ベルリン・アレクサンダー広場のレビュー・感想・評価
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不思議な明るさ
ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督。1979年製作のテレビシリーズ。
クズ男の、どうしようもないにも程がある半生。
苦難を描いたドラマの定石として
1)貧乏は貧乏なりに、愚かは愚かなりに、困難にもめげず前を向いて進み、ささやかな幸せをみつけて…というお涙ちょうだいドラマ
2)不幸なのは社会や政治が悪いから…というステレオタイプなドラマ
などあるが、本作は、どちらにもあてはまらない。
ただただクズ男の転落だけで構成された15時間のドラマ。
作ったファスビンダーもどうかと思うが、流したテレビ局もどうかしてたんじゃないか、いや、これを受け入れた当時の視聴者が一番エラいな(視聴率ダダ下がりだったらしいけど)。
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主人公フランツ・ビーバーコップ。刑務所を出所してから精神病院に入るまでを描く。
刑務所出所→真人間になるぞと誓う→地道に生きる→友人から酷い裏切り→ショックでアル中→何とか立ち直る→友人から酷い裏切り。右手を失う……
という風に、「立ち直る→裏切られる」を、何度も繰り返す。
1920年代のドイツが舞台。戦争の影・ナチスの台頭・政治・思想・犯罪・金・女・裏切り・酒が一人の男を通りすぎていく。それらは、フランツを何一つ幸せにしなかったが、彼を徹底的に壊すことも出来なかった。子どものように無防備なままの男、フランツ。
この長いドラマの中で、唯一心が和むのは恋人ミーツェとの出会いだろうか。一瞬だが光が射す。子犬のようにじゃれあう二人。泣ける。ここでドラマが終われば良いのにと思う。しかしその幸せ風景にも、このあと破局が待っているんだろうなという不安の影が漂う。二人の幸せが高まれば高まるほどに、その後訪れるであろう悲劇も深くなるんだろうなという予感。一瞬の光すら不幸のスパイスにしかならないという。
案の定、友人がミーツェを殺す。そして、フランツは精神病院に入院する。
フランツは友人だと思っていた男に、自分の右手も恋人も奪われた。何を捧げても見返りのない友情に、全てを奪われた。
なんの救いもない物語。
そして、このあとエピローグ(約2時間)が、延々と延々と続く。
入院しているフランツの妄想なのか、なんなのか、常軌を逸した地獄絵図のようなエピローグ。地獄が逆に天国にも見えてくる異常な迫力。
登場人物たち…フランツを裏切った友人、死んだ恋人たちが、入れ替わり立ち替わり再び現れる。それまで充分すぎるほど痛めつけられてきたフランツに対し「お前が悪い、お前が愚かだったからこうなったのだ」と、皆で罵倒しあざ笑い鞭を打つ。
救いがない上に、さらに鞭打たれて、もうどうすれば良いのか。
「そうだよ、オレが悪かったんだよ」とナルシスティックな悔恨にまみれて、フランツは死んでいくのか…と思った。
だが、このドラマは、ナルシスティックな死すらも許さない。
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ラスト、唐突にフランツは正気に戻り心を入れ替えて、社会に有用な人間として再出発する。
「長い長い懺悔を経て原罪を認めなければ、まっとうな人間にはなれない」という教訓なのかもしれない。絶望→懺悔→悟りという過程を描いたのかもしれない。
ただ、あまりにもとってつけたようなラストなので。
私には、「ふりだしに戻った」ように見えてしまう。この、ドラマの最初にも「真人間になる」と誓ったはずだ。それなのに、不幸のつるべうちだった。またこれからも、似たようなことが起きるのでないかという、不安。
いや、本当に有用な人間になれたとしても。
有用な人間は、ミーツェとの恋愛のような愚かな真似はしないだろう。だから、あんな絶望も味わわない。だけども、あの時射した一瞬の光は、もう二度と訪れないだろう。それは、果たして幸せなのか。
どちらにしても、悔恨と絶望の中でのたうちまわるエピローグを経た後では、不安とか幸せとかどうでも良くなっており、何か恬淡とした気分でドラマを観終わる。ファスビンダーにとっては、慟哭の地獄こそが本懐であり、そこに全てを注ぎ込んで撮っており、後のことはあまり気にしていないようにも思える。
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愚かな人間がのたうちまわる、救いのない物語だが。
因果応報と言われれば、それまでの話だが。
何の役にも立たない男の、それこそ何の役にも立たないドラマであるが。
不思議と観終わった後、暗い気持ちにはならない。
不思議な明るさ…自分より愚かな人を観た「優越感」とは、ちょっと違う。
愚かさも何もかもすべてを詳らかにした「達成感」か。ここまできたら、もう取り繕うことなど残っていないという「安心感」か。「絶望であることを知らない絶望」から脱した「爽快感」か。
何なのかは分からない。この「不思議な明るさ」を求めて、私は映画を観るのだろうと思う。
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