塀の中のジュリアス・シーザーのレビュー・感想・評価
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囚人たちの演ずるセリフが、犯罪という現実と重なり、どこからどこまで...
囚人たちの演ずるセリフが、犯罪という現実と重なり、どこからどこまでが演技なのか、葛藤なのかがわからないほどリアリティに満ちている。素人の演技とは思えない。
2014.4.4
練習風景を舞台にした発想だけ、惹かれた
芸術臭が強くて、見る側に、教養とでもいうか、読み取りの能力を要求し、距離を感じる。
簡単に言うと、理解しずらいくそ芸術映画という感じ。
モノクロを使った意味がわからない。
金獅子賞ておもんないヨーロッパ的伝統文化、芸術を高く評価する傾向があるんでしょうかね。ファウストも最悪だったしな。
受刑者が忠臣蔵やっているようなものか。ただそれならおもしろかも。やっぱり文化の違いって大きい。
ただ、おもんないものはおもんない。
シェイクスピアの普遍性
刑務所内に立派な劇場があることを考えても、イタリア国内において、囚人の演劇プログラムはしっかり根付いているものらしい。まず、この事実に驚く。
だから、この刑務所内での出し物を観たであろうタヴィアーニ兄弟が、
「これは映画になる!」
と考えたとしても何ら不思議はない。
しかし、これを本物の服役囚を使って撮影するとは、かなり大胆な試みだ。
演じる役者達は、皆刑期十年以上の重罪犯。中には終身刑の者もいる。
改修中の劇場は使えず、稽古はもっぱら刑務所内のあらゆる場所で行われる。
無論、衣装もなし、小道具も必要最低限。
しかし、役者達の稽古が熱を帯びるにつれ、彼等は役と同化していき、塀に囲まれた狭い運動場はローマの広場に見えてくる不思議。
そして、役者達の“熱”は出演者以外の服役囚をまでも巻き込んで行く。
これは、役者や演出家の情熱と努力の賜物と言えるだろうが、やはり痛感するのは執筆から何百年と経ても尚、世界中で上演されているシェイクスピア劇の普遍性だ。
出所後のために、職業訓練はもちろん必要だろうが、更生という観点でいえば、演劇プログラムはかなり有効ではないだろうか?
ひとつの作品を作り上げる過程での他者との関係、協調、そして何と言っても、無事にやり遂げた時の達成感、喝采を浴びる高揚感。
これらは、職業訓練では得られないものだ。
見なかったあなたは正しい
2月27日、銀座テアトルで鑑賞。
現役の囚人がシェークスピア劇を演じる…その姿を映画化。
すごく見てみたい、と予告を見て思った。
で、見たけれど、がっかり。
囚人たちがなぜ演技をするのか、その背景、内面までを描いていないからだ。
ひょっとしたら、敢えてそれを描かなかったのかもしれないが、それがなければ、ただのサークル活動の記録でしかない。
そのサークルは、極めて異世界なんだけれど。
現実と虚構の狭間の囚人たち
この映画に出演する俳優たちは一部を除いて本物の囚人だ。しかもそのほとんどが重罪人で、映画を見る限り最も軽い刑でも15年ほどの服役を課されている。そんな彼らによる映画が個性的でないはずが無い。
映画の構成がとても面白い。他の映画ならおそらく舞台が出来上がるまで囚人たちが練習する過程を追い、最後に完成した舞台を撮影するだろう。だがこの映画は練習風景さえも「ジュリアス・シーザー」のひとつのシーンとして映し出す。だから観客の目には「演技をしている囚人」と「劇の中の人物」が交互に映り、不思議な感覚に囚われる。
その特徴的なシーンがシーザーを演じるジョヴァンニとディシアス演じるフアンの合わせの場面。なかなか元老院に行こうとしないシーザーをなんとか出席させようとディシアスがおべっかを使うのだが、途中でジョヴァンニが台詞にはない言葉を口にする。フアンが彼の悪口を影で言いふらしている、というのだ。元々の性格が役にぴったりだったのか、役が性格に影響したのかは分からない。だがその場にいる他の役者も、映画を見ている観客も現実と創作物の区別が一瞬つかなくなる。こんな効果を生み出せるのはこの映画だけだ。
当然囚人たちは素人なので演技指導もされているだろうが、それにしても上手い。なんの背景も小道具もないところで彼らが演技を始めると、途端に目の前にローマの風景が浮かび上がる。
唯一本物の役者である(といっても'06年までは同じ囚人だった)サルヴァトーレは格別だ。彼は練習時間でないときも演技の練習を続け、役のブルータスに完全になりきる。ある台詞が彼の過去を思い出させるのだが、この場面はまさにこの映画のテーマでもある。「ジュリアス・シーザー」の物語は言ってしまえば裏切りと殺人で色塗られた話だ。登場人物たちと同じように罪を犯した囚人たちには、その台詞のひとつひとつが心に訴えかけるのかもしれない。演技中の彼らも、それが演技なのか本当の感情なのか分からないこともあるだろう。その異常なまでの感情移入が迫真の演技となり、見る者を引きつける。
