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怪物団 フリークスのレビュー・感想・評価
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古いが名作?
様々な障害をもった人がでてくる
悪い女が遺産目当てに小人の金持ちを騙そうとする話
題材は地味なんだけど、もう障害者達のキャラクターがすごくてなんだかんだ食いついて見てしまう
なにより音楽とかのレトロな感じもよくて飽きずに見れてしまった、ただ話自体はありがちで特筆すべきものはないかな?
オチはなかなかすっきり爽快ですけど
奇人、巨人、小人の恋物語‼
『フリークス』は、おそらく歴史に残る「カルト映画の始祖」だろう。
古い映画らしく演出は稚拙だが、小人症、両性具有、シャム双生児など、登場人物が刺激的で、ストーリーを気にする暇もないほどである。
このように、片輪や生来の身体障害者を昆虫のように撮影しながら、その中で奇形者への深い愛情を感じることができる。
この映画の出来は傑作の域に達しているだろう。
しかし、この映画は、狂気の挑戦としか言いようのない、類例の少ない、妙に痛快でスリリングな映画なのである。
これこそが映画だ
こんなにも分かりやすく
そして純粋なメッセージが込められた映画
だけど今だと
倫理的に厳しいのか??
泣いてしまうほど
あまりにも酷い物語
その先には復讐が待つ
ストーリーとしてもおもしろい。
ほんとに心底
胸が締め付けられた
映画ってこういう事だよなあ
注意! シネマヴェーラでのフィルム上映(2021)はラストの●●女シーンがカットされた規制版です!
シネマヴェーラで『フリークス』が、それもフィルム上映でかかるというので、行ってきた。
旧盤のDVDを観たのもずいぶん昔で、いろいろと忘れている部分も多い。
そう思って楽しみに足を運んだのだが……。
なんか、これ尻切れトンボなんですけど??
ラストで馬車の下から「彼らが迫ってくるシーン」でぶつっと終わって、唐突に1秒くらいラストクレジットが出て上映が終わっちゃった。
あれ、こんな話だっけ???
最後の、ハンスとフリーダが再会するシーンは、カットしたバージョンも存在することは知っていたから、そこはなくても仕方ない。
でも、ショートバージョンでも終わり方は、そこではないはずだ。
俺の記憶では、冒頭のシーンで隠されていた「見世物」の正体が明らかになって終わるはず。
これ、あきらかに最後の最後、途中できわめて乱暴に切ってあるよね?
これだと、冒頭のシーンにつながらないから、なんのことだか本当にわからないじゃん。
かなり古いタイプの字幕が焼いてあったから、ずいぶん古いフィルムであることはわかる。
台詞を字幕で追えていない部分もある、今から見ればまあまあ杜撰な仕事だ。
フィルムの状態自体も、DVD版に比べても圧倒的に悪い。見づらいくらいに荒れている。
……でも、それは予想の範囲内だし、それも込みでフィルムで観るのは楽しいものだ。
だから、わざわざ足を運んでいる。
でも……、肝要なラストで欠落があるのは、さすがにどうなのだろうか?
それがフィルムを逸失したせいなのか、もともと日本上映時に自己規制でカットされてしまったせいなのか、僕は知らない。せめて、これを上映するなら、やっぱりパンフなりHPなりで、「かれこれこういう理由でラストシーンが欠落しております」って、ちゃんと書くべきなんじゃないのかな??
