ヒマラヤに挑戦して
解説
一九三二年にドイツ人ヴィリー・メルクル一行がナンガ・パルバットの試登攀を行ったが、更に一九三四年に第二回の登攀を敢行した。即ち十一名の登攀斑と、三名の研究斑、サングスア、フライヤの二運搬士官によるものがそれで、四月末より七月十八日に至るまでの登攀は、遂に頂上四百メートルの位置に於いて挫折し、メルクル、ヴィーラント、ウィリー・ヴェルツェンバッハの三名、ポーター六名の犠牲者を出した。本映画は、この当時の記録映画で、撮影にはフリッツ・ベッヒトルトが当たったものである。
1938年製作/ドイツ
原題または英題:Nanga Parbat
ストーリー
アジアの一角に未だ人類によって征服されないヒマラヤが聳えている。土地の人々はこれを「雲の家敷」と呼んでいるが、ナンガ・パルバットが即ちそれである。ドイツの登山家達がこの征服を計画し、土地の生まれながらの登山家として有名な「ヒマラヤの虎」を伴い、六百名のキャラヴァンがカシュミルの首府スリナンダールから出発した。彼等は先ずラキオット氷河の端にベースキャムプ(三九〇〇メートル)を設け、第二第三と進んで、やがては第四キャムプ(五九五〇メートル)を設けた。この間に一行中のドレキセルが急性肺炎で病死した。だが、一行はひるまず、前登山者(一九三二年)のベースキャムプの跡を発見し、彼等の犠牲の十字架を目撃し、更に苦闘を続けて行った。第七キャムプに至ると、もう四辺は一面の雲海で、ナンガ・パルバットだけが其の上に突き出ていた。七一〇〇メートルのジルバーザッテルへの途中、病気になった作業員二人とベッヒトルトが下山した。残りのメルクル、ウィリー・ヴェルツェンバッハ、ヴィーラント、アッシェンブレンナー、エルウィン・シュナイダー及び十一名の作業員は第八キャムプに向かった。一時間二百メートルの割合で、七九〇〇メートルにまで達したが、主峯との間に高さ二四〇メートルの屋根が横たわって居り、残念ながら明日を期して、彼等は再び第八キャムプ(七六〇〇メートル)に引き返した。だが、翌朝になると天候は一変し、物凄い吹雪となり、呼吸困難の中に二日間は経った。天候回復の望みがなく、頂上への前進は出来ぬので一行は第四キャムプに降りて再挙を期することにした。アッシェンブレンナー、エルウィン・シュナイダーの二人は作業員三人ともに人も飛び去るばかりの強風の中を先発した。吹雪で十メートル先も見えない。彼等が第四キャムプに達した頃には、後発の人々を全く見失っていた。だが、彼等へは救助の手を延べるにも術がない。漸く降りて来た作業員のアンツェリンの話で、一行が雪盲になりジルベルザッテルで止まっていることが判明した。彼は第七キャムプの近くでヴィーラントの死骸を発見し、更にメルクルとウィリー・ヴェルツェンバッハに会い下降を進めたが二人は歩行困難で停止を主張し、遂にウィリー・ヴェルツェンバッハは死に、メルクルは降りようにも二三歩しか歩めなかったことが知れた。数日経過してリッヂの上から救いの呼び声が聞こえたが人の姿は見えなかった。生き残った人々は必死の救援を続けたが腰を没する新雪で第五キャムプにも達し得なかった。かくて人々は止むなく再度の挑戦を期して第四キャムプを棄てて引き上げることになった。
スタッフ・キャスト
- 撮影
- フリッツ・ベッヒトルト
- 音楽監督
- ジュゼッペ・ベッチェ
- 音楽
- Bernd Scholz
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Untersuchung's GruppeRichard Finsterwalder
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Untersuchung's GruppeWalter Paechl
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Untersuchung's GruppePeter Misch
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Expedition's Gruppeヴィリー・メルクル
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Expedition's Gruppeペーター・アッシェンブレンナー
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Expedition's GruppePeter Mullritter
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Expedition's Gruppeウィリー・ヴェルツェンバッハ
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Expedition's GruppeHans Hieronimus
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Expedition's Gruppeエルウィン・シュナイダー
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Expedition's GruppeWilli Bernard
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Expedition's Gruppeアルフレッド・ドレキセル
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Expedition's Gruppeヴィーランド