セラピストを行うシェリル(ハント)の表情にも立派な職業意識がある婦人に驚いてしまう。
家にいるときは鉄の肺の中で暮らし、日中は4時間程度、ヘルパーによって外に連れ出してもらう。そんなマーク(ホークス)ではあったが、詩人とジャーナリストでの稼ぎによって社会的にも成功していた。が、あるとき障害者とセックスについてのインタビューを請け負ったことにより、性に目覚めていったのだ。セラピーがあることは知っていたマークはつてを頼り、シェリルにたどり着く。彼女は夫もいるし息子も一人いる!
セックスセラピーのセッションは6回の予定。最初から上手くはいかず、ようやく性交に成功したのが三回目。次はいかせてやる!などと童貞を失ったマークも強気だ・・・
シェリルの献身的な天使のような存在もさることながら、まわりの人の温かさもいい。ブレンダン神父(ウィリアム・H・メイシー)も最初はいやいやながら彼の相談に乗っていたけど、ついにはセックスセラピーの存在を受け入れる。中国人ヘルパーのヴェラ(ブラッドグッド)も彼と彼の性衝動に理解を示し、協力的だった。障害者の性について深く考えさせる映画ではあるが、恋愛という点ではそれほど深く追求していないので感動的にはならない。49歳で亡くなったが人生においてアマンダ、シェリル、そして最後に看護師との恋愛で3人との女によって救われた・・・などと述懐する。
ヘレン・ハントのヌードは何度も登場するが、熟女の魅力というのも・・・
セックス。快楽以上の喜び。
大江健三郎は小難しい隠喩でセックスは滑稽で醜いと語るし、
射精って言葉が何回出て来るんだよ!と突っ込みたくなる村上春樹もいる。
男の性は厄介だ欲望が男を卑しくするんじゃないの?というアービングに、もしこれがセックスというものなら未だバージンだなと思う私がいる。
※観たのはかなり前なのですが、考えが纏まらなくて今に至ります。
マークは、笑顔が可愛くて、ユーモア、知性に溢れた魅力的な人。
恥ずかしさも、恐れもある筈なのに、未知の世界に足を踏み出す勇気のある人。
自分の欲求に正直な人。
そんなマークの魅力を、主演のジョン・ホークスは顔だけの演技で表現しています。
マークは自分の境遇を全く悲観していませんが、それまで幾つもの苦しみを乗り越え、どれだけのことを諦めてきたのだろうと思うと、そんなマークが愛おしくなる。
こ・こ・で・す!
この作品の肝は、観客がマークをどれだけ愛おしく思い、シェリルがこれからすることを、どれだけ好意的に見られるかにかかっている。
その点、ジョン・ホークスの演技は満点です!
ジェニファー・ローレンス主演の「ウインターズ・ボーン」では不気味な叔父さん役だったので、その振り幅にびっくりします。
セッションはどんなことをするかというと、つまりセックスです。
すみません。この部分をぼかしたままでは、大事なことが語れません。
それに性への欲求は、誰しも持っているものです。本作では「当然のこと」と、真っ直ぐに向き合っています。
なので私も、正面向いて語ることにします。不快に感じる方がいたら、申し訳ありません。
セッションは、挿入して射精することをゴールとし、回数は6回と決まっています。これ以上になると、双方に情が湧くからだとか。
でもマークは(6回までいかずとも)ベッドでシェリルに優しく触れられて、特別な感情が芽生えます。
しかしアマンダもそうなんですが、「好き」という気持ちだけでは一緒にいられないという、現実的で正直で悲しい思いがあります。だからアマンダは、マークから去って行きました。
シェリルといる時のマークはとても幸せそうですが、アマンダと同じく悲しい空気が微かに漂うのが切ないです。
目的が達成された時、マークが「思わず泣きそうになった」と言いますが、それを境にシェリルもある種の感情を抱きます。
「愛してる」
囁き合う二人。
二人の感情の動きが、快楽以上の喜びを物語っていて、かなり衝撃を受けました。肉体ではなく、心が満たされる素晴らしい瞬間。
この瞬間の喜びを、こんなに爽やかに見事に描いた作品を知りません。
また自分自身の経験と照らし合わせてみて、これがセックスというのなら、私は未だにバージンなんだと泣きそうになりました。
そして大江健三郎先生も、村上春樹先生も、ジョン・アービングですら、実はこの喜びを知らないのでは?と愕然としました(あ、思い込みです。すみません)。
しかしシェリルは既婚者です。シェリルがマークの家以外で会ったこと、マークの詩が自宅に届いたことを、夫が咎めるシーンがあります。規約違反だろ?と(シェリルは個人情報を明かしてはいけません)。
この夫婦の他人とは違うセックス観が滲み、夫がこの仕事を許している理由が分かる。
セッションは6回ではなく、4回で終わってしまいます。互いの気持ちが、更に深まる前に。
ここにも衝撃を受けました!