シネマヴェーラの常連さんのあいだでは、日本で使い回されてる現存フィルムは、そういう状態のものだってコンセンサスがもうできあがってて、新参者にはわからないで良いってことなのだろうか。
「上映時間59分」とあって、通常版の64分より5分短いことで察せよ、ということだろうか。
いや、自分も仕事でしょっちゅうミスして、メールでカスタマーからお叱りとかいただくんで(笑)、これだけ良い映画をいつも流してくださるシネマヴェーラさんを責めるつもりは毛頭ありません。
でもこれ、もともと現存版はオリジナル版から30分近いカットがある(すでにカットした部分は永久に喪われたらしい)うえに、ラストに何バージョンかある映画だって知られてるぶん、「残虐シーンをカットしたから、こういう状態になっちゃったのかな」って納得しちゃうファンも、絶対いると思うんだよね。
これからご覧になる皆様は、ぜひお気を付けくださいませ……。
※ ※ ※
映画としての『フリークス』は、きわめて端正でノワーリッシュな復讐劇であり、100年近く昔の映画でありながら、驚くほど古びていない。
むしろ、過去に監督のトッド・ブラウニングがキャリアを絶たれたり、大きな訴訟になったり、イギリスで30年放映が封印されたり、いまだにテレビ放映がなかったりといった、数々の「タブー視されてきた歴史」が不思議に思えるくらい、まっとうで「ポリティカル・コレクト」な映画である。
試みに、これが「フリークス」が主人公ではなく、「黒人」が主人公の「オセロ」的なノリの映画だったり、「ドワーフ族」が人間族にたぶらかされるファンタジーだったりすれば、「同じ筋、同じオチ」の映画であっても、そこまで衝撃を与えもしなかったろうし、叩かれもしなかったろう。
結局は、「見世物小屋」という「光と闇のあわい」で生きてきたフリークスたちを、銀幕に焼き付け公の場に市民権付きで持ち込んだことに、当時の人が拒絶反応を示したということではないか。
もちろん、本作がある種のエクスプロイテーション・ムーヴィーとして成立していることは、否定できない。僕だって、ありし日のミゼットプロレスが大好きだったし、障碍者プロレスの世界を描いたドキュメンタリー『無敵のドッグファイト』(93、天願大介)も封切りで観に行った人間だ。そういう人間にとって、『フリークス』は福音のような映画だ。なにせここに登場するのは小人症の人たちだけではない。ありとあらゆる「名高い」フリークスの皆さんが登場する。ピンヘッド、ハーフボーイ、シャム双生児に、髯女、半男半女……その他、多士済々。博物学的なキャラクター群は、誤解を恐れずにいえば、間違いなく「目に楽しい」。
そこは認めざるを得ない。
でも、これは間違いなく「前向き」な映画だ。
本作に登場するフリークスたちが、その形状の特性を武器に、ショービジネスで大成功を収めてきた超有名人たちであったことを、我々は決して忘れてはならない。
彼らはそれを「天から授かった個性」として、前向きに映画に出演し、その芸と特異性のすごさ、すばらしさをフィルム内でも存分に披露しているのだ。
そもそもトッド・ブラウニングは、若いころ自らカーニバルの世界に飛び込んだという、仲間意識としては明らかに「あっち側」の人間である。彼のフリークスたちを観る目は、どこまでも優しく、驚くほど対等でフェアだ。
作中での扱いにおいても、彼らは血の通った「ふつうの人間」として、ことさら特別視されることなく描かれている。だから、観ていて「今の時代じゃNGだろ、これ」ってシーンが、ほんとに「なにひとつ」ない。
物語の本質にかかわらない部分では、カーニヴァルにおける彼らの日常生活や友情、なにげないやりとりが、愛情豊かに描きこまれる。
天使のような部分も描かれるし、恐ろしい部分も描かれるし、何より人間としての豊かな感情が描かれる。
たしかに、雷雨のなか、馬車の下を無数のフリークスが這い寄ってくる終盤のシーンは映画史上に残る「怖さ」かもしれない。でも、あれは「弱者故の連帯」が生んだ結論であり、「少数者の誇り」故の聖なる反撃である。観客の胸は恐怖に震えると同時に、ついにやってきた処断の時に高鳴りを抑えられないことだろう。
総じて、『フリークス』は、障碍者と健常者が出てくる、ごく当たり前の愛憎のドラマであり、障碍者であることを軽んじた人間が応報の末路を迎える、胸のすくような復讐劇である。
あるいは、弱者を食い物にしようとする強者を、弱者が連帯して対処する、しごく正統な勧善懲悪譚である。
健さんの任侠ものや、必殺や、『狼よさらば』でしびれられる人間なら、これにだって、ふつうにしびれられるはずだ。
もう一点、本作を「ノワール」の先駆と位置付ける視点も、ここでぜひ強調しておきたい。
ファム・ファタル(20年代後半の映画では、この手の悪女は「ヴァンプ」と称された)が登場して、情夫とともに旦那の殺害を計画し、思わぬしっぺ返しを受けるという展開だけを観れば、本作は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(小説は1934、ジェイムズ・M・ケイン)に2年先行する、まごうことなき「ノワールの祖型」に則った作品であり、正しくその「カーニヴァル×ノワール」という要素は、『ナイトメア・アリー 悪夢小路』(小説は1946、ウィリアム・リンゼイ・グレシャム、映画化は今回シネマヴェーラでも上映される『悪魔の往く町』、1947、エドマンド・グールディング監督)へと引き継がれてゆく(ラスト・シーンの因果応報な感じなど、グレシャムが本作を意識しているのはほぼ間違いない)。
諏訪部浩一氏は、ノワール小説というのは、30年代の大恐慌の時代に誕生し、社会的弱者を描いた、そもそもは社会批判的な性格を持つジャンルであったことを強調している。
そう考えれば、『フリークス』はまさに40年代フィルム・ノワールの先駆けといっていい作品なのではないか。
ホラー・ファン、カルト・ファン以外にも、ぜひ機会を見つけて観てほしい映画である。
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