どれほどなのかは知らないが、おそらく「現実」と見せかけた演出されたシーンもあるだろう。だが映画に創作はつきものだ。「舞台が完成するまで」ではなく「舞台」そのものを映像化している、と言った方が近いからそれは指摘するポイントではない。重要なのは見ている者の心に響くかどうかだ。現実と虚構の壁を取り払うことで、見る者を惑わせ、感情にダイレクトに伝えてくる。この点において「塀の中のジュリアス・シーザー」は大成功だろう。
(2013年2月5日鑑賞)
ドラマ性のある異色のドキュメンタリー
舞台上でシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」のクライマックスが演じられている。そして終演。スタンディング・オベイションを受けて俳優たちが引き上げていく。向かう先は刑務所の重警備棟、各自の監房だ。
実は演じていたのは全員が囚人だったという、映像的にはセンセーショナルな場面なのだが、そのことは映画の広報で告知されているから驚きはない。このことを知らせずに観客を呼ぶことができたなら、どんなによかっただろうと思う。
場面は半年前のオーディションに遡る。そして画面からは色彩が取り除かれモノクロになる。
同じ内容の言葉を2通りの喋り方でさせるオーディションは、皆、真剣で、とても素人とは思えない。
その後のキャスティングの発表も、役と風貌がぴったりで、まるでハリウッドから集めてきたような顔ぶれで驚く。
タイトルのまま塀の中、いたるところを使って練習に明け暮れる日々をカメラが追う。深く深く役にのめり込んでいく様を見ていると、どこまでが現実なのか、その境目を見失いそうになる。迫真の演技というよりも、まさに刑務所がローマ帝国と化し、謀略と裏切りの淀んだ空気を纏っていく。
稽古を見ているだけで「ジュリアス・シーザー」の世界を堪能できると言ってしまうのは簡単だが、囚人たちの表情からは鬼気迫るものを感じる。
冒頭の舞台の場面に戻り色彩を取り戻した囚人たち。演じ終え両手を挙げてガッツポーズする姿は、やり遂げた達成感よりもローマ帝国の呪縛から解き放たれた開放感を強く感じる。
ただ、監房に戻されたときは、集中するものを奪われて寂しそうだ。
ホンモノの囚人の描くジュリアス・シーザー
2012年2月の第62回ベルリン国際映画祭で最優秀作品賞に相当する金熊賞を受賞。
イタリアのレビッビア刑務所に収監されている囚人たちによる演劇実習を描いた作品。月中出演しているのは、実際の囚人たちである。実質的に演劇実習のドキュメンタリー。
毎年このような演劇実習が行われているというのは、驚きです。稽古は、刑務所のありとあらゆる所で行われているんですね。廊下、屋外運動場などなど・・・。看守たちも、何か応援している雰囲気出し、演劇に参加しない他の囚人たちも、掛け声で応援したりと、刑務所全体で演劇に前向きに進んでいる感じが伝わってきます。
演劇に出演しているのは、重警備棟に収容されている囚人たちですが、彼ら各々の罪状を見ると、組織犯罪であったり、麻薬取引であったりと結構な重罪です。ですが、セリフ(本音?)に「芸術を知ってから、監房に居るのは辛くなった」と言う様な事をレーガが言っていて、演劇実習が更生に向けての一助になっているような気がします。劇をしている時は、みんな生き生きとしているしね。
そんな、劇への入れ込みが、時として、現実の自分と劇中の役との境目を本人たちに分からなくしてしまっているような描写もあります。まぁ、あれだけのめり込めばねぇ。そうなるか。
面白いです。
タビアーニ兄弟は映画の新たな価値を創造してくれた!
こんにちは。
グランマムの試写室情報です。
『塀の中のジュリアス・シーザー』
シェイクスピアの原作を、イタリアの巨匠タビアーニ兄弟が監督しました。
30年以上前、『父/パードレ・パドローネ』を観た時の衝撃は今でも忘れられません!
以降、『カオス・シチリア物語』、『グッドモーニング・バビロン』などなど、タビアーニ兄弟の作品には、“映画を観る喜び”を存分に味併せてくれる芳醇なイタリア映画の薫りがありました☆
今回の『塀の中の~』は、『パードレ~』を観た時と同様に、或いはそれを超えた、映画の可能性を“発見”させてくれる傑作です。
何しろ、本物の囚人たちが刑務所の中で、シェイクスピア劇を演じるのです。日本では考えられないことですよね?!
