炎上(1958)のレビュー・感想・評価
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淀川長治のキネ旬ベストワン選定理由を勝手に想像してしまい…
かつての鑑賞では、
原作三島由紀夫、監督市川崑にも関わらず、
あまり心に響く作品では無かったものの、
改めて確認してみたら、
キネマ旬報ベストテンで、
木下恵介の「楢山節考」
黒澤の「隠し砦の三悪人」
小津の「彼岸花」がワンツースリーの年に
第4位に選出という中、
淀川長治が上記3作品を第2〜4位に選定して
いる中、この作品を第1位に選定している
ことに興味を覚え再鑑賞してみた。
しかし、私の苦手な三島文学原作作品。
やはり、なかなか作品の中に入ることが
出来なかった。
小説の方の表現がどうだったのかも
既に覚えていないが、
この映画で気になったのが、
各登場人物のディフォルメ感。
特に仲代達矢扮する大学の同級生がその典型
なのだが、老師や母親らの人物描写にも
リアリティを感じられなかった。
信じるものに裏切られて国宝の寺を焼く設定
は分からなくもないが、
不自然に感じる登場人物に構成された結果、
現実味ある物語には感じられなかった。
画面そのものは、
見事な白黒映像美の作品だったが、
なにせ三島文学への理解の浅い身として、
小説の読後感と同じ鑑賞後感となって
しまった。
そんな低次元の私が何ですが、
淀川長治のキネ旬ベストワン選定は、
洋画の世界に慣れ親しんだ身の上からの、
あたかも外国人が
日本の観念世界への興味から邦画を評価する
ことと似た感覚があったのでは、
と勝手に想像してみてもみたのだが。
究極の美との心中
劇中では金閣ではなく「驟閣(しゅうかく)」と呼んでいました、原作・三島由紀夫の「金閣寺」ですが寺側の映画化への反発か三島の許諾が得られなかったかは定かではありませんが名称変更されていました。
1950年(昭和25年)7月2日未明に実際に起きた放火事件は同寺の修業僧である林 承賢(当時21歳)が犯人でやはり吃音だったそうだ。放火したのは、「金閣寺の美しさ」と「自分を取り巻く環境」への嫉妬や反感から犯行に及んだとされているそうだ。自殺未遂や実母の引責自殺、懲役7年の判決が下り収監中に結核と精神状態が悪化し釈放されてのちの1956年(昭和31年)3月7日、26歳で病死したそうで映画の護送中の列車からの飛び降りは原作とも史実とも、ちょっと異なる。
映画では浮気していた母や芸者に入れあげている住職、吃音を揶揄う連中、自己中で女たらしの友人など 誰も解ってくれないと嘆き苦しむ主人公、気持ちは分かるが放火の動機の方はあえて暈しているような気がしました。三島先生をさておいてで恐縮ですが、おじさんの印象では放火は主人公がこよなく愛した究極の美との無理心中だったような気がします。見どころは何といっても豪華出演陣の名演技でしょうね。モノクロのシネスコでしたが普通なら金色に輝く様をカラーで撮るでしょうが市川監督は赤い炎にメラメラと燃える様を取りたく無かったからだそうです、これまた凄い美意識ですね。
素晴らしい。原作がそもそも傑作であるが、このクオリティであれば映像...
カッコよさが一切ない雷蔵の魅力
仲代達矢こんな前から活躍してたとは
聞き慣れない言葉が出てきて、調べると現代では禁止用語とのことで時...
