「性の翻弄、憤りの罪」そこのみにて光輝く Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
性の翻弄、憤りの罪
『そこのみにて光輝く』(2014)
<性の翻弄、憤りの罪>
2月の朝6時前はまだ暗く、やがて明るくなっていくだろう。外出の用事があって早く寝床から出て、こうした時間にみる。GYAO!のキネマ旬報ベストテン特集からみて、1位だった作品のようだが、少しと言っても随分前に感じるのだが、日本映画専門チャンネルで、原作の佐藤泰志の特集と言うことで、この映画も幾つかの他の作品と放映していたかも知れない。勘違いしていて、15歳に関しての条件のある映画ということで、別の男の監督と別の女優の映画かと思っていたのだが、違っていた。監督は女性で、よくわからないが在日韓国人という関係の人なのか、そうした名前で、主演女優は池脇千鶴だった。池脇は清純な女子高生のコマーシャルで出てきたと思うが、わけあってとは言え、不倫は不倫であるから言語道断なのだが、不倫男性役が男闘呼組の高橋和也との正常位激しいバウンド付きのセックスシーンがある。池脇が34歳の肉感を少し見せている。こうしたシーンを挿入するのはどうしたものなのか。その見せ方の程度にもあるか。舞台は北海道らしい。
方言もそうなのだろう。時代背景はわからない。原作者が1990年に自殺している。1980年代なのだろうか。貧困の姉弟がいて、父親が寝たきりなのか、母親の貧困家庭に、無職になっている主人公の綾野剛が出会うのだが、きっかけはパチンコ店でふとしたきっかけで出会った貧困家庭の弟役の菅田将暉が、家に連れてくると、そこに姉役の池脇がいたという出会いから、男女としての関係性の部分は始まる。池脇は菅田がたまに仕事をくれる社長の高橋と不倫して、弟の仕事を貰っているような関係で、昼は塩辛工場で働いてもしている。貧困のために仕事を選ばない状態の女らしい。複雑ではあるが、そこに綾野が出てきて揺らぐということか。池脇は夜の性接待の仕事もしている。綾野も石材採掘の仕事中の事故でトラウマを持ち、ぶらぶらしている役らしい。綾野は『八重の桜』での松平容保のイメージが私はついてしまっている。だからこの映画は全然違うような人である。菅田将暉も『女城主 直虎』で井伊直政をやったのでみたが、『ピンクとグレー』も最近みて、特徴のある俳優だなと思っていたが、これにも出ていた。この作品のほうが早い。池上は誰にでも体を与えてしまう難しい女だが、気持ちは綾野にあり、「私と結婚でもしたいの?バカだと思われるよというセリフの後で、綾野は厳しい表情をする。高橋も菅田をかわいがってはくれるし、池上のことも思ってはいたりと、悪人の中にも複雑な面をみせるようだが、不気味に見える。
菅田は無邪気である。何をしたのよく把握できなかったが、仮釈放中なのだが、無邪気で悪人という感じではない。貧困のためという設定はあっても売春婦である女に関わっていく男。難しい局面だと思う。しかし女は、新たな男に出会ったことで揺らぐ。男は女の性接待居酒屋で、「ヤマで一人死なせたんだ。俺そいつに急げやって言ったんだ」「だから私みたいな女でいいんだ」「違う。もうこんな仕事(売春)やめれや」「わかんないんだよね。私には、まともな仕事もしたことあるけど、毎日会社いって毎日飲みにいっても、いるとこないんだよね。私には。そういうの。わかんないっしょ」という会話をする。女の本心はわからないが、男に私みたいな女と付き合うなという気持ちからそういうセリフを吐いたのかどうか。ウィキペディアには、綾野も菅田も仮面ライダーシリーズがデビューらしいとか、綾野は役作りで北海道の居酒屋で飲んだくれながら撮影に臨んだとか、菅田も映画やドラマでかなりの体重の増減を繰り返したなど出て来る。綾野と菅田は義兄弟にもなっていないが、つるんだりしている。変だが、いいコンビにみえる。と思ったら、不倫社長の高橋に綾野が会いに行く。綾野は池脇と別れてくれと高橋に行って、取っ組み合いの喧嘩をする。「みっともねえことやめねえか。」高橋に殴られ、綾野は口内を強く出血し、高橋の顔に血がかぶる。「家族を大事にしたらどうですか」「大事にしてっからおかしくなるんだや」。これは難しいセリフだ。意味がない場合もあるかも知れない。菅田は「仕事無くなっちまったじゃないか」と怒るが、綾野が「一緒にヤマに入るか」というと喜んで、「飲もうぜ。達夫(綾野の役)」とはしゃぐ。そこまでして、女を売春婦から抜け出さそうとした男だったのに、よくわからない映像ながら、脳梗塞かなにかで性欲だけある父親に肉体を与えているようなシーンがあった。これは衝撃的なシーンだが、そうだったのかよくわからない。その後、池脇が外に出てきて、喧嘩を「いい年こいて」と綾野に言って泣く。
