「見ることの不確かさ」ブレイクアウト ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
見ることの不確かさ
冒頭、カイルが仕事部屋にサラを入れようとしないシーンにおいて、サラの姿はすりガラスの向こうでぼやけており、まるでモザイクのようになっている。
続いて、強盗が押し入るシーン。インターホンのモニターには警備会社のバッジが見え、カイルはそれを見たばかりに、顔も見えない人物を信用して家に入れてしまっている。
そして、サラに惚れている男がカイルを監視している時、男はカイルの持つ大量の金を見て「金庫の中」に金が入っていると勘違いしてしまっている。
カイルはその男とサラが浮気していると思い込み、サラが強盗とグルではないかと思っているが、そう勘違いしたのは、監視カメラが撮影した写真という、部分だけを抜き出した不確かな物を見てしまったからだ。
そして、何とか男を説得しようと、男に密着して話しているサラの姿をすりガラス越しに見たカイルは、その不確かなシルエットだけで、サラと男がデキていると、妻に対してより大きな不信感を抱いてしまっている。
仕事部屋のドアが「すりガラス」なのは、見ることの不確かさにより夫が妻へ抱く不信感を、サラの姿をぼかすことで視覚的に表すためだ。
何より、メガネを失くしたカイルがぼやけた視界で必死にサラの姿を探すシーンで、見ることの不確かさ、困難さを描いた映画だというのはすぐに解る。
そうでなければこんな、横山やすしのギャグみたいなシーンをわざわざ入れるはずがない。
物語的に考えると「嘘」が主体のように見えるが、間違いなく監督は上記の「見ることの不確かさ」をテーマに撮っている。
そして、この映画は誰も家から出ない。出られない。
普通なら、あれだけのミスをしたのだからさっさと家主を殺して次の金持ちそうなターゲットを探せばいいものの、強盗達は様々な理由で、この家に「閉じ込められて」いる。
パーティーの金持ちから金を取り上げようと、エイヴリーと女が車で出て行くシークエンスにしても、女は愛する男のために、家にまた「戻らざるを得ない」ようにしており、娘に関しても助けを呼んだり、逃げたりなどせず、さも当然というように「家」へ戻っている。
ちなみに、エイヴリーの顔が決して美人だと言えないのも、エイヴリーがモテるという話で強盗の女を怒らせて、道路ではなくエイヴリーに注意を向かせ反撃するという、このシーンを撮るためだろう。
そうでなければ、もっと綺麗な女優を使うはずだ。
なにしろ母親役がニコール・キッドマンなのだから。
この映画は、徹頭追尾そうした思考回路で撮られている。
舞台にしても、この豪邸が存在している限り、登場人物たちは家から出て「自由」を手にすることが出来ない。
だからこそ最後、カイル達が自由になるために、この豪邸は燃えるしかない。
そういうふうに撮られているのだ。
話は変わるが、この映画はよく地面が出てくる。
座るため、倒れるため、這いつくばるために。
まるで地面(床)を主体として撮られているかのようだ。
わざわざガラスを割ったのも、床にガラスを敷き詰め、その上でアクションをさせるためだろう。
特にカイルの地面接着率といったら半端じゃない。
脅迫され、殴られ、テーブルに寝かされ、何度カイルは体を「横」にされただろう。
椅子に縛り付けていたって、仕事部屋にソファか何かを設置して、そこにずっと座らせていたっていいのだ。
椅子に座らせるのもしばらく後になってからであるし、そのシークエンスも長くはない。
ある程度カイル達が自由なのは、カイルに「背中を上にして」横たわらせるためだ。
この映画における、自分の胸を下にした「うつ伏せ」の体勢とは、「自分の身を自分で守っている」という隠喩に他ならない。
逆に言うと、うつ伏せになっていれば殺されないという事だ。
なぜ強盗のつく嘘をわざわざ胃や肝臓ではなく「腎臓の移植」にしたのか。
それは、カイルをテーブルの上で「うつ伏せ」にさせるためである。
なぜうつ伏せなのか。それは「映画の途中で主人公を死なせない」ためである。
あのシーンが「胃の移植」で、仰向けだったとしたら、主人公はあそこで腹を切り裂かれていただろう。
ちなみに、最初にうつ伏せになるシーンでは、咄嗟に妻の手をギュッと握る。
カイルは「家族」を求めている。
だが、その繋いだ手は、強盗によりすぐに引き離されてしまう。
このシーンがあるのも、家から解放され、これまではほとんどうつ伏せになったりうずくまるしかなかったカイルを「仰向け」に寝かせて休ませ、その体の上に「妻と子を揃って」横たわらせるラストのためである。
その直前のシーンのガレージでも仰向けになっているのは、妻が寄り添い、自分の体が「守られて」いるからだ。
家族を命懸けで守った男は、家族に自分の胸を守られながら、ようやく仰向けで休むことを許される。
カイルがこの後、死ぬことは無いだろう。
彼は家族に「守られて」いるから。
そして、映画は唐突に終わる。
以上の僕の考察が合ってるかは分かりませんが、少なくとも僕は駄作だとは思いません。
夕焼けや、車の窓に反射する木々の影など、とても良く撮られていると思いますし、俳優達もきちんと、特にニコール・キッドマンはとても美しく撮られていると思います。
なぜ、ハリウッド映画で描かれる「強盗」はミスをしてはいけないと思われているのでしょうか。
映画に強盗=プロというルールがあるとでも言うのでしょうか。「悪い人」は極悪非道じゃないといけないとでも言うのでしょうか。
なぜ「サスペンス」というジャンルに縛られると、あっと驚く展開という「物語」のみで映画が評価され、画面に映る「人間」は見られないのでしょうか。
それは、これまで自分が観た「ハリウッドのサスペンス映画、ミステリー映画」との紐付けでしかないと、僕は思います。
この作品を「映画」として評価しているとは思えませんし、ただただ、観る側の先入観により、この作品が不評になっているようにしか思えません。
もちろん、大傑作などということは無いですが、僕は断然支持します。