逮捕命令のレビュー・感想・評価
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開けた窓から漂う予感
街の子供たちは爆竹を鳴らして遊んでいる。馬に乗った男たちは画面の左から現れる。子供たちは大人の登場にビビって画面の奥に逃げていく(男たちは画面手前からフレームイン)。この冒頭3カットから全ては始まる。
西部劇はすでに物語がフォーマット化されているジャンルである。特集のタイトルが「超西部劇」だとしても基本的には変わらない。さらにここにメロドラマの要素が絡んでくると、序盤の語りによる人物紹介である程度結末(誰が死んで誰と誰が結ばれるか)は分かってしまう。ウォルシュとかはこの辺りの出会いの瞬間をショットで決定的なものにしている。つまり、ジャンルものと向き合うときに必要なのは何を語るかよりもどうショットで語るか、とも言えるだろうか。物語をショット内の運動で規則として立ち上げ、そのルールから逸れたりしなかったりしながら、言外で語っていく。ある映画作家を凡人か有望かを見極めるには如何に語っているかを見ることが必要になってくる。
本作の監督、アランドワンは画面のX軸の運動を一貫して規則付ける。馬に乗った男たちの登場や逃げる男の疾走を横移動のロングカットで遂行している。右から左、左から右に対象が動くことでアクションとして映画にリズムを生み出す。
その一方で、物語が新たなフェーズに移行するとき、そのときには対象はY軸の運動をする。逃げる子供のように手前から奥である。馬車の積荷部に隠れて追っ手から離れていく際にも馬車は奥に入っていく。カメラはそのから動かず、小さくなっていく対象を見届ける。カットを割って、馬車が疾走するスペクタクルには興味がないのだ。
そしてこのY軸は終盤の教会での配置に結実する。わざわざ手前と奥に男を配置し、彼らの間に鐘が君臨する。奥の男は発砲して追い詰めた相手を殺害しようとするが、手前の男は鐘を思い切り押して銃弾を跳ね返してしまう。結局は悪役が死する運命なのだが、この鐘の動きが正に手前から奥、その反復に他ならない。最後自ら放った銃弾を浴び、男は垂直に落下してX Y軸の攻防に終止符を打つ。
このような作品のルールがあることで我々は見方を身体化させる。
室内から窓の外が映るショットも多々ある。それだけなら普通のことだが、この作品のそれでは常に入り口のドアが開いている。これは何を意味するのか。予感である。Y軸が開放され続けることで、何か決定的なことがこのショットで起こるかもしれないと思わずにはいられなくなる。実際に起こるか起こらないかはどちらでも良くて、観客にそう思わせることが、見ることを能動化させる面において非常に重要なことなのだ。
アランドワンはこれを嫌味なくさらっとやってのける。
正直物語の内容はあまり思えていない。しかし、彼のフレーミングや配置を思い返すことでどう語ろうかとしたかは簡単に思い出せる。これってとてもすごいことなんじゃないか…??
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