楽聖ショパン

劇場公開日:1949年7月

解説

ショパン伝の色彩映画で「別れの曲」のエルンスト・マリシュカの原作を、「幽霊ニューヨークを歩く」のシドニー・バックマンが脚色し、「再会(1944)」「生きてる死骸」のチャールズ・ヴィダーが監督に当たり、「ゾラの生涯」「恐ろしき結婚」のトニー・ゴーディオと「西部魂(1941)」のアレン・M・デーヴィと共同して撮影を監督した1944年作品である。主演は「ゾラの生涯」「科学者の道」のポール・ムニ「誤解」「謎の下宿人」のマール・オベロン「氷上の花」のコーネル・ワイルドで、「ラインの監視」のジョージ・コーロリス、新人のニーナ・フォック及びスティーブン・ベカッシー「春の序曲」のシグ・アーノ其他が助演している。音楽はショパンの曲を「二重生活」のミクロス・ローザが編曲した。

1945年製作/アメリカ
原題または英題:A Song to Remember
劇場公開日:1949年7月

あらすじ

フレデリック・ショパンが10歳の時音楽の先生ジョゼラ・エルスナーは天才少年のために進むべき1つの道を、ショパンの父に申し出た。1つはパリへ行って演奏会を聞くこと、1つは祖国ポーランドのために大音楽を作曲することであった。第1の思いつきは貧乏のために果たすことが出来ず、月日は流れて、ショパンが22歳の時、ポーランドは革命騒ぎで、彼はエルスナー教授と共に、動乱の祖国を去ってパリへ赴いた。パリに着くとエルスナーは愛弟子を当時有名な音楽興行師プレイエルのもとへ伴った。2人が追い帰されようとした時、フランツ・リストが何気なくショパンの曲をピアノで弾き始めた。ショパンもやがてピアノを弾き、二重奏となった。天才は天才を知り、2人の友情の絆は結ばれ、プレイエルはショパンのために独奏会を開く準備を始めた。そのリサイタルの日、彼の親友たる革命の志12人が捕縛され、1人が死んだという知らせを受けた。深く心を動かされたショパンは演奏中ばに卒然と席を去った。批評家はこぞって悪ばしたが、ジョルジュ・サンドのみはショパンこそ百年間に1人しか現れない天才であると激賞した。その後リストの援助を得て、ジョルジュ・サンドはショパン独奏会を大々的に催して、たちまちショパンをパリ社交界の花形とした。彼はジョルジュ・サンドに心を奪われ、恩師エルスナーの言葉を退け、彼女と共にマジョルカへ赴いた。そこで彼女との愛の悦楽に酔ったショパンは軽快な音楽のみを作曲し、その楽譜は飛ぶような売れゆきだった。しかし傑作は1曲も書かれなかった。パリに残されたエルスナーは貧困極まっていたが、なお愛弟子ショパンのかっての愛人コンスタンチアも亡命ポーランド人と共に来ていた。ショパン独奏会の一夜、エルスナーは祖国ポーランド自由への戦のことを愛弟子に思い起こさせた。師弟の愛情はよみがえり、ショパンはジョルジュ・サンドと別れ、ポーランド解放運動の資金獲得のために、エルスナーと共に演奏旅行に赴いた。しかしその時はショパンの健康はすでにむしばまれていた。演奏なかばに倒れたショパンは多くの友人達に看看られながら永眠した。ただ1人ジョルジュ・サンドのみは姿を現さなかった。フレデリック・ショパンは恋に破れが、数曲のポロネーズをはじめ幾多の名曲を書いたショパンは愛国の音楽家として、世紀の大作曲家としてその名を千載に残したのである。

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映画レビュー

4.5 「ポロネーズ」「ポーランドの魂!」「名曲だ」 by フランツ・リスト

2025年11月23日
Androidアプリから投稿

1944〜45年の作。アメリカ、コロンビア映画社 カラー、英語作品。
原題「別れの歌」。

ロマノフ帝政下で、喘ぐ祖国ポーランドを魂の拠り所として生き、
しかし異国でついえた寄留の他国人ショパンの、翻弄の人生を辿るストーリー。

それはじきに、ソビエトによる、それまでに輪をかけた東欧諸國への新たな圧政と、そして冷戦の前夜という、― そのような時期にこの映画は作られているわけで。
このあたりの世情も重ねて、本作の製作者たちの「演出」や「脚本の意図」も感じてみたい映画だ。
アカデミー賞 6部門ノミネート。

「為政者が民衆同士を仲違いさせているのだ」と国家の企みを暴き、また女性への差別抑圧に対する厳しい怒りも、役者たちの口を通して語らせるジェンダー告発。
・・日本がニューギニアやミッドウェーで飢餓戦線を戦っていた頃、アメリカではこのような「海外のピアニストの伝記映画」が作られて、国民がそれを愛でていた訳ですね。
自由と難民と、芸術と人権意識への、民衆の開眼も促されていた。
嘆息です。

