「10人の浮気者たちが円環を成す愛のロンド。小粋で瀟洒な「虚構美」の極みのような愉しい作品。」輪舞(1950) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
10人の浮気者たちが円環を成す愛のロンド。小粋で瀟洒な「虚構美」の極みのような愉しい作品。
本作を『肉体の冠』と続きでプログラムに置いたシネマヴェーラの担当者、天才か!!
『肉体の冠』で悲恋に引き裂かれたはずのシモーヌ・シニョレとセルジュ・レジアニのふたりが、『輪舞』の初っ端から、またもカップル役で出てきて(シニョレはまたも娼婦w)、橋の下でしれっとセックスして、今度はあとくされなく爽やかに別れてゆく。
なんだか、同じ食材を用いた後味の良いドルチェみたいな。
あるいは、重苦しいシリアス・ドラマのあと流れる、楽しいNG集のような。
前の映画とひっくるめて、すばらしい導入になってるじゃないか。
しかも、狂言回し役のアントン・ウォルブルックも、さっき出てたギャングのボス、クロード・ドーファンとなんとなく雰囲気似てるし(笑)。
とまあ、そんな映画館主のたくらみは別にしても、単品でも実に楽しく洒脱な映画だった。
しょうじき、大昔観たロジェ・ヴァディムのリメイク版より、よほど品がいいし、センス的にも優れているのではないか。
とにかく、「虚構美」の映画。
その一言につきる。
作り物であることの「お遊び」を、1950年の時点で、すでにきわめている。
なんて小粋な。なんて瀟洒な。
出演者は、全員がこれが作り話の映画にすぎないことに自覚的で、カメラがぐるっと回ればスタジオの機材やスタッフが映り込むし、作中のキャラがカメラ目線で「演技者」として「観客」に話しかけてくる。
とくに、狂言回しのおじさんは、カメラの回っているなかで衣装チェンジするわ、毎回別人の役で登場するわのやりたい放題。そして、やたら胸に残る名言を残しながら、モーリス・シュヴァリエのように味のある歌を歌いまくる。なんて、魅力的な老人だろう!
このアッバス・キアロスタミやアレハンドロ・ホドロフスキーみたいな、映画の虚構性への自覚的なアプローチを、とことん「楽しい内輪うけ」として、ちょうど演劇における客いじりのように用いて距離感を縮めてくるのが、マックス・オフュルスの至芸というわけだ。
作り手側から、これが「虚構」であることを積極的にバラしていくことで、映画内のキャラクターと劇場の観客の垣根を取り払い、両者を直接結びつけ、ある種の「共犯性」を打ち立てる。
気安くたわいのない男女の艶笑譚を、心置きなく観客に愉しんでもらうための、気の利いた仕掛け。
ふつうならあり得ないような、10人の男女による恋愛遊戯の「輪舞(ロンド)」を、客に自然なかたちで受け入れさせるためのギミック。
ほんとうに、よくできた映画だ。
なにせ、この狂言回しは、ただの狂言回しではない。
『輪舞』は、非現実的な「浮気10連ガチャ」を実現させるために、狂言回しが物語の「外」から介入し、「意図とたくらみをもって」それを成立させていくという、かなり「力業」の物語なのだ。
彼は、狂言回しといいながらも、実際の役割としては、観客と結託して面白い話を紡ぎだそうとする「物語の語り部/創作者」でもあるわけだ。
これを「虚構美」といわずして、なんと呼ぼうか。
娼婦と兵隊さん。
兵隊さんと女中。
女中と雇い主の若者。
若者と人妻。
人妻とその夫の資産家。
資産家と若い女。
若い女と詩人。
詩人と女優。
女優と若き伯爵。
そして、伯爵と娼婦。
男女の睦事は、輪舞のように相手を受け渡しながら、大きな円環を描く。
そこに投下される、当時の大スターたち。
出ている大御所のみなさんは、じつに楽し気だ。この虚構世界を、含み笑いで満喫している。
性の営みがおおらかに許容され、浮気や二股が、当たり前のこととして受け入れられる、インモラルではあってもちっとも卑猥じゃない、「大人のたしなみ」の夢想世界。
おお、なんだかルネッサンスな感じじゃないですか。
パゾリーニの『カンタベリー物語』や『デカメロン』から、下品さと猥雑さをぬぐいさって、夜会服を着せてかぐわしい香水をふりかけたような。
しかも、そこには「真実の愛」とは程遠い営みを続ける人々の、ある種の哀しみやペーソスをも、フレイバーとして加味されている。
カメラワークも、徹底して技巧的で、全編にわたって遊びとギミックに満ちている。
輪舞の「円環」を意識したパン・ショットと、特異な視点からのトリッキーなショット、上下移動を追う仰ぎ見るショットなど、観ていて本当に飽きない。
それぞれのエピソードのなかでは、個人的には、ダニエル・ダリューとフェルナン・グラヴェの金持ち浮気者夫婦が繰り広げるベッドでの語らいが、カメラの位置どりも含めて、一番気が利いていたのでは。
ふと気づいたのだが、新年が開けてからシネマヴェーラで観た映画は、『高原の情熱』(舞踏会)も、『肉体の冠』(ダンスシーン)も、『輪舞』も、「踊り」がカギになる作品だった。
たんなるシンクロニシティってより、要するに「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」のフランスにおいては、複数の男女の恋模様を描くとき、もっとも象徴的にとりあげやすいのが、ロンドやカドリーユのような、「相手を替えながら踊る」その様子だった、と考えるべきなんだろうね。