セックス4回で、心を通わせあう二人に。
今まで私がしてきたことって、何だったのかな?
もの凄く陳腐な感想だと分かった上で申し上げます。セックスって、もっと丁寧に大事にすべきことで、そして得られるものって、もっと、もっと、もっと沢山あるんだと改めて思いました。
得られてないなぁ、私。
マークからセックス・サロゲートの相談を受ける神父が、名脇役のウィリアム・H・メイシーです。
全ての俳優さんが、ぴったりと役にはまっていて本当に嬉しくなる。
「愛とは何だ?愛とは旅だ」
神父の言葉が、胸に残りました。
できれば私も、そろそろ目的地に到着したいものです。
Be romantic !
マークはヘルパーのアマンダに恋をし、その身体に触れたいと願うようになる。
そんな時に、“障害者の性”に関する記事の執筆を依頼され、セックスサロゲートであるシェリルを雇うことになる。
シェリルにとってマークはクライアントだが、マークは詩人だ。彼にとって感情抜きのセックスは考えられない。彼女に惹かれなかったら、セッションは上手くいかなかっただろう。
シェリルも純粋なマークに心が傾いていく。
確かに、マークは首から下を動かすことが出来ないし、障害者の性がテーマになっていることは確かだが、殊更“障害者”という点を強調することには違和感を感じる。
健常者、障害者にかかわらず、
誰かに心を惹かれその身体に触れたいと思う、マークの姿は、そんな当たり前のことがとても素敵で大切なことなんだとあらためて思い出させてくれる。
ヘルパーのヴェラ、ロッド、神父など、マークの周辺の人たちの押し付けがましくない優しさがいい。
『ウィンターズ・ボーン』『マーサ、あるいはマーシー・メイ』と尖ったイメージの強かったジョン・ホークスの柔らかい表情が新鮮。
マークにとって母親、教師、親友、恋人、色んな表情を見せるシェリルを演じたヘレン・ハントも自然体で素敵だった。
見事な童貞映画
主人公は終盤ユーモアのある人物になっていたのだが、それはやっぱり童貞を卒業して余裕が出たことの現れなのだろうか。見事な表現だ。
主人公を愛する女性がとても癒し系の魅力的な顔立ちで、実に納得させられる部分だった。特にナースの女性は基本の顔が笑顔みたいなすごくいい顔だった。
猫が可愛らしかったのだが、オレは猫アレルギーなのであの状態で、アレルギーが出たら死んでしまうとハラハラした。
神父さんが戸惑いながらも人間として性に対して許容して、そのあとビールを持って訪ねてくるところがとても微笑ましかった。
単なる感動作でもなくいろいろ考えさせられ、感じさせられる見事な童貞映画だった。欲を言えばみんな優しすぎるので主人公がひどい女とやってげんなりする場面も見たかった。
脳性麻痺で車椅子の男がセックスしてその後女を殺す『It is fine,everything is fine』をまた見たくなった。
アカデミー賞にノミネートされたのも納得の熱演。
ハリウッドの名女優が熱演する「セックス代理人」。やってることは売春婦と同じく応酬を得てセックスを提供するセックスカウンセラー。それは売春婦どう違うのか!という衝撃の仕事の中身に興味に、まず引き付けられてしまいました。
何しろ人気ハリウッド女優のヘレン・ハントが、齢50歳の一糸まとわぬ肌を晒す熱演なのです。アカデミー賞にノミネートされたのも納得です。そして、なかなかの美熟女ぶり(^^ゞ
そんな彼女が障害のある男性とセックスするセックス代理人(サロゲート)を演じた実話に基づいた衝撃作なんですね。日本にはなじみのないセックス代理人を広めるきっかけにもなりそうです。
障害者の性問題がテーマだからか、日本では残念ながらR18+指定。実際に鑑賞してみていやらしさは全く感じず、障害者に思いやりたっぷりに接する美熟女ハントは、まるで聖母マリアか、親鸞聖人の性的苦悩を救った救世観音の化身の玉女のように神聖な存在に思え。感動しました。
すごくハート・ウォーミングなヒューマン・ドラマなのに、禁断のセックスの悩みだからなのか。お役所仕事さながら紋切り型の判断でR18+に指定していいのかと疑問を感じます。
監督自身もポリオ患者だっただけに、主人公の障害者の所作など、リアリティーもたっぷりでした。(ポリオとは、一般には脊髄性小児麻痺と呼ばれることが多い。)
