トールマンのレビュー・感想・評価
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絶対に彼らが正しい。現実に生きている誰よりも。
長文お許し下さい。申し訳ありません。
子供達の為に何がしてあげられるだろうか。
今は日本も幸せになってそんな事など
深く考える必要は無くなったらしい。
“親が選べない”子供達でも今の時代のこの国なら
心の幸せは得られる可能性がある。
(優れた人間以外は優れた生を享受出来ないのは
当たり前じゃないか?
優れた人間以外は優れた生を想像し得ないだろう。)
しかしそれこそ世界中には、
そして勿論この国の最底辺の界隈にも
サイコや変態な親も貧乏な家庭も
必ず一定の割合は存在するようだから
全員幸せには絶対になれない。
なら、実の親の元にいると幸せなのか。
それは有り得ないと思う。
少しでも子供の為を思うなら金持ちに頼む。
大人になってからの世界がとてつもなく
違うのは解かり切っていないか?
モラルは住む世界によって、
それぞれの家庭によっても違う。
優れた遺伝子を持つ大人の最低限の役割は
優れた遺伝子を持つ子供をつくる事だ。
しかし教育を受ける権利を得られないままでは
優れた遺伝子を腐らせてしまう。
フィクションだと認識した上でだから
こんなことを言えるのかも知れない。
しかし、正直な願望である。
金持ちの方が親の愛を有効に示し使える現代世界に
生まれて来た子供達なのだ。愛しているのなら
その才能を地域社会の発展だけに消費してはならない。
勿論地域社会の発展のみに消費すべきだと言わざるを得ない
才能もあるだろう。割合なんて解らない。
だが、偏屈な地域社会では理解してあげられない多くの
巨大な才能が潰されているのは間違いない。ホントに。
逆に金持ちの家に生まれ育ったが才能の無い、
折角の環境を無駄にする子供達も多い。
これは嘆くべき、正すべき事実だと自分には
思えて仕方が無い。
他の誰でもない、子供達本人の為に、でしかない。
終盤のジェシカ・ビール(ピールじゃないのね)の
言葉(非常に悔しがって、小さな声で泣き叫んでいた)には
全く「正しい願い」しか感じなかった。
これこそ「映画の映画たる所以」なのだろうか。
他の映画のネタバレになるが
「ゴーン・ベイビー・ゴーン」を観た事がある。
あちらはボストンが荒れた街であるという設定で
ネイティブボストンな人達がそれぞれの信念と
葛藤しながら、な話で。で、あちらは関わる大人が
尽く汚く、悲しいが汚れてしまったが頑張っている、
という風情に描かれている。
で、ますます正解なんか判らない。
誘拐なんかよりもっともっともーっと
酷い事が行われてないか?
この「トールマン」での誘拐は、
敢えて言うが「勝てる賭け」だと思う。
いや無理か、やっぱり。
ただの自己満足・・・か?
判らん。
アメリカ相手に自爆ゲリラ攻撃してるのと変わらない。
でもまだ物理的にも経済的にも戦争を続ける気満々の
お国柄が支配する世界でだよ?
何が出来る?
ただ、祈るのみ・・・か?