・・

【プレリュードとして】
フレデリック・ショパンは、彼は出国後は二度とふるさとポーランドに帰ることは出来なかった。
この彼を「民族自決のパルチザン」として、また強き思いの「愛国者」として、明確なるスポットライトを照射した特異な伝記映画だった。

◆ロシアから来た総督の着任晩餐会での“爆弾発言”と、ピアノ演奏の拒否(ボイコット。
◆祖国の土を一握掴んで逃げるショパンの船出。
◆逃亡を手助けした仲間は二人殺されてしまう。婚約者コンスタンチアの無事やいかに?!
・・このように映画は冒頭から実にスリリングにスタートする。

【序・『破』・急】
パリにて「故郷ポーランドのために音楽を書きたいのだ」と痛切に願う純情なる青年。
しかしパトロンとなったジョルジュ・サンドがあまりにも誘惑的で、ショパンの耳元で囁くのだ ―
「政治を離れて曲を書きなさいよ、ボク♡」と。

ポリティカルなポロネーズが嫌いなジョルジュ・サンド。彼女は愛のノクターンだけを求める女だったのだ。
「故国ポーランドとロシアの敵対構図」が、ここでは「フランス対ポーランドの男女の軋轢」に変わる。
さぁどうするフレデリック?葛藤だ。

そして男と女はパリ〜ノアン〜マヨルカ島へ・・という筋書き。

・・

で、【豆知識】ではあるが、
本作はアメリカ映画ゆえ、台詞が英語となるのは仕方ないのではあるが、当時「ポーランド人のショパンが何故に旅先のパリで会話に困らなかったか」という疑問。
実はあの頃、全ヨーロッパでにおいては各国ともルイ家と縁戚関係を結ぶ事などもあり、「フランス語」が貴族・上流階級の日常の会話用語であった。
(ロシア・ロマノフ朝においても土着のロシア語は はしたない野卑な言葉の扱いだったのだ。日本の迎賓館の正式メニューはフランス料理であるし、そして皇族の洋装がフランス式なのもその当時からの流れ)。

ゆえに、ポーランド人のショパンしかり、ハンガリーのリストも、そしてロシア本国出身のチャイコフスキーもしかり。彼ら文化人たちはフランス語の会話には困らずに自在に欧州を旅行出来たわけです。

・・

配役として、お調子者のドイツ人=エルスナー教授がいい役回りです。アメリカ映画らしく物語を軽快に進めてくれます。楽しめました。

そして映画の場面はパリへ。
ピアノのショールームにおける前途洋々の若者ショパンと盟友フランツ・リストのあの出会い。
連弾しながらの喜びの握手。フレッシュな若者同士の快哉のシーンだった。あそこ、まことにワクワクではないか♪

劇中で使用された楽器はすべてパリの「プレイエル商会」のもの。ショパンがその最期まで気に入って使い続けたプレイエルピアノのラインナップでした。

フレデリック・ショパン、享年39歳。

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【ポストリュードとして・・】
お時間のある方は
◆リストがショパンのために書いてくれたピアノの小品=ショパンの死に際しての、“哀しみの極み”を五線譜に記したリスト「コンソレーション3番」。これを動画で聴いてみてもらいたい。
ハンガリーから来た時代の寵児=金髪のリストと、ポーランドの魂にして亡命者=黒髪のショパンの、その後も続いたリスペクトの関係には胸が締め付けられるはずだ。
⇒YouTube [ リスト、コンソレーション3番。フジコ・ヘミング ] でどうぞ。

◆そして
ショパンの「遺作」(ノクターン作品20番)は、同じく亡命ロシア人ウラジミール・アシュケナージの動画が、ショパンの肖像・写真付きでとても良い。オススメ。

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きりん

4.5 ショパンの名曲が素晴らしい

2025年9月29日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

知的

癒される

史実の正確さはともかくショパンの人生を簡略に綴った映画で、流れるショパンの名曲が素晴らしいので、2時間近い映画ですが十分に楽しめました
こんな映画がアメリカで、1945年に作られていたことに驚きです

映画は兵庫県映画センターの主催で、兵庫県立美術館1Fのミュージアムホールで行われ、800円で見る事が出来ました
会場は、段差が高いのでとても観やすく、驚きました

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jazz須磨

3.0 感動作

2023年8月5日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

泣ける

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odeoonza

3.5 創作も多いらしく、ショパンとサンドの関係性の真実に、興味を覚えた。

2023年3月25日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD
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Kazu Ann