さすがルネッサンスの国、文化が自然に根付いている背景、そして罪を負った人びとへの許容度…、精神科病院をなくし、患者を社会生活に溶け込ませる開放性…。
タビアーニ兄弟の独創性に満ちた創造力は、イタリアのこうした社会的背景と無縁とは思えないのです。
本作のカメラは、刑務所長が、囚人たちに新年度の演劇実習を伝え、オーディションの場面もつぶさに映し出します。
つまり、ドキュメンタリーであることは確かなのですが、あまりに安定したカメラ構成、自然に流れるような編集、カット割りが続くため、まるで設えたセットでのドラマをみているかのごとく、不思議な感覚に襲われます。
タビアーニ兄弟は、刑務所の中をどこでも自由に撮影することを許されていたそうです。撮影中の4週間は、実際に刑務所の中で寝起きしました。
撮影に入る数ヶ月前から、刑務所に通っていたタビアーニ兄弟は、囚人たちそれぞれが、出身地の方言に置き換えて、脚本の読み合わせをしているところに出くわしたそうです。
ナポリ、シチリア方言とローマの言葉の違いなどは、私たち日本人にはわかりません。おそらく標準語で書かれた時代劇の台本を、大阪弁、東北弁に勝手に置き換えて、台詞をしゃべっているようなものでしょう。
俳優が役と言語を共有する事で、より深い関係性を導き出す点に気付いたタビアーニ兄弟。本当に囚人たちの自主性を重んじたのですね。
また、監督は囚人たちに、プライバシーへの配慮から、仮名にしてもよいと伝えたところ、驚いたことに、全員が本名、両親の名前から出身地まで明かしても構わない、と答えたそうです。
囚人たちとしては、塀の外にいる人びとへ、自分たちの生活ぶりを伝えたい、という気持ちからだったとのこと。
過剰に匿名性を意識する、どこかの国のメディアを思い出し、イタリア人の開放性、自由さにため息が出てしまいます。
ところで、面白いのはオーディション風景。自分の名前を、最初は悲しみをこめて、次には怒りを表現して言ってみせるという手法なのです。
さすがに、前科数犯、刑期を重ねた方々(^^;)、殺人罪により、終身刑を言い渡されたお方たちもおり、面構えが違う!(笑)
目の前にいたら、怯んでしまうほど迫力のある囚人たちが怒ったり、叫んだりする様をみていると、囚人たちも何かを表現したがっていることが分かり、胸に迫ります。
上手くしたもので、オーディションの結果、シーザーには最も図体がデカく、態度も尊大そうな囚人(麻薬売買で刑期17年)が選ばれます。
謀反を扇るキャシアスには、殺人罪により、終身刑囚として服役中の、如何にも悪巧みを考えそうな(^^;)囚人が。
シーザーの甥オクタヴィアスは、若く血気盛んな青年。
そして、最も難役のブルータスには、幼少期から少年拘置所で過ごし、14年余りの服役中、演劇実習により、演技に目覚めて、出所後は俳優に転向した元受刑者。
ブルータス役を引き受けるために、自身も以前に収監されていたローマ近郊の刑務所に戻ったという、曰く付きの人です。
不思議なことに、反マフィア法により、終身刑で服役中のホンモノのマフィアは、なぜか童顔でウブな雰囲気(?_?;終身刑だから、よほどの悪事を重ねたはずなのに、ホンモノほど“それらしく”見えないものなのか?
などと、色々と考えを巡らせてしまう本作ですが、面白くなるのは更にこれから!
刑務所内の劇場が改修工事中のため、配役された囚人たちは、掃除をしながら、すれ違いざまに(ちょっとコワい(^^;)、休憩室で、役になりきり、練習を重ねていきます。
役の序列のように塊になり、行動する囚人たち。まるで所内が、ローマ帝国と化したかのような、緊張感と一体感が同化した不思議な空気に包まれます。
現実と虚構の世界の垣根を超えるというのは、こういう状態を言うのでしょうか。囚人たちのひりつくような神経、真剣そのものの汗が、びんびんと観客へ伝わって来ます。
一般客を所内へ迎え入れての公演当日。ラストには、魂を揺さぶるほどの感動が待っていました。
自分は何を観たのか?現実なのか?芝居だったのか?まるで夢をみていたかのような表現しにくい感情に襲われます。
どのような感情か、まずご覧になって、ご自身で確かめることをお薦めします。映画の神さまが奇跡を起こしたとしか思えない作品です。
来年1月26日から、銀座テアトルシネマで公開されます。
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