三島文学から独立した市川崑監督独自の映画美学がある傑作
三島由紀夫31歳の時の日本文学の名作と謂われる『金閣寺』を原作とする市川崑監督の文芸作品。有名小説の映画化では日本映画の中で特筆に値する評判は知っていたものの(淀川長治さんの1958年の日本映画ベストワン)、この年になって漸く鑑賞の機会を得ました。市川作品は、「ビルマの竪琴」(56年)「鍵」(59年)「おとうと」(60年)「私は二歳」(62年)「股旅」(73年)「犬神家の一族」(76年)「映画女優」(87年)しか観ておらず、それでも日本映画のなかで市川監督のモダン的で洗練された演出タッチは独特の個性を持っている印象を持ちました。特に「私は二歳」の垢ぬけた演出に驚き、「股旅」にも市川監督独自の粋な才気がありました。流石に晩年の「映画女優」には衰えを感じて低評価してしまいましたが、「ビルマの竪琴」は感動した日本映画の一本です。そして今回の三島文学の作品には、簡潔にして要点を押さえまとめた脚本に感心し、撮影、音楽も素晴しく、そしてキャスティグの適正さと役者の演技のバランスの良さに驚いてしまい、この時代の日本映画の本領を痛感した次第です。
三島由紀夫の原作は、研ぎ澄まされた文章の美しさとその表現力に圧倒されて、幾つか書き写すくらい心酔したほどですが、この映画には名匠宮川一夫の崇高な映像美があります。陰翳の濃いモノクロ映像と絵画のような構図の見事さは、「羅生門」「雨月物語」と比べて見劣りがしません。この日本的映像美と時にスタイリッシュな構図を組み込むカメラアングルの斬新さ。追憶シーンでは背景を切り替えるモンタージュのスマートさもいい。観念的な文学の映像化は表面的なものに陥りやすいのを、この宮川一夫の撮影と実力ある役者の演技で克服している市川監督の演出力により、映画作品として独立しています。
主演は日本映画全盛期の大スターの一人ながら早逝された市川雷蔵(1931~1969年)で、初めて現代劇に挑戦した作品といいます。これ迄観た作品は「新・平家物語」(56年)「好色一代男」(61年)「剣鬼」(65年)「陸軍中野学校」(66年)のみで、代表作「眠狂四郎」シリーズを知りません。どれも魅力的な演技を遺していると思われますが、今回の溝口吾市役は、「陸軍中野学校」の冷静沈着な演技に匹敵するものを感じました。スター俳優が進んでやるような役柄ではないものに挑戦したことに収まらない、人物表現として優れた演技です。この市川雷蔵演じる溝口と同じような境遇の戸刈役仲代達矢の演技にも感心しました。舞台で鍛えた芝居の技巧、足が不自由な難役を自然に見せる身体の動きと流れるような台詞の上手さが素晴らしい。これによって市川雷蔵演じる溝口と対比される人物表現が、設定以上の深さを増しています。このキャスティングの相乗効果の素晴らしさに加えて、老師役中村鴈治郎の安定感と貫禄の演技にも感銘を受けました。溝口に期待しながら修行として距離を置く老師の内面を見事に表現していると思います。溝口の母役北林谷栄も適役以上の上手さがありました。自分の不貞を知られても我が子の出世を期待し親のエゴを押し付ける複雑な役を巧みに演じています。父承道の浜村純、福司の信欣三、友人鶴川の舟木洋一、典座の大崎四郎と、どれも役に嵌っています。なかでも脇役が主で唯一「帝銀事件」(64年)が主演だった信欣三が個性的で渋く、地味ながら存在感がありました。女優では28歳の新珠三千代の品のある美しさ、五番町の遊女役の中村玉緒19歳の初々しさと可愛らしさが、共に好印象で作品内容に合っていました。兎に角、このようにキャスティングが的確で、役者の演技も高いレベルでまとまっていて非の打ち所がないのは、日本映画では珍しい。