物語は、米カリフォルニア州が舞台。
6歳でかかったポリオのため首から下が全く動かないマーク・オブライエンは、ベッドに横たわったままで大学を卒業して詩人、ジャーナリストとして活躍していました。
38歳になったマークは、やる気のないヘルパーを解雇。代わりに雇ったアマンダの優しさに、恋に目覚めてしまい、それに合わせて激しい性欲にもかられて苦しむことになってしまいます。勇気を出して、プロポーズするものの、即日連絡不能に。
アマンダが去っても、目醒めた性の本能は収めようがなく、マークをますます苦しめるのでした。
後任のヘルパーは、そんなマークの苦悩を知り、セックス・セラピストという治療法を紹介します。セラピストから「セックス代理人」の存在を伝えられたマークは、後から述べる信仰上の理由から、散々悩んだあげく「セッション」(性行為)を受けることを決意するのでした。
「セックス代理人」としてやってきたシェリルに、マークは緊張するばかり。何しろ38歳になるまで、自慰もできない完全完璧な童貞だから無理もありません。そんなマークの緊張を解くために、まず呼吸を整えて、女性とどう接するのかというコミュニケーションからシェリルは易しく手ほどきするのでした。
最初は、少しさわられたぐらいでも射精してしまうマークでしたが、毎週1回のセラピーで次第にセックスの喜びをお互いに満たしあえるところまで、経験を重ねていくのでした。
ところで「セックス代理人」にはルールがあり、セッションの回数は6回と制限されています。セラピーの目的は、男性がセラピストと体験し、学んだことを他のパートナーとの関係に生かすことが建前。
けれどもそこは映画ならではの味付けもあり。マークは3回目のセッションで初体験して2人の間の理解は深まり、4回目のセッションでは心も深くつながっていくのです。4回目の行為のあと、マークの質問に、シェリルは家族のことなど、禁じられた個人情報を打ち明けてしまうのです。さらにシェリルのことが忘れられなくなったマークは、彼女に詩を贈ります。マークから贈られてきた郵便物を先に見つけたシェリルの夫は、規定違反だと怒りだし、シェリルと夫婦喧嘩になってしまいます。夫が寝静まったのを見計らって、ゴミ箱に捨てられたマークからの手紙を拾い出し、シェリルが涙ながらに詩を読み上げるシーンもくぐっときましたね。やっぱり、「セックス代理人」とて生身の女に変わりはなかったのです。でもこれ以上の深入りは良くないと悟ったのか、6回の予定をマークの了解の元に4回で終えてしまいました。
けれども、その後のマークの人生で、このとき身につけた自信は、大きく彼を勇気づけ、変えていったのでした。
停電で、呼吸装置がストップし、死を覚悟したマークを看護した、ボランティアの看護師さんとその後どうなったのかは劇場でご覧ください。
おまけとして、退院後にアマンダが突然見舞いに訪れます。意外にも愛していると告白したアマンダに再度、求婚するものの、そういう愛てはないときっぱり撥ね付けられます。キビシィィィ~けど、アマンダの気持ちにも分かるような気がしました。
そんなストーリーを振り返ると、本作は”魅力的な女性達の映画”でもあったといえそうです。マークの人生に関わっていく4人の女性との関わりが実に魅力的なんです!人が人と心を通わせるきっかけや方法はそれぞれで、でもそれぞれに深い愛や喜びを感じる瞬間があるものです。その瞬間に触れるとき、皆さんもグッと涙に包まれることでしょう。
ハントが演じたセックス代理人のモデルは、実在します。1944年生まれのシェリル・T・コーエン-グリーンさん。役名が本名のまま登場していたのです。彼女は性教育者として博士号を持ち、講演やテレビ出演も多くこなす著名人。1973年からセックス代理人として個人診療を行っている草分けだそうです。
シェリルさんは「これまでの人生で、自分の強い性欲を恥じたり罪悪感を抱いたりしたけれど、それを世の中で役立てればいいのだと感じた。人と触れ合うのが大好きなので、適切なトレーニングを受ければ、セックスの問題を抱える人々を助けることができると思った」と、映画サイトのインタビューで明かしていました。
