ジ、エクストリーム、スキヤキのレビュー・感想・評価
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ARATAと市川実日子、身長髪型おそろ
ー掃除してなかったからね
ーいつから
ー買ってから
19のときに買ってもらったから、
20年くらいだね
大学時代、
仲間の車で旅行やドライブ、
海や川で花火やBBQをしてたような
いわゆる青春をちゃんと味わってきた人たち。
25くらいの頃、
そのうちの1人が亡くなって
それ以来会うことのなくなった人たち。
40近くにして、
自殺失敗のニート、
居酒屋で2年以上働くフリーター、
特に役職もない小さい会社のOL、
が久々に会い、海に行き、
場面で民宿のようなところに泊まり、
河原みたいなところでスキヤキを食べる。
明確にやりたいことがあるわけでもない、
かと言ってなにかこれと言って
他の人よりも優れてできることがあるわけでもない、
連絡を取ってる友達も特にいない。
これが20代ではなく30代で、
さらにはフリーターが
バンドマンとかそういう類でもなく
ただふらふらしてるタイプ。
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レビュー、ここまで書いて終わってる
もう覚えてないな
『ふきげんな過去』が、良かったので、この映画を見てみた。会話を楽し...
『ふきげんな過去』が、良かったので、この映画を見てみた。会話を楽しむストーリーだと思うが、若い男性どうしの会話がボケとボケどうしの会話で心地よさが全く無い。つまり、散文的で不条理なだけで、韻文的な部分がないばかりか、オチすらない。
多分、演じるCASTの能力に問題があると思う。つまり、セリフを喋っているだけで、顔が演技していない。言い換えれば、男二人に毒が全く無い。良い人なのだろうが、トボけた顔からトボけたセリフが飛び出す。それだけ。
『ふきげんな過去』は毒のある女性が輪を囲んで毒のある会話をする。ボケとツッコミが波状で繰り返す。
多分、運転をしながら、演技出来るキャパシティが彼には無いと僕はかんじる。つまり、ミス・キャスト。
同じ四人の会話でも『ふきげんな過去』の女性達が紡ぐ会話は、波状に押し寄せ、最後に落ちが必ずある。
多分、彼は勘違いしていると感じる。毒のあるキャラクターに登用されていたので、毒のあるキャラクターを演じる能力があると勘違いしている。普通の人を普通に演ずるのは大変な事だが、普通に演じて貰いたい。
物理的にはセリフを3回くらい噛んでいた。舞台は出来ない。だから、舞台を主宰する脚本家が起用するCASTではないと思うが。
ある男のための映画
この映画は自殺から始まる。
なぜ自殺しようと考えたのかは語られてはいない。
ただ、何もなくなった。というセリフがあるくらいだ。
ただ映画全体を通して
窪塚洋介の事を応援していると考えると全てがうまくいく。
人生は戻れない、それが美しい。
暗闇に進まなきゃいけない。
過去は美しいものだ。
過去の件で会わなくなっていた人達も繋がりを作れる。
過去に楽しかった時の人達ともう一度会おう。
それが全て窪塚洋介の復活を望む声として聞こえた気がする。
洞口すき!!
生まれて初めて、同じ映画を続けて2回観た!
なぜなら、
井浦様が今まで演じた役の中で(まだ全部観たわけじゃないけど)この洞口っていうキャラクターが一番好きだったから!
挙動不振のアホを演じる井浦様もまた素敵。
っていうのと(まだあんのかよ)、
観終わったあと、全力で「え?????」ってなったから。笑
育児中あるあるだけど、
あれこれやりながら観てるから会話の3割くらい聞き逃してる。
大事な出来事の1割くらいは見落としてる。
しかもこの映画暗いシーンがちょいちょいあって、
遠く離れた台所から観てると停電か?って思うくらい画面真っ黒。
たぶんそういうところに大事な要素が落っこちてたんだな~、とか思って、
終わった瞬間また迷わず再生。笑
2回目見たら3通りの解釈が浮かんだ。
学生の頃から現代文が一番苦手な私だからどっちにしろトンチンカンな解釈なんだろうけど、書いてみる。
どっちにしても主人公は洞口で、社会性がなくて挙動不振でヘラヘラして現実に向き合おうとしない彼がついにデボン紀を抜ける、というのがテーマ。
①海→投身
洞口が、海への旅を経て「デボン紀を抜けよう」と決意した説
洞口は、自分以外の三人がすでにデボン紀を抜けていることを知って、自分もいい加減に抜けなきゃいけないと気付く。
でも、砂浜で京子と話してたときに砂の上に書いてたように、人生の波の中でひときわ大きな「ビヨン」っていう波がないと次の紀には行けないと洞口は思っている。
だから、相当長く続いたデボン紀を抜けるために何か大きな出来事を起こさなければ、と考える。
で、その出来事=崖から落ちて生き延びて這い上がることだ!と思い立って、実行する。
息も絶え絶えになって車に戻って昔の写真を見て、自分もついにデボン紀を終わらせられたことを実感する。
...でもこれだと、最後のシーンで車内に文庫本があることが腑に落ちないからたぶん違うね。笑
人生の波とか関係なく、ただ単純に、友達がみんなデボン紀を抜けていて自分だけ取り残されていたことがショックで自殺未遂したかったのか?とも考えたけど、それは洞口が可哀想すぎるから却下。
井浦様が可哀想な映画は嫌い!