原作が名作だと映画として不足があるものですが、これは市川映画として独自の世界観を構築した日本映画史に遺る傑作と言っていいと思います。宮川一夫の映像美と役者の演技を味わうべき映画でした。
〔金閣寺は50年前に一度だけ高校の修学旅行で観たことがあります。しかし、黄金に輝く美しさに見惚れた記憶がありません。印象としては、清水寺と二条城が古都京都らしいと思ったくらいで、会社員時代大阪に3年配属されていた頃(阪神淡路大震災のとき)も再び金閣寺を訪ねることはありませんでした。主人公溝口が絶対的美として思い込んだ、または思い込まされていたことに共鳴することはありません。この絶対的美として17歳の私が衝撃を受けたのが、唯一西芳寺(苔寺)でした。枯山水の古色蒼然とした静寂の佇まいに日本的な侘び寂びの美しさを感じて圧倒されたことが今でも想い出されます。放火される1950年以前の金閣寺には、再建されたものと違う美しさがあったと想像します]
執着、煩悩
昭和19年。溝口吾市は、父の遺言で驟閣寺に徒弟として住みこむことになる。吃音のため口数が少ない彼だったが、父の影響で驟閣に強い憧憬があった。しかし戦後、寺は観光地化、大学の友人戸苅の影響、住職への不信、と不穏な感情が募っていく。
原作である三島由紀夫の「金閣寺」は、だいぶ前に読みました。実際の事件を元にした小説は、創作が多いと思いますが犯人の心情をあまり理解できなかった記憶があります。しかし今作を鑑賞すると、とてもわかり易い。若かったから理解できなかったし、映像化で理解しやすい、と相乗の効果があったと思いました。
市川雷蔵と三島由紀夫は、これをきっかけに表現者としてお互いの理解が深まる。しかし二人は全く違った形で、若くして亡くなってしまう。一方、仲代達也は未だに活躍。
観て 読んで 観る
知っても分からなければ知らぬと一緒
謎
原作未読。
どこまでが事実なのかフィクションなのかわからない。
驟閣寺に惚れ込んだ地方の小さな寺の住職である父が、
亡くなる前に息子を僧侶にして欲しいと預けた。
寺の老師の計らいで古谷大学にも通わせてもらう。
息子吾市は驟閣寺に憧れ毎日のように拭き磨く。
寺も住まいも人手に渡った母が下働きにやって来る
そんな母を嫌悪する吾市。
学校をサボったり
不道徳な行いをする米兵&売春婦カップルの
女性を弾みで突き飛ばしケガさせたことを
老師に吾市本人から報告せずにいて、
後から突き上げられた老師は怒り心頭❗️
吾市は冷たい言葉を投げかけられる。
足の悪い戸苅に金を借り返さないからと
寺に乗り込まれ老師が肩代わりして、
吾市は次は追い出すぞと言われる。
映画では描かれていないが、寺でいじめられたのか?
父がいた頃にふしだらな行為をしていた母が
転がり込んで来てますますイライラしていたのだろうか?
表では立派なことを言いながら芸者を囲う
老師への腹いせか?
お嬢様に戸苅ともども、かたわ、かたわと
連呼されたからか?
驟閣寺に火をつけてしまった‼️
母は列車から飛び降り自殺。
吾市は自殺したのか服役したのか?