事実失踪した子供達が全員、
裕福な親の元で暮らしてますように・・・。
対象が全員貧乏な親から生まれた頭の良い子供達なら
少しづつでも良い世界に向かうと思う、だけである。
何がどう変われば「よいせかい」なのかも解らない。
子供本人達がそう考えるのではないかと、
貧乏な家庭に育ち、既に死んでもおかしくない大人が、
フィクションを観て感じている、だけである。
みんなが観る映画に描かれた極端な対処方法について
何を偉そうに述べても何も変わらないのは解っている。
「みんな正しくて、みんないい。」といった
アホなコトしか言えません。
夢の話をしてみただけです。
声に出せない不幸な夢で。
声に出すには、相当なカネとチカラが必要だ。
だから彼女の信念がカネとチカラに勝る必要があった。
そして実現するには犠牲も必要だった。
とにかくこの世界にはキツイ事しかない。
楽しい事なんて、映画の中にしかない。
最後、ジョデル・フェルランドが
全てを肯定して「私には三人の母がいる」と言う。
そして全てを経験した後で我々に向かって問う。
「大人である私」には何も答えられない。
ただ、
「親になれた私」と「子供だった私」なら
即答する。
結局いい大人が映画をナゾり直しただけの
レビューしか書けないのか。
タイトルなし(ネタバレ)
Netflixで鑑賞。いやービックリした。とんでもないストーリーだった。最初はXファイルやツインピークスを彷彿とさせるいい感じの雰囲気だったのに。最後の着地が想像と全然違う。感情移入の対象者がどんどん変わり、頭が混乱。ミスリードを狙いすぎ。貧困と家庭内暴力が蔓延する寂れた街のDQNから子供を拐って子供がいない金持ちに引き渡す。もっと良い方法はなかったのだろうか?女の子がスクリーン越しに観客を見つめてモラルを問いかけるラストシーンにグッときた。そうそう、2回目を観ながら気づいたのだが、登場人物の目を見れば誰が異常なのか、信念のない人間なのか直ぐ分かる。それにしてもロケーションが素晴らしかった。オープニングロールの空撮シーンは最高だった。
メッセージがひどい
ドキュン一家からは子供を奪い取って、金持ちに育ててもらった方がいいという主張はまったくもってひどすぎる。具体的に虐待があるならまだしも、そうでもないのにただ環境が劣悪だから奪っていいとは、あんまりだ。いくら映画の才能があっても、こんなひどい考え方の人はダメだと思う。残念な人だ。
人助けという名の正義
かつては鉱山で栄えた街も、その鉱山が閉鎖されて6年、失業、人口流出、貧困と寂れ続ける一方だった。そして、子どもがひとりまたひとりと忽然と姿を消すという更なる悲劇が街を襲う。人々は謎の誘拐犯を“トールマン”と呼び恐れていた。医師の夫亡き後、ひとりで診療所を切り盛りするジュリアもそんな街の状況を憂れるひとりだったが、ある晩、彼女の息子デビッドが姿を消す。
“トールマン”は本当に存在するのか?
子供たちはトールマンが誘拐したのか?
というミステリーなのだが、
“トールマン”の正体については二転三転。
真相は意外なものだったが、
ジュリア(やその“組織”)がやったことについては、手放しで賛成出来ない違和感が残る。
それは、子どもを救うにはまず大人たちの状況を変えるという視点が欠けているためだ。
子どもを誘拐するという極端な方法を取るまでには、それなりの逡巡があっただろうと想像は出来るが、それでもこれが本当に許されるのか?正義なのか?
子どもたちが置かれている厳しい状況についてもっと描写あれば、という指摘も出来るだろうが、そこを敢えてやらなかったというのは作り手の意図ではなかったか?
何が正しいのか?私達に考えさせる為に。
アーモンドグリコ
監督の前作「マーターズ」は、前半と後半で全く違う展開となる、一粒で二度おいしい映画でした。
本作も同様に、前半に被害者と思われた主人公が、後半に実は加害者だったという展開に少し驚いたのだが...
問題は、監督の言う前半が表層部で後半が深層部と言う、二層構造にしたかったんだろうけど、トールマンの正体と目的に共感が得られないこと!
本当に、毎年子供が1000人行方不明になっていることを問題提議する気なら、前半にもっと子供たちの劣悪な家庭環境を描写すべきだし、そうしないから、主人公やトールマンのセリフも全く心に響かない!
監督には、こんな社会派ミステリーもどきの作品撮らないで、「マーターズ」のような突き抜けた変態映画を撮ってほしいですね(笑)
おおきなお世話?
ポスターが超意味深でして、勝手にホラー作品かなと思ってました。
だってあのトラック、まるでジーパーズクリパーズじゃないですか。
でも正体を知ったら、なんか切ないです。
社会福祉団体が強気の一方的な正義感でつっぱしると、こんなふうに
なるんですかね。もう、大きなお世話じゃ、とも思うんですが。
でも確かにある意味、種明かしとしては、けっこうビックリの展開です。
j・ビールも強い女が定着してきましたね。骨格が太そうです。
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