女の叫び(1978)のレビュー・感想・評価
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☆☆☆☆★★ 以前のアカウントにも書いた通り。たまたま暇だったので...
☆☆☆☆★★
以前のアカウントにも書いた通り。たまたま暇だったので観に行ったのに、我が人生に多大なる影響を受けた作品。この映画を観て、、、
「映画ってこんな凄い事が出来るのか!」…と。
以後、完全に映画にのめり込んでしまった。
基になる物語はギリシャ悲劇の《王女メディア》
正直に告白すると、今ひとつギリシャ悲劇に関してはど素人の1人。
元ネタが分かる人には面白味が倍増する話だと思う。
この作品の凄さはその多重構造の濃密ぶりにある。
主人公は、名声を世界に轟かせる女優のマヤ。
(メリナ・メルクーリ自身が大女優であり、ギリシャ文化大臣でもある)
その彼女は新たなる作品に挑戦している。
新しいギリシャ悲劇を演じるにあたって或る女囚に注目し、宣伝に利用しようとする。
メリナ・メルクーリとエレン・バースティン。
演技者としての子供殺し。
実際に子供殺しの女囚。
この2人の関係が先ずは2重構造になっている。
女優の横に常にいるアンナ。
実はその昔。彼女はこの大女優とはライバル関係にあった。
ライバル関係とは言え、今は女優の道を諦めた彼女の方が、昔は女優として何歩も前を進んでいた。
では何故にアンナは女優の道を諦めたのか?
彼女は愛する男の子供を身籠もった事で、女優の道を諦めたのだった。
いや!本当は諦めた訳では無かった。
ところが、アンナがやるべき役柄を演じたのが現在の大女優で、彼女の女優としての成功はこの時がキッカケになっていた。
この2人の関係によって、3重構造の図式が成立する。
実はマヤも子供を授かるのだが。彼女は子供を堕し、女優としての道を選ぶ。
つまりは。子供を殺し服役しているブレンダと、子供を堕し(実質的に)殺した過去があるマヤ。
マヤはブレンダの姿を見るに連れて、次第次第に役柄に憑き始め苦悩する。
マヤとアンナ。この2人が子供を身籠もったその相手の男は誰だったのか?
作品中にははっきりとは明示してはいないのだけれど、舞台演出家で映画監督である彼との関係は?
『王女メディア』に於ける大筋は不貞を繰り返す男への女の復讐が基になっており。
服役囚のブレンダとマヤ。
(あちこちで)不貞をはたらいていた?…と思える監督とマヤ、そしてアンナ。
更に凄いのは。このアンナとゆう女性。
女優としてのし上がったマヤに対して、女優を辞めたのにも関わらずマヤの本読みの相手を務め、絶えず傍にいるアンナ。
アンナは自分の役柄をマヤに奪われた怨みを心の中で絶えず忘れてはいなかった。男を奪われ、将来を奪われた相手の傍に絶えず存在する事で、復讐を続けている…とゆう、その業の深さを露わにする場面の怖さ。
そして何と言っても、クライマックスでのエレン・バースティンにメディアが憑依する魂を震わす名演技。
事ここに至り、4重〜5重構造にも見えて来る複雑な構造には、当時娯楽映画を中心に観ていた自分の脳天をハンマーで叩き割られたくらいに衝撃的だった。
前回、ここで観た時にフィルムの状態が今ひとつだったのを知っていたので、理解はしていたのだが、やはりフィルムの状態はあまりよくなかったのは残念だった。
1980? 旧文芸坐
旧 国立近代美術館フィルムセンター大ホール
2022年2月19日 国立近代美術館フィルムセンター小ホール
※ コロナ以後、ここでの上映が前売り制度に変わり、観に来る事がなくなった。
今回がコロナ禍以降初めてコンビニでチケットを購入。
以前の入場方式が身に付いているだけに、まさかコンビニでチケットを発券した時点で、勝手に座る席を決められているのはつゆ知らず、、、
これならやっぱり、ここでは映画を観たいとは思わないなあ〜ʅ(◞‿◟)ʃ
現実の事件を通して女優が苦闘する、ギリシア悲劇『メディア』のバックステージ演劇映画の真剣さ