あの豪華絢爛な金閣寺にまつわる事件。
何が原因発端なのか、NHKのアナザーストーリーを
観てもわからない。
どこか頼りなげな市川雷蔵
コンプライアンスとハラスメント過敏時代の今では決して作られることのない貴重な映画。
戦後に焼け落ちた金閣寺と、無意味だった戦中の建物疎開の皮肉
金閣寺放火事件を題材にした小説の映画化。
三島文学の最高峰とも称される『金閣寺』。監督・市川崑、撮影・宮川一夫ら名匠によって映像化された本作も評価が高い。
事実に材を取りながら、三島の心象をうつしたかのような『金閣寺』はフィクションの要素も多く、映画化に際しては京都の仏教界からの反発は凄まじかったそう。
原作とタイトルが異なるのも、寺の名前が変更されているのもそのため。
ナイトシーンを多用した陰鬱な描写によって、驟閣寺の足許に蠢く人間の醜悪さや結末を予兆させる演出は見事。
眠狂四郎などの剣豪とは異なる役どころを演じた主役の市川雷蔵も素晴らしいが、共演陣も豪華。
欲望も内面の醜さも剥き出しにした、主人公とは対局的な人物・戸狩をのちの黒澤作品の常連、仲代達矢が怪演。
出番は少ないが、主人公の父を演じた浜村純も印象的。
戦時中、空襲による延焼を避けるため、京都では大規模な建物疎開が強行された。
京都の中心部で堀川通、御池通、五条通の道幅が例外的に広いのはその名残り。
実は、京都の市街地は現場投下の第一目標として温存されていたため、東京、大阪のような大空襲は実施されず、建物疎開はまったくの徒労に終わるという皮肉な結果に。
作品の序盤で建物疎開の様子をなすすべなく見つめる住民と思しき婦人の表情が痛ましい。
NHK-BSにて初視聴。
主人公の逃れられない運命を感じることしかできない
観ていて物語に没入して、市川雷蔵さんが主役だということをすっかり忘れてしまっていた。
それほどまで見事な演技だったと思います。考えてみればスゴいことです。
寺の老師役の中村鴈治郎さんの演技が良いですね。
若い仲代達矢さんが主人公の高校の同級生。身体が不自由でひねくれた男で、主人公をメフィストフェレス的に自然誘導する役回り。スゴい迫力の演技です。
そして、雷蔵さんとセットの中村玉緒さんが出てくる。今回は、チョンの間の売春婦役。
映画の中では金閣ではなくて「驟閣」という国宝の建造物が燃えます。
映画の構成もあって、主人公の逃れられない運命を感じることしかできない。
しかし、あれ、本当に市川雷蔵さんなのか。凄いな、と観終わっても思う。
これで雷蔵さんは演技を高く評価された、と言われるだけあります。
浪花節だよ~ん。
当該犯罪が第三者による偏見や差別から生じたと肯定している。正に浪花節になっている。また、女性の男に対する愛情表現も古い概念で語られ、軽薄な女性として描かれている。
悪い友人と偽善者の住職に挟まれ、自分を見失った障害者の犯罪としている。所謂、判官贔屓と言う概念で、
以後、こう言った映画が現在まで伝統の如く残っている。
忠臣蔵の『田舎侍!』と同じ。
『俺のする事は一つしかない、誰もそれを分かってくれない』と演出家は主人公に嘆かせる。しかし、この演出家自身が『分かっていない』と感じる。
アレ!?誰も『金閣寺』って言っていないね。でも、『金閣寺』だよね?
だから、『金閣寺』を知りたくば
やはり、原作を読もう!
この映画で三島文学を語るなかれ。原作には遠くおよばぬばかりか、伝統の古い概念に縛られた浪花節。
彼は自殺なんかしていない。原作でなくとも『生きようと思った』と語るハズだ。そうでなければ、新しく建て替えられた金閣寺は世界遺産になれる訳がない。
永山則夫
改めて、鑑賞してみて、わかったことがある。溝口吾一(市川雷蔵)は『分裂症』気味だと警察関係が判断した。
今流にいって、精神疾患であるが、それに、どもり(映画の中で使われている言葉、2021年では吃音症という言葉を選んで使ってる。)に子供の頃の悪環境により今で言う自閉症気味にもなっている。
