劇場公開日 2012年12月22日

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「これは現代のフランス映画の停滞を皮肉った作品なのかもしれません。」シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5これは現代のフランス映画の停滞を皮肉った作品なのかもしれません。

2012年12月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 年末年始は、やっぱり1本くらいお腹がよじれるくらい笑える映画が見たいもの。そんな人にお勧めなのが本作です。軽薄だと低評価のレビューが目立つ同作ですが、ぜひ下記の指摘をお読みになったら少しは考えが変わるかもしれませんよ。
 そして以外とラストはちょっぴし感動できるシーンもあったりします。

 天才的な味覚や嗅覚を持っていて、一流店のレシピを全て暗記しているシェフ志望者のジャッキーは、融通のきかない性格ゆえに、次々とレストランをクビになってしまいます。しかも彼の婚約者ベアトリスは臨月を迎えて、不安がいっぱい。仕方なく安定収入を得る必要性に迫られ、ジャッキーは老人ホームのペンキ塗りの仕事を始めます。
 ここでも本領発揮してしまい、老人ホームの厨房でズケズケと料理を指導し、老人たちには気に入られます。文句を言おうにも自由に喋れない老人の方が素直にジャッキーの料理の才能を発揮するのに相応しかったのかもしれません。
 ジャッキーは、仕事そっちのけで老人ホームの調理のほうに毎日没頭してしまうのですね。

 一方 20年間、三ツ星を守り続けてきた超有名レストランのシェフ、アレクサンドルは、新メニューのアイデアがまったく浮かばずスランプ中。もし星を落としてしまったら、他店へ左遷するとオーナーに告げられて焦っていました。
 そんな時、たまたま老人ホームにやってきたアレクサンドルは厨房にあったスープを一口飲み驚愕するのです。なんとそれはかつて自分が考案したレシピそのもの味が再現されていたのでした。

 アレクサンドルは早速それを作ったジャッキーを呼び出し、店にスカウトします。問題は、見習い期間中は無給だと言うこと。内緒にしていたベアトリスにそれがバレてしまい、怒った彼女は実家に帰ってしまいます。

 ここからストーリーは三つ星レストラン復活作戦と、ベアトリスとの復縁作戦。そしてアレクサンドルにも生まれる新しい恋と3つの話しが同時進行していきます。
 面白いのは、プライドの高いアレクサンドルと全くKYなジャッキーの関係。当然些細なことでもぶつかりながらも、互いを必要としていることはわかっていて協力せざるを得なくなるのですね。そのギャップが可笑しさを醸し出していました。
 特に可笑しいのは、ミシュランの調査員が分子料理に関心が高いと知ったふたりは、ライバルのシェフの分子料理の店に正体を隠して、下見に行くシーンです。
 ここでは何とふたりは日本人化けたつもりになっていて、片言の日本語を並べるのです。その意味のなさが日本人にはよく分かるので余計に可笑しくなります。しかも衣装がサムライとゲイシャの出で立ちになっていたのでした。
 なんで、こんな設定になったのかというと日本通のジャン・レノが撮影に入る直前に思いついたのだそうです。ご本人はオペレッタ風で面白いだろうと悦にいっていたのだけど、レノちゃんこれはちょっとやり過ぎでしょう、これは(^^ゞ侍姿のジャン・レノが松平健に見えました。
 試験管から生まれるような“科学的な料理”は、食べると気体が口から吹き出し、キューブ型の形状といい。現職の色合いといい、宇宙食よりもまずそうな料理です。それをミシュランの調査員がもてはやすのはなぜなんだろうと思いました。現代の科学技術や新しいもののみをもてはやす風潮に対しての揶揄であることは想像がつきました。でもそこからこんな考えが浮かんだのです。

 コーエン監督は、本作を通じて、停滞気味のフランス映画への批判を訴えたかったのではなかったかということです。アレクサンドルや星にこだわる評論家たちは、伝統のスタイルにしばせられて、面白さを失っているフランス映画の現状への批判の象徴として描かれているのだと思います。
では、ジャッキーは何かというと、婚約者にも逃げられるほど好きなことに没頭して大切なことが見えなくなってしまう、映画バカな自分に対しての自嘲なのだろうと思います。
 さらに分子料理は、伝統に対抗するアート系や前衛系の映画作品への批判。新しい表現方法に走るあまりに奇天烈な表現になってしまっていることへの皮肉なんでしょうね。あるいはCGなどのハイテク化していく撮影方法への風刺という意味合いも混じっていることでしょう。

 ではコーエン監督にとってフランス映画はどうあるべきものだというのでしょうか。そのヒントは本作のラストにありました。
 ミシュランの調査員がやってくる店の存亡がかかった日だというのに、アレクサンドルはシェフの座をジャッキーに譲ってまで、愛娘の就職試験の送迎を買って出ます。久々に焼いた朝食のパンの味に感激する娘を見て、アレクサンダーは、自分の料理人としての原点を思い出すのでした。それは誰かの喜ぶ笑顔のために料理の腕を振る舞うことでした。それが料理人としての名声を得ていく中で、いつの間にか、お客様の笑顔よりも、自分の名声とプライドを満たすことばかり考えて、料理がどんどん守りの調理になっていったのでした。
 同様に、フランス映画もいつしか観客が心から楽しめる映画というのを忘れてしまい、むしろ観客に容易に理解されない奇天烈な作品のほうが高尚なのだという評価が一般的になってしまったのではないかということがコーエン監督の言いたかったことでしょう。アレクサンダーがシェフの座を捨てて、娘を喜ばすパンを焼いたのと同じように、映画もまた観客を楽しませるエンターテインメントに帰るべきはないか。そんなコーエン監督の映画愛を本作から感じました。
 そして本作のハッピーエンドは、フランス映画にもまだまだ希望はあることを物語っているようにも見えてきます。誰にでも過去の過ちはあります。でもアレクサンダーのように、それを素直に認めればやり直すことだってできるのです。スクリーンから離れていったひとでも、再び呼び戻すことができるんだと思えるような、心暖まる結末でした。

流山の小地蔵