現実世界はもちろん映画の中でも、セックス代理人には「売春ではないか」との批判が当然出てきます。シェリルさんは「セックス・ワーカーは快楽を提供して相手を喜ばせ、その関係を継続させて、さらに自分の評判を広めてもらう。われわれが目指すのは、クライアントの性活動を妨げているものを取り除き、克服するお手伝いをすること」と明確に違うと反論する。その辺の違いは、本作でもキチンと描かれていたと思います。
映画では、ヘレン演じるシェリルがマークの顔に腰を下ろします。そのシーンをシェリルさんは、「常に意識しているのは、クライアントが私の行為を気持ちよく感じているかどうか。実際に私は、彼に私の性器を見せて説明した」というのです。凄く卑猥なシーンなのに、感動すら感じるほど優しい気持ちに浸ってしまうのは、映像に込められた想いの違いからでしょうか。
本作は意外と宗教映画でもありました。主人公のマークは、敬虔なカトリック信徒で、行きつけの教会のブレンダン神父とは親友でもあったのです。本作の障害者と性の苦悩のテーマは、そのままマークにとって、宗教上の罪の意識=苦悩に直結していたからでした。
自分がこのような神さまの「傑作」(本人の自嘲的台詞)を創造なされたのは、よほど自分が罪深い行いを重ねてきたのに違いないとマークは思い込んでいたのです。その思い込みも、幼い妹の病死も自分の罪深さのせいだと思い込むほど。だから業火のように襲いかかる性欲の苦しみは、ますますマークを自己処罰に追い込むばかり。その苦しみから解脱したくて足繁く教会に通っていたのでした。
ブレンダン神父も親友として、マークの苦悩にいつも寄り添っていました。だから、マークから、●○(せっくす・かうせりんぐ)の相談を受けたとき、これが信仰上の●○(かんいん)の罪になるのかどうか神父として判定してほしいとの言葉には、一瞬言葉に詰まってしまったのです。
これが教条的な神父さんなら宜なく、●○(かんいん)したものは地獄に落ちるといって即座に否定したことでしょう。しかし、マークの苦しむ姿に寄り添い、日々がこの世に居ながらの色情地獄に落ち、さいなむ姿を見てきた友人としては、まず教えの引用よりも、彼の苦悩を救ってやりたかったのです。そこで、一瞬ブレンダン神父はイエスさまに祈りを捧げて、「セックス代理人」を受けいけることに神父としてお墨付きを与えて、頑張ってこいと応援して教会から送り出すのでした。ええっ、ホントにそれでいいのかなぁと思ったけれど、クリスチャンのひとは、このシーンを見てどう思うのか、ぜひお聞きしたいですね。
浄土真宗フリークな自分は、そんなシーンを見て、マークが親鸞聖人とダブって見えました。比叡山で修行している時分の善信坊(のちの親鸞)にとって、仏教の戒律ががんじがらめに身を詰め付け、ちょうどマークと同じ状態になっていたのでした。むしろ身体が自由に動かせる善信のほうが、破戒僧に堕ちるか、戒律を守るべきか、募る煩悩に心は千々に乱れたのです。そして玉日姫との許されざる恋で、その煩悩は決定的になります。
そんな親鸞聖人を救ったのが救世観音でした。京都の六角堂で籠もっていた親鸞聖人の元へ、救世観音は顔かたちを整え、立派な僧の姿を現し「たとえ女犯があっても、私(観音)が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。」と「女犯の夢告」を告げるのですね。これで意を決した、親鸞聖人は玉日姫との妻帯に踏み切るのです。詳しくは、小説『親鸞』で吉川英治が、すごくロマンチックに描かれているのでご一読を。
何が言いたいかというと、煩悩即菩提ということです。それまでの仏教には、僧侶は一切女性に近づいてはならないという、厳しい戒律がありました。しかし、色と欲から生まれた人間が、色と欲から離れ切れるでしょうか。この矛盾に悶え苦しんでいたという点で宗教の違いはあっても親鸞聖人とマークと、求めている真なるものは、一緒だと思うのです。
性という問題を教条教理で切って捨てても、そう簡単に涌き上がる煩悩を押さえることは難しいことです。そして悶悶と過ごすことの方が、かえって心を曇らせてしまうことでしょう。
だからブレンダン神父の方便に近い聖書解釈には、たとえダメ神父と烙印を押されても、とっても人間的に魅力を感じたのです。
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