社会における女性の使命について、今日、特にアメリカでクローズアップされてきているが、映画で描けるものとはなんだろう。自立した女性の意気盛んな行動を追ったのもいいだろう。男なんて関係ないと、男性顔負けに活躍する女性映画も観ている分には面白い。メロドラマのか弱きヒロイン像に縛られていた従来の女性映画のパターン化した淑女と悪女から、男性優位社会を批判したもの、性差に囚われない人間の生き甲斐をテーマにしたものと変化してきて、それなりに存在価値を示している。しかし、今度のジュールス・ダッシン監督の古風な女性の叫び、その痛烈に語りかけるものが、安易に女性映画を面白がっていた私にとって素直に衝撃的であった。それはエウリピデスのギリシア古典悲劇『メディア』を現代の家庭劇として復活させたダッシン監督の作意が、時代を超えて女性の業に真正面から挑み、女性の思考と行動について真剣に考察した迫力の為である。
演劇『メディア』の主人公を演じる女優マヤは、夫に裏切られて、その復讐の為に我が子を殺害したメディアの“怒り”を表現する。それが演出家のコスタには気に喰わない。私生活にゆとりもあり、既に社会的な名声もあるマヤをメリナ・メルクーリが扮しているが、このマヤはメルクーリ自身であろう。置かれた時代も環境も極端に違って、恵まれたマヤがメディアの本当の苦しみに同化して、演じることが出来るであろうか。ここにおけるマヤの悩みは、女優の仕事に専念する真摯さ故である。ベルイマンの「ペルソナ」のフィルムを上映しながら、女性の表情について暗中模索するマヤのじゃれ事のような勉強。その演劇の世界の中の女優の闘いの前に、実際に起こった現代のメディア事件が浮上する。アメリカ人ブレンダ・コリンズは、幼少期から貧しく不幸な人生を送り教養も無い。初めて知った男ロイ・コリンズと結婚し3人の子供を儲け、夫の赴任地ギリシアに移住してきた。しかし、ブレンダはギリシア語を話せず孤立し、夫にギリシア人女性の愛人が出来ると自身の存在を否定されたようで自尊心が踏みにじられ、憎悪の塊になって行った。このブレンダとマヤが出会う最初の場面が、この映画のひとつのクライマックスである。マヤの女優の職業からくる興味、同じ女性としての関心、そして人間の罪について。マヤのメルクーリとブレンダのエレン・バースティンの視線の交差が凄い。
映画は、野外劇場の演劇『メディア』のリハーサルを主体に、女優マヤの私生活やスタッフたちのバックステージを描くが、ブレンダ事件を現代のメディア劇として扱うマスコミの様子も扱っている。この演劇の中のメディア、演ずるマヤ、メディアに似た事件を起こしたブレンダと、虚実合わさった三人の女性に観る、愛と憎悪の演劇と現実の対比。複雑に絡み合っているが、見応えは充分にあった。ダッシン監督の誠実な映画創作と、メリナ・メルクーリとエレン・バースティンの熱演が素晴らしい。
1980年 2月8日 岩波ホール
女の情念を描いた傑作!
京橋の国立映画アーカイブにて鑑賞。
ギリシャ悲劇「メディア」をベースにした演劇の女優と、妻を裏切った夫の復讐のために3人の自分の子供たちを殺して服役中の女を対比させながら、女の情念を描いたジュールス・ダッシン監督の傑作✨
妻以外の女性を愛してしまった夫への「妻の復讐劇」=「メディア」が、「現代の演劇リハーサル風景」と「子供殺しの女が収監されている刑務所」という異なるシチュエーションで並行させて展開される本作、ホントに上手い構成。
演劇女優をメリナ・メルクーリ、服役囚をエレン・バースティンが演じており、この2人が刑務所の面会を接点として心情を触れ合わすことで、映画に深みを与えている。
本作の冒頭テロップに「イングマール・ベルイマン」表記があったので何かと思ったが、本作中にて『仮面/ペルソナ』を映写して演劇関係者で観るシーンがあった。
映画『ペルソナ』の女性2人をスクリーンに提示することで、本作の2人の女性も気持ちが通じていくようになる……という暗喩に見えた。
本作は、1979年に岩波ホールで公開された時から観たかったが、ようやく観ることができた (^_^)
<映倫No.35353>
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