「市川雷蔵の魅力と三隈研次監督の矜持が独自の様式美を創作した大映時代劇の衝撃」斬る(1962) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
市川雷蔵の魅力と三隈研次監督の矜持が独自の様式美を創作した大映時代劇の衝撃
市川雷蔵主演、三隈研次監督の大映時代劇『剣』三部作の第一作目にあたる力作で、独特の様式美を極めた芸術性も兼ねた娯楽時代劇の逸品でした。三隈作品では唯一第三作の「剣鬼」(65年)が好印象にあるものの、約50年前となっては今作と比較できるほどの記憶がありません。2年前偶然めぐり合えた中村錦之助主演、沢島忠監督の『殿さま弥次喜多』シリーズ3作の東映時代劇の娯楽に徹した楽天的なコメディ時代劇の面白さを満喫したのに対して、この大映時代劇のシリアスな醍醐味にも感銘を受けることになりました。これは勿論「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」の黒澤明東宝時代劇とも映画作りのコンセプトから制作費含めた裏事情、そして興行面の目的と目標も違っています。1971年に大映が倒産したことは、すなわち日本映画斜陽の象徴的な出来事であったし、1950年代から1960年代前半までが各映画会社の時代劇スターが群雄割拠した日本映画黄金期でした。黒澤明監督のように年に一本の作品を仕上げるのとは違って、東映の沢島忠監督も大映の三隈研次監督も、年に数本を掛け持ちしてプログラムピクチャーを量産しています。大スター主演の新作映画を監督始め映画会社スタッフが持ち回りで対応するハードスケジュールの活気と勢いの時代でした。
この様な時間と資本に制限があっても、この三隈研次監督の演出には独自のこだわりがあって、50年前に観た「剣鬼」同様に魅せられました。早撮りの名人と言われる沢島忠監督の軽快で小気味よい演出タッチとは好対照の、斬新で様式美を備えたカメラワークの独自性が魅力です。主演市川雷蔵の個性に合った落ち着きと集中度の高い殺陣の緩急の演出に隙がありません。上映時間71分に収めた簡潔さ、展開の流れの速さも映画的な表現に昇華されています。それに加えて、今作では母役藤村志保と父役天知茂の俳優としての色気を滲ませていて見事でした。
原作が「剣鬼」の時代小説家柴田錬三郎の『梅一枝』で、脚色が新藤兼人の組み合わせは異色です。音楽は、溝口、小津、成瀬の巨匠とも組んだ斎藤一郎。撮影本多省三は、戦前日活京都で宮川一夫のチーフ助手を務め、戦後は大映黄金期を支えたカメラマンで、この作品が代表作の1つに挙げられるようです。暗い襖の左側から山口藤子役藤村志保の顔がアップで現れ正面を向くもまた暗転するファーストカットからの衝撃的な導入部が素晴らしい。飯田藩江戸屋敷の一室で眠る飯田候の妾若山に口上を述べ、藤子が短刀を抜き出して襲うカットにタイトル「斬る」が被さり、女性二人が揉み合いながら枯山水の庭で仕留めるまでがタイトルバック。正面を向いた藤村志保の険しさと役目を終えた安堵の混じる興奮した表情のカットが暗転し監督三隈研次のタイトルが現れます。すると黒い門が開き野外の処刑シーンになる斬新さ。介錯人多田草司と見つめ合う藤子が微笑む謎を残して、霞む太陽を背景に振り下ろす刀のカット。これに続くカットが、夜に籠を走らせる松明の炎のアップ。暗い山道を急ぐ籠の一行を俯瞰で捉えたカットが素晴らしい。画面真ん中に黒い木がある構図は、あたかも国境を越えて来た火急の緊張感に包まれて、闇に聴こえる赤子の泣き声が籠と共に小諸藩に導かれる。天保三年(1833年)三月の字幕で、江戸幕府末期の時代設定が分かります。ここまで約5分の凝縮された導入部の見事さには、目を見張るものがあります。主人公高倉信吾の出自の謎を残したままで本編のストーリーが始まり、一気に二十歳を過ぎた市川雷蔵が登場する語りの巧さ。脚本、演出、撮影が映画として充分練られた成果です。この信吾の悲しい運命の星の出自に絡み義父高倉信右衛門親子が池辺親子に殺される展開は分かるとして、死に際に全てを打ち明けるシーンは説明的過ぎます。ただフラッシュバックで母藤子の台詞を入れているところがいい。“皆様、決して乱心ではござりませぬぞ” 飯田藩の危機を憂えた城代家老の命を受けた武士の娘の覚悟があります。藤村志保唯一の台詞の場面でした。池辺親子を追い掛け、焦土化した山で仇討ちするシーンの舞台設定の異色さも、主人公高倉信吾の暗い運命を漂わせて出色の演出です。その後脱藩し実の父親に会いに行くシーンもまた素晴らしい。ともに31歳の市川雷蔵と天知茂が親子役をする大胆なキャスティングにも関わらず、雷蔵の若々しさと天知茂の生気を失ったような深みのある演技で年の差に説得力を持たせています。映画スターの天知茂を知らず、テレビドラマの「非情のライセンス」のイメージしかないものには驚きの演技力でした。藤村志保と駆け落ちした若夫婦が囲炉裏で抱き寄せ合うシーンが絵になっています。
物語後半は、先ず亡き父を陥れた奉行らを暗殺し恨みを晴らして逃げる甲府藩の田所姉弟に遭遇した場面の壮絶な自己犠牲のシーン。信吾に託されても、死を恐れず血気盛んな弟主水を逃がすために追手の侍たちに挑む姉佐代の身体を張った最期の姿にインパクトがあります。演じる万里昌代の見事な熱演が光るシーンのエロチシズムには、大映以外の時代劇では表現できない危うさと大胆さの両方を感じました。物語上は、母藤子の死を連想させる佐代の最期であり、この白い柔肌に流れる一筋の赤い血のイメージが、映画ラストの信吾の運命を再びイメージさせます。武士として生まれ生きる人間の矜持、それは男性に限らず性差を越えて武家社会の人間模様として描かれています。姉の願いを優先し武士としての役目を放棄した田所主水とは最終章の水戸藩で再会する脚本の巧みさもあり、心情的にも信吾と対立する重層的な伏線にもなっていました。文久元年(1861年)の東善寺事件の顛末から発想されたラストは、松平大炊頭(おおいのかみ)が大目付として水戸藩に介入し、尊王攘夷運動の激しさから謀略にあう展開です。大炊頭に仕える信吾が用心棒を兼ねて付き添いますが、以前小諸藩の道場で手合わせをした庄司嘉兵衛と河原で対決するシーンは、ナンセンスギャグ漫画タッチで驚きました。シリアスな時代劇に突然と加えられたサービスショットの趣です。嘉兵衛の身体が縦に真っ二つになり紙のように倒れていくショットは予想不可能でしょう。田所主水と丸腰で対峙するシーンでは梅の木で立ち向かい仕留める邪剣の見せ場のクライマックスでした。最後屋敷の部屋を探しあぐねるシーンを強調する演出とカメラワークの工夫も良いと思いました。そして主君を守り切れなかった責任から自害するという侍の最期を劇的に演出しています。
一か月に1本の量産体制の過酷なスケジュールの中で創作されていた時代劇映画黄金期の一本。時間も予算ももっと潤沢に掛けられていたなら、もっと優れた作品になっていたと思います。それでもこの三隈研次監督の演出の素晴らしさは、もっと評価されて良いと思います。娯楽映画に徹しながら、映画への情熱とこだわりを様式美として高めた三隈監督の矜持を強く感じました。