「昭和後期という時代の精神的地層を色濃く映し出す文化的事件」まことちゃん Chantal de Cinéphileさんの映画レビュー(感想・評価)
昭和後期という時代の精神的地層を色濃く映し出す文化的事件
映画『まことちゃん』を評するにあたり、まず念頭に置かねばならぬのは、この作品が単なる児童向けアニメーションの範疇を軽々と逸脱し、昭和後期という時代の精神的地層そのものを色濃く映し出す文化的事件であった、という事実である。楳図かずおがギャグ漫画という軽佻浮薄の器を借りつつも、そこに注ぎ込んだ不条理と猥雑、そして異様なまでのエネルギーは、当時の大衆文化において比肩するものがない。映画版はその奔放さを一切希釈することなく、むしろスクリーンという巨大なキャンバスに拡張し、鑑賞者を“笑い”と“嫌悪感”の微妙な狭間に放り込むことに成功している。
芝山努の演出は、テレビシリーズ的断片性の批判を免れ得ないものの、むしろその断片性こそが、本作の内包するカオスを純粋に顕現させる装置として機能している。色彩設計の異様なビビッドさは、楳図かずおの原作が持つグロテスクな生命力を巧みに可視化し、観る者を「滑稽さ」と「狂気」の境界線へと導く。つまり、まことちゃんが垂れ流す鼻水ひと筋にすら、戦後日本の抑圧された欲望と解放への衝動が凝縮されているのだ。
ここにあるのは決して単なる不良幼児のドタバタ劇ではない。むしろそれは、社会規範という名の薄氷を踏み破り、笑いの名を借りて人間の根源的な卑小さと滑稽さを照射する“寓話”である。『まことちゃん』は下品であり、乱暴であり、同時に救済である。この相反を矛盾としてではなく、むしろ美学として提示しえた点において、本作は稀有な映画的成果を成し遂げていると言えよう。
要するに『まことちゃん』とは、芸術と俗悪、笑いと嫌悪、アニメーションと生のリアリティ、そのすべてを同時に飲み込む「昭和ギャグ文化の総体」なのである。真にこの映画を理解するとは、その鼻水まみれのイメージに、同時代を生きた我々の滑稽で哀切な肖像を見出すことである。
――これほど“下品で崇高”な映画が、他にあっただろうか。
