今日子と修一の場合のレビュー・感想・評価
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余白から感じる虚無
奥田瑛二監督作品
物語の中で交わることのない二人の物語を、東日本大震災を題材に描いている。
英語で書かれた「case of Kouko,case of syuichi」
この二人のケースとは、未曽有の大災害が起きたにもかかわらず、しばらくそれを無視し続け、ようやく重い腰を上げた二人の違いのことだろう。
過去に犯した父殺しの罪
収監中に起きた大震災
行方不明のままの母
本当にすべてを失った修一は、帰ったところで仕方がないことを理由に働き続ける。
あれは確かに、行方不明という意味を、死んだと考えるに十分な災害だった。
大学受験を再開し見事合格、好きになったミキに「ひょっとしたらひとりじゃないのかも」と言葉にする。
何もかもなくなっているから、行っても仕方ない。
そんな虚無からの再生。
母が死んだという覚悟はできている。
しかし、修一は大人への通過点、通過儀式として実家を見ておく必要があると考えたのだろう。
母の死は覚悟した。それは受け入れるしかない。でも、心にけじめをつけなければならない。
これが修一のケースだろう。
一方、夫と息子がいる身でありながら枕営業に流され、勘当された今日子。
ホテトル嬢のような仕事と素性のわからないトオルとの同棲。
小遣いをねだるヒモ その時起きた地震 そして2度目の大きな地震で包丁が刺さって死んだ。
この時の今日子の心情は正直よくわからなかったが、今日子は呆然としながら勘当された過去を思い出している。
そう言ったのは義理の父で、夫は何も話さない。
トオルが誤って死に、ニュースでは津波の様子が流れている。
家族は誰も生きているはずはない。
今日子はそう思ったのだろうか?
彼女はトオルの死体を切り刻むと、スーツケースに詰め線路脇の空き地に埋めた。
「あなたは本当は誰なの?」
この言葉はおそらく、自分自身に言ったのだと思う。
切り刻んでいたものは、自分自身の心だったのかもしれない。
何もかもが無意味に通り過ぎてゆく。
そんな寂しさが彼女自身を包んでいるかのようだ。
今日子の両親や兄弟はすでにいないのだろう。
実家などはなく、元居た家だけが唯一の故郷と言える場所だったが、おそらく何もかも流されたと思ったのだろうか? そう思うことに決めたのかもしれない。
トオルなのかタケシなのか知らないが、「私もキョウコか何者かわからない」
定食屋で見た津波の様子と、定食屋の息子が自分の息子に被ったとき、みな死んだのか確認したくなった。
息子にだけは会いたい。もう一度この目で見ておきたい。
彼女はそう思ったに違いない。
義父と夫は死んだようだが、義母と息子は元気よく生きていた。
息子はもう母の顔を忘れてしまったのだろうか? 祖母に隠れながら今日子を見ている。
それは遠い記憶を思い出さない方がいいと頭のどこかで感じているのと、どうしても見ずにはいられない葛藤のようなものを、あの子から感じてしまう。
涙だけを残し、今日子は去った。
彼女は戻れない。
ただ一目見たかった。
これが彼女の人生に対するけじめだろう。
これが今日子のケースだ。
さて、
この作品は人生と同居せざるを得ない大災害をミックスしている。
ただその震災被害そのものはこの二人に大きな影響を与えているわけではなく、二人の心の虚無として描かれている。
そして震災以上に犯した事件と誤った認識によった転落の方がよりウェイトが大きい。
この二人にとっては、震災よりも心の傷が深いことになる。
虚無感という大きな落とし穴に落ちてしまったかのようだ。
あんなに重大な出来事があったとしても、いまの自分自身との折り合いをどうしてもつけることができない理由がこの虚無感だ。
それにようやく折り合いをつけらるようになるのがこの物語。
二人にとってあの大震災とは、どうにもならない虚無感に等しいのだろう。
若干長ったらしい作品ではあるが、余白に残る虚無感が良く描かれていた。
ダブル主演に監督 興味本位で視聴
淡々と進むお話に
なぜか見いってしまって
寝落ちするまもなく鑑賞終了。
涙もホロリとでてしまいました。
話の結末ははっきりとはなく
でもこんな終わり方もいい。
人にこの映画を勧めるかといえば
勧めるなら人を選ぶ必要ありという感じ。
興味本位で見た割には
満足感ありでした。
結婚後の作品らしい
これが出会いのきっかけかなあと思ったら違っていて、奥田瑛二が娘と娘の旦那さんを使って撮った映画、ということになる。
柄本佑はほんとに良くて、最近特にいい役に恵まれていると思う。
この映画ではちょっと薄めの役どころだったのでもっともっと見たいと思うほど。
実はこれ随分と前に出だしだけ見ていたらしい。
カンニングの竹山の下衆ぶりがあまりにも上手いんだかあの顔に似合いすぎてるんだかで、ウンザリしてそこでやめてしまったんだと思い出す。
映画自体の感想としては、ここまで不幸な人々の集合体を見せられるのは果たしてリアルなのだろうか?