例えば、胸を患っている父親である住職の寺の経営難。母親は親戚のおじさんとの不貞。醜態を見せまいとして、父親が溝口吾一の目を隠すシーン。どもりだから、からかわれたりいじめられたりするため疎外感。 彼のどもりを理解してくれたり、全く気にしていない、鶴川(舟木洋一)や老師(中村鴈治郎)のような存在が幼少の頃の彼にはいなかった。 だからと言って、堂々とどもっていても平気だ、どもっている人間と会話ができないのはできない相手に問題があるといえるようなカリヤ(仲代達矢)のような強い存在では彼はなかった。 大学になってこのような存在の人が現れたわけだが、鶴川には心を開けたけど、事故でなくなってしまった。カリヤは『全てが変わるから、生きているんだ』溝口とは真っ向から相容れないが。老師にも心を開くことができなかった。老師が芸妓を囲っていることを知る以前から、人に寄り添って、甘えるような心が溝口には定着していなかった。孤立感を背負っていて、心の中を見せられる人間との交流がないから、安定していて、戦争中でも変わらない美しさに執念を抱くようになる。また、驟閣の美に溺れる父親が息子、吾一に影響を与えた。はっきりいって、自分が立ち向かえない、蟠りのある現世から逃れ、、驟閣を理想郷として考えるようになったと思う。親子共々、孤立感から厭世主義になり、、驟閣を考えただけで、この世の汚いことを忘れると溝口は言っている。溝口本人も汚れてしまったことを自認していると思う。
あらすじは全く書く気がないが、ここで奇妙なことに気づかされた。 ご存知かと思うが、死刑囚の永山則夫(知らなかったら調べてほしい)だ。彼の子供の頃の家庭環境はすでに破壊されていたが、母親の里に引っ越した時、土地の方言が話せず虐められ、友達もできず、孤立化したと言う。これは戦中の話ではなく、20世紀、昭和時代のことだが。孤独で、いじめの中で、友達もできないし、精神的に患ってしまい、犯罪に手を染めてしまうとことまで似ていて、被ってしまった。永山則夫は獄中で手記を書き、自分の心の中を曝け出し、読者という理解者、共感者を集めたが、溝口は、驟閣の美について娼婦やカリヤに話しても、全く理解されなかったり、全く正反対の意見を言われ、共感できる相手を見つけられなかった。これは本人にとってくるしいことだと思う。 個人的にこのような経験をしているので良くわかる。 しかし、私にとってみると、驟閣の美についての形容が十分でなく、映画画面でそれを感じろと言われても無理があった。脚本をもっと、三島の金閣寺描写に近づけて欲しかった。
父親の夢の中に住んでいる溝口、ひとりぼっちで理解されない溝口。ここで、老師の役割は絶大だと思う。溝口は人に虐められるが、老師の嫌がることをして虐める。愛の受け方は知らなくて、逆手に取る例だ。老師の愛は大きい。自分が何をしているか知っているし、それが罪だと言うことも。だから、自分は相応しくないから寺を返すという。心の中の葛藤、醜悪を面に向き合い解決しようとしている。この映画を見ながら、老師と溝口はちょっと似ているので、共通性を考えてみたが、老師は寺を溝口に譲ることを諦めて、自分の問題点を論理的に解決をしようとする。溝口は自己中心の負の連鎖の渦にいるようだから、分裂症気味になり、ここから抜け出せなく、自分を冷静に見つめることができない。驟閣が炎上した時、老師は『仏の祟りや』と言うが、これは自分の罪のせいだと思っている。老師だけが最後まで溝口のために上告してくれた。そして、罪の懺悔の旅に出る。溝口はまだ負の連鎖の中にいる。 一般市民は駅で無責任なことを言い合う。
汚れた世界 美醜の苦悩 燃え上がる拠り所
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原作(三島由紀夫「金閣寺」)は未読です。
市川雷蔵の演技がすご過ぎました。眠狂四郎シリーズなどで見せるニヒルなカッコ良さは影を潜め、スターのオーラを完全に消し去って役に徹していた姿勢に感銘を受けました。
青年の孤独―。世界の汚らわしさを知り、唯一の心の拠り所であった驟閣までも金儲けの道具にされ絶望のどん底へ…。
流麗なカメラワークと映像美で青年の心の襞を演出。驟閣炎上のクライマックスは悲壮なれど、とても美しかったです。
美しいものを美しいままに留めておくためには自らの手で葬り去り、その姿を昇華させるしかなかった、と云うことか?
青年の辿った末路含め、心がざわつく作品でした。
全25件中、1~20件目を表示










