「救いようのない閉塞感」罪の手ざわり ごいんきょさんの映画レビュー(感想・評価)
救いようのない閉塞感
賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の久々の新作「罪の手ざわり」を見た。
「世界」「長江哀歌」と現代の中国を映し出してきた賈樟柯監督が今回選んだテーマは暴力と犯罪だ。「世界」や「長江哀歌」を見て、彼の映画こそが現在の中国を描いていると感じてきた私にとっては、彼が今回のテーマに暴力と犯罪を選んだことは大変大きな衝撃だ。つまり、それは現在の中国が無秩序な暴力と犯罪の世界になりつつあることを表しているからだ。
映画の冒頭は衝撃的なシーンで始まる。通行量の少ない田舎の幹線道路を1台のバイクが通りかかる。それを待ち受けているのは手に手に鉈などの武器を持った男たちだ。こんな分かりやすい強盗が田舎とはいえ幹線道路に待ち構えているなんて、まるで昔の西部劇や時代劇の山賊みたいではないか。しかし、さらに衝撃的なのは、その強盗たちがバイクの男の拳銃によっていとも簡単に撃ち殺されてしまうことだ。これがこの監督の選んだ現代の中国を象徴するシーンなのか。もしこれが中国の現在(いま)を反映しているとすれば、いまの中国はとんでもないことになってしまっているということだ。
しかし、これは序章にしかすぎない。この後に続くのは村の有力者たちの不正を許せなかった男の復讐劇だ。男は、村の炭鉱を売った金をひとり占めしている社長を告発しようとするが、村長をはじめ有力者たちはみんな社長の手先だ。彼の告発が地方政府や中央に取り上げられることはない。利益を独占して自家用ジェットまで手に入れた社長。今までのままの貧しい生活を続ける男たち。彼我の格差は広がるばかりだ。それを社長に直訴した彼は社長の手先によってこっぴどく殴られ怪我を負う。入院先の病院に社長の手下たちが札束を持って現れ、これで我慢せよと言わんばかりだ。しかし、彼の怒りは単なる私憤やお金のためだけでなかった。彼はついに猟銃を持って立ち上がるのだ。 男が襲撃の前に目にする京劇は「水滸伝」の林冲の場面だ。英雄林冲に自分をなぞらえて男は蜂起する。日本で言えば任侠映画だ。しいたげられ、不当に暴力を受け、身内を殺されたり痛めつけられたりした主人公が最後に立ちあがり、憤怒にかられて悪い親分とその仲間たちを斬り殺す。しかし、これは時代劇、任侠映画というフィルターをかけたからこそ許される設定であって、リアリズムの現代劇ではありえない設定だ。
これは3つ目のエピソードにもあてはまる。主人公の女性は妻子ある男性との不倫に悩んでいる風俗店の受付嬢である。ある日客に風俗嬢扱いをされ、それを断ると、まさに札束で頬をはたかれる扱いを受ける。金ならある、サービスをしろとしつこく迫る客に、彼女は果物ナイフで切りつける。そのシーンの彼女はまるで「女侠」である。「さそり」である。これまた私たちがフィクションであることを前提に楽しんでいる映画の1シーンだ。
しかし、1つ目のエピソードの村の重鎮たちを次々と撃ち殺した男にしろ、3つ目のセクハラ男を斬り殺した女にしろ、現実にあった事件を下敷きにしているそうだ。私たちが現実の世界ではありえないことを前提としながら楽しんでいる、日ごろの憤懣や社会への義憤をはらしてくれる任侠映画や女侠映画の世界が実際の中国で起こっているという事実に衝撃を受ける。それほど社会の格差は大きく、出口の見えない閉塞感が強いのか。
この2つのエピソードに比べると、2つ目4つ目のエピソードはさらに絶望的だ。1つ目、3つ目が武侠(任侠)映画をなぞったカタルシスを内蔵しているのに対し、2つ目4つ目にはそれがない。ただただ底のない絶望だけが描かれる。それが証拠に1つ目、3つ目のエピソードには京劇の1シーンが登場し、それぞれ主人公たちのこころを代弁する働きをしているのに対し、2つ目、4つ目にはそれがない。
2つ目のエピソードの主役は冒頭に登場する拳銃男だ。彼は出稼ぎで貧しい田舎の妻子に仕送りをしているふりをしているが、実はそれは強盗で稼いだお金だ。彼がなぜ犯罪を繰り返すのか、その理由が詳しく語られることはない。観客であるわれわれには彼の心情は理解を超えている。ただ彼は金のために人を殺してその金を奪うだけなのだ。たとえ殺される側が大金持ちであろうと私たちの倫理観の範疇にはない行いだ。
4番目のエピソードの閉塞感もひどい。主人公の若者は都会の工場で働き仕送りをするが、母親は感謝の気持ちを表すことはない。自分勝手に職場を転々とし、そのそれぞれでトラブルをおこし、すきになった女性には子どもがいて、出口は見えない。結局は最初のトラブルがもとでお金を要求され、自ら死を選ぶ。
1つ目、3つ目では絶望的な格差を描きながらも、それに立ち向かおうとするエネルギーを描くことで、観客にある種の開放感を与えている。しかし、2つ目、4つ目のエピソードが観客に与える快感は全くない。ただただ絶望あるのみだ。それらのエピソードを交互に持ってくることで賈樟柯がつきつけてくるものは、どちらに向かっても絶望しか待っていない中国社会の現状なのだろうか。この映画に描かれていることだけが現代の中国だとは思わないが、彼が私たちに見せてくれた中国は本当に重い。
賈樟柯が 今まで中国の今を映す映画を撮ってきたのだとすれば、この映画の訴えてくる世界は、この閉塞感は救われない。