②投身→幻影
海に行ったのは瀕死の洞口が見た夢でした説
そもそも洞口は友達に再会してもいないし、海にも行っていない。
洞口は大川にも京子にも会わずにずっと一人でデボン紀を引きずっていて、挙句、何もかも嫌になって投身自殺を図る。
しかし死ねず、瀕死の状態で大川たちと海に行った夢を見る。
目が覚めて必死で車に戻り、昔の写真を見て、いよいよ自分もデボン紀を抜けなきゃいけないと改めて決意する。
③投身→海
自殺未遂からの生還を経て、昔の友人たちに会おうと決意をした説
一番最後に浮かんだ解釈だけど、これが一番スッキリするな。
これなら車内に写真が挟まった文庫本が置いてあったのも納得がいく。
洞口が足を引きずってるとか体に傷があるとかすれば、③だってすぐわかったかも。
すぐわかんないところがまたいいのかなぁ。
しかしさ、時系列として、投身が先か海が先かで、かなりストーリーが変わってくるよね。
本の件は、京子がうっかり持って帰り忘れたんだって考えれば(ちょっと無理やりだけど)辻褄が合うし。
考えれば考えるほどなんかちょっと怖くなるわ。
って、こんだけ書いて全部まるで違ったらどーしよ!
そして改めて読むと①は我ながら突拍子も無いな。笑
たぶんさ、インターネットとか見ればさ、作者の意図を汲んだちゃんとした解説があるんだろうけどさ!
とりあえず自分の意見を記録しておくことも大事だと思って書いてみた次第!
全然違ったらごめんなさい。
前田さんにも井浦様にも窪塚にもごめんなさい。
まぁさ、人生前だけ見て美しくズンズン進んで行きたいけどさ、
やっぱブーメランみたいに突然戻ってきたりさ、そーゆーのあるんだよね。
砂浜にぶっ刺さったシーン面白かった。
洞口と大川の会話聞いてたら、大学生の頃が一番こんな感じだったな~とか思った。
喪失と再生を近距離ロードムービーで描く
喪失と再生
多くの映画に共通する、このテーマが本作品にも通底して流れている。
特に喪失からの再生に関してはその過程は見せずに、登場人物それぞれが持ち得る喪失感だけが時間を経た現在に時折顔を覗かせる。
しかしそこにあるはずの悲哀は経過した時間と同様、各々の人生のなかで消化され、醸成されてしまっているのも現実のなかでは致し方ないことだろう。
そういった意味で主人公は、その悲哀を反芻して生きてきてしまったのだろう。
人生の時計の針を進めたはずも、無理やりに進めた時計の針は、狂いの兆しを見せてしまう。そもそもが時計としての機能が備わる過程での喪失であっただけに、そこに足りない部品を得ようとしたところで、現在においても、その機能が得られることはない。
本人は無自覚ではあるものの、前半、合羽橋のシーンでの放浪〜買い物の一連の流れにその心理を読み取ることができるのではないだろうか。
かつての仲間は、半ば無理やり主人公に付き合う形でひととき日常から離れるが、その道程で過ごす時間は、かつてともに過ごした時間とは違い、見る景色の色合いも見方も変わってしまっている。
表層的な変化がないことがその事を余計に浮き彫りにしてしまい、悲しく描きだされる。
登場人物それぞれが喪失を経たのちに歩んできた現在と、主人公に不在する【現在】が冒頭オープニングへと繋がっていく。
近距離ロードムービーに落とし込んで、一見グタグタな会話を見せていながら、決して退屈にはしていない。
良い意味での安っぽさ、チープさを失わずにその演出で見せてくれた前田司郎監督、【横道世之介】の脚本も手掛けたその手腕は今後も期待したいです。
次作は映像表現を活かした心理描写も作品のなかで見てみたいと思いました。
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