そういう人々はある一定の所に自ずと流れ着くものなのだろうか?
奥田瑛二は安藤和津と知り合った時、公園のベンチがねぐらだったとトーク番組で言っていた。
彼を最初に見たのは「金閣寺」という映画の僧。
並々ならぬ才能をその時から発揮していたし、自覚はなくとも自分がそのうち自分の才能を開花させるに違いない自信は持ちながらの野宿だったのは間違いない。
だが 人は運命というもっと厄介なものに翻弄されるのが世の常で、奥田瑛二以外の人でそういう才能がありつつなんの花も開かずただただ世の中を恨みつつ生きてる人もたくさんいるだろう。
真っ当とは?
日の当たる町の日の当たる道を 堂々と両手を振って生きて行ける人生とは?
人はいろんな運命を背負う。
その運命には自分の切り開く力というのも含まれるとして、人は能力や方法やその場の対処ひとつでまったく別の道を行く。
安藤さくら演じる保険外交員。
もし私がその立場になったら。
竹山をぶっ飛ばして外交員をやめる事ができるだろうか。
というか
こういう設定、保険のおばちゃんたちから抗議来なかったんだろうか。
これじゃ保険のおばさんたちみんな体で契約取ってるみたいに見えるよ。
私の保険の担当の人たち そういう人ひとりもいないなあ。
イジメられた子の復讐
父を殺した息子
余程体調のまともな時じゃないと見てられないのは間違いない。
ラーメンばっかり
できれば“ケンちゃん(和音匠)の場合”も欲しいところだったけれど、安藤サクラと柄本佑という夫婦共演、しかも奥田瑛二の娘という家族の安心感があった。
今日子と修一という二人にはそれぞれの深くて悲しい物語があるわけだが、今日子は嫁ぎ先から追い出され、新たな人生を始めようとしたところで、同棲中のヒモみたいな男を刺してしまい、逆に修一は父親を殺してしまった罪を償い、更生しようとしているところ。そのターニングポイントとなるのが双方とも東日本大震災だったというすれ違いストーリー。
殺人についても二人とも違うものだったし、人生の波が下降に流れるのか、再生して上昇するかの違いもあった。今日子にとっては殺人というより過失致死のようだったが、徹とタケシと二つの名前を持つヒモに人間不信と家族が震災にあったという理由からか、死体を切り刻み硫化水素によって隠ぺいしようとさえするのだ。なぜだか事件にもならないという都会の片隅の出来事。自暴自棄だったのか、心神喪失だったのかはわからないが、心の闇は消えそうにない哀しさも感じられた。
一方で、町工場で働きながら更生し、母親までもが行方不明となっていた修一は、未来を見つめ大学受験を志す。応援したくなるような性格だったし、彼女も出来そうなのに敢えて孤独を選ぶところも心の闇があるためか・・・。途中は時系列もバラバラだし、ちょっと気を抜くと眠くなってしまいそうな内容ながら、そんな二人が出会いそうで出会わない最後は見事でした。
驚きだったのは、同じく殺人を犯して少年刑務所から町工場で働いていたケンイチ役の和音匠。志垣太郎の息子だということだが、ピアノの腕前も立派なもの。本人の演奏という珍しいシーンも印象に残りました。
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