綾野の役はハードボイルドに近く、女と寝てしまうので少し違うが、汚れてしまった女と家族を持ちたくなったということで、人を死なせてしまったと思っているトラウマのあるヤマに女の弟も連れて戻ろうとする。女もその弟も、救い出そうとする存在の出現だったかも知れない。食堂で綾野と池脇と菅田が集まるシーンは束の間の暗い背景の中での明るいシーンだったのかも知れない。男たちは仕事を選び、女は、不倫も売春も解消できそうだというシーンで終わっても良かったのかも知れないのだが、それなら救いの物語ともとれそうだが、それでも中途半端か。どうなるのか。暗い部屋で綾野と池脇がスイカを食べながら、「ヤマ入る前にさ。亡くなった人のお墓詣りに行こう」と池脇が語ると、綾野は泣き、「ありがとう」と返す。この男女の場合は、性愛は先に走ってしまったが、心からわけありながらも結婚しようとする気持ちはあった。複雑な時代が、田舎の1980年代なのか、あった。そしてセックスシーンになってしまう。ここら辺は複雑な日本映画というものだった。婚姻届けは出していないが、心から結婚しようとしている男女ではある。しかし、ここがドラマの難しいところで、そうしたシチュエーションにしなくても、婚姻届け後に性愛をすることも可能なのである。
これは至るところ、小説や映画に於ける問題点だろう。女性の監督による、セックスシーンの見せ方というのはどういうものかというのもあるかも知れない。小津安二郎や黒澤明はセックスシーンは露骨にしない名監督だと思う。映画監督にしても時代の感覚は劣化しているのか。原作者の佐藤は自殺している。こうした原作を書くというのが複雑なのか。高橋は池脇の後をつける。「腐ってんのよあんた」と言うが、「いいから乗れや」と言われて、車に乗ってしまう。仕事はくれたが、結局は
悪い不倫男だろうか。このシーンの音響は不気味で、背景も暗い。なぜ女は不倫男の車に、新たな男と約束した後に乗ったのか。高橋が「お前がいないとやってられないんだ」と言う。「どっかの店にいけばそんな女はいくらでもいるよ。早く済ませてよ」不倫関係の男女がカーセックスを始める。双方が醜い顔をしながらの汚いセックスを始めるが、女が泣きだして抵抗してしまう。男は何度も女の顔を殴る。殺したのかと思ったが、その後、顔の腫れた女が夕日の海を一人みている。これで不倫男との関係が切れたのだろうか。女はぎりぎりのところで自分を見失っていなかったのだろうか。男のほうも復帰しても爆発物を岩石に仕掛ける危険な仕事だ。そうした暗い拝啓にも、祭りのシーンが現れる。だが背景の音楽は暗い。高橋は町の人たちと何事も無かったように談笑している。音楽の不気味さから、菅田が祭りに入ってくる場面で悲劇を予想させる。姉を馬鹿にして殴ってなぶりものにした社長に弟は激高してしまう。祭りの中で弟は不倫の社長の腹を刺す。仮釈放中でもあったのに。弟は逃げる。家では母親が泣いている。綾野が拓児(菅田の役)は。と聞く。千夏(池脇の役)に、大丈夫だからと言って、街を探す。法治国家は、悪い人間をも法律で戦わないと不利になってしまう世界なのである。刺してしまうと、いかに正義感があっても悪者にされてしまうのである。弟は逃げるしかなかった。母と娘は泣くしかなかった。男は探した。弟は男のアパートの玄関で座り込んでいた。弟が笑いながら「達夫。タバコくれ」というと、男は弟に殴りかかった。そして肩をゆすった。一緒に座り込んだ。そして弟にタバコを差し出した。弟に至っては性関係の話は一切出ていない。正義に出たほうが法治国家は不利になる仕組みも持っているから、ドラマや映画にして抵抗するしかない面もある。セックスシーンのある映画ゆえにさらに複雑な事をしている。高橋の社長は死んでないという。「達夫。俺はもうヤマいけねえや」と泣く。「父ちゃんや母ちゃんや姉ちゃん。喜ばせたかったのに。俺もうなんもできねえんだよ」男は弟の肩を抱く。自転車で二人乗りして、これも法律ではだめだが、交番の前に行く。弟が手をあげて、にこりとして
出頭する。男は見送って去る。夜が明けかかっている。厚い曇りである。男は妹に手紙を書いていた。妹は、ナレーションで、お兄ちゃんに家族が増えるのがうれしいと返信するが、なぜなのか、池脇は父親の首を絞めて殺そうとしている。そこに綾野が帰ってくる。間一髪で寝たきりの近親相かんを予想する父親は助かる。もし殺していたらさらにどうしようもない所だった。画面がほとんど真っ暗にしてわかりにくい映像にしている。父親は男女に対して何か語ろうとするがわからない。女は泣き叫び、男は涙を浮かべる。そして外に出る。北海道の海の音が聞こえる。朝日が顔を出している。女は振り返り男を見る。顔には殴られた社長からの傷跡がある。泣いたような笑ったような複雑な表情を浮かべる。男は厳しいようなにこやかなような顔を向ける。そして寄りそう。そのシーンは綺麗だ。2014年のキネマ旬報のトップの作品。なぜこんなに複雑に生きねばならなかったのか。表向き優しい父と主人の顔をして羽振りよく貧困地域で開発をしながら、不倫に売春せざるを得ないように思いこんでしまったいた女を引きずり込む社長。それに対して、人を死なせたとトラウマでぶらぶらしてしまいながら、一つの家族と出会い、それを助けようと思ってしまった男。
しかし、それでもその男はそういう関係がうれしかった。運命は人に翻弄されるが、救いは人でもある。汚さと聖なるものが混在している社会。静かなピアノの音色で映画は終える。こうした社会だから悲しく美しいと思ってしまう映画である。だからトップにはなる。だが、社長と女が不倫関係でもない関係はあるし、婚姻届けを出しての順番も実際にはあり得る。トップの作品で考えさせられるとしても、私はあえてこうした映画への評価は下げるしかないのだ。