劇場公開日 2012年9月7日

踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望 : インタビュー

2012年9月5日更新
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亀山千広氏が語り明かす「踊る大捜査線」総括

国民的人気シリーズとして、日本実写映画興行収入記録を樹立した「踊る大捜査線」シリーズが、「踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望」をもって完結のときを迎える。テレビドラマの放送が開始された1997年から15年。シリーズの生みの親と言っても過言ではないフジテレビの亀山千広エグゼクティブプロデューサーが、今作の見どころはもちろん、これまでの全てを総括すべく映画.comに語り明かした。(取材・文・写真/編集部)

フジテレビ入社は五所平之助監督の助言がきっかけ

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亀山氏がフジテレビに入社したのは1980年だが、早稲田大学政治経済学部在学中は無類の映画好きで配給会社への入社を希望していた。しかし、亀山氏が生まれ育った静岡・三島で晩年を過ごしていた「マダムと女房」「新雪」「挽歌」の五所平之助監督(当時は日本映画監督協会理事長)の書生を務めたことが、その後の運命を大きく変えることになる。

「夏休みに帰省した際、知人から五所先生を紹介してくれると言われたんですが、なかなか会ってくれなかったんです。それで、『だったらこちらから行くよ』と言って訪ねて行ったんですが、それでも会ってくれない(笑)。でも、そのうち出てくるだろうと思って、文庫本を日陰で読みながら待っていたんです。それから3日後くらいですかね、『中へ入れ』と言ってくださったのは」

五所監督の書斎へと通された亀山氏は、本棚の整理から庭の掃除、犬のエサ作りなど雑用に追われるようになる。「まさに書生ですよね。犬のエサにしたって、近所の肉屋さんに取りに行ったスジ肉で作るわけなんですが、食べないわけですよ。だから甘くしてみたり工夫するわけですが、それでも食べない。そうすると先生が後ろに立っていて『ほらみろ、心が入っていないものは犬も食べないんだ。そんな人に映画は撮れません』と言って、ふーっといなくなるわけです。『ちきしょう、このオヤジ!』と思いましたね(笑)」

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そうは言っても、きっかけはどこに転がっているか分からない。「先生は当時、監督協会の理事長さんで若い監督をかなりかわいがっていて、東京から訪ねて来るわけです。その中には大島渚さんや若松孝二さんがいたんですが、僕からしてみれば話ができるわけもないじゃないですか」と懐かしむ。そしてある日、「五所先生に師事するグループが劇映画を作るから、そこに製作進行で入れということになったんです。独立系の映画でしたが、降旗康男監督の作品でした。そういうルートが出来ると、演出家さんやカメラマンさんたちから『CMの撮影があるから手伝いに来てくれ』と言われるようになって、バイトの話がばんばん入ってくるようになりました。盆暮れと夏休み、冬休みで三島に帰ると、その都度2週間くらいは先生のところへ行っていました」。

時おり笑みを浮かべながら話す亀山氏は当時、いまの自分の姿を想像することができたのだろうか。「就職するときに、映画会社かスタジオをご紹介いただけませんかと言ったら、『今日は気分がいいから外へ行こう』と喫茶店に連れて行ってくれたんです。そこで『映画はダメだ、テレビ局へ行け。テレビ局の方が教わることが多い』と言われたんです。えーっ!と思いましたよ」。

五所監督の助言をきっかけに、就職の日参が始まる。「当時は学校推薦制度というのがあって、今みたいにオープンエントリーじゃなかったので、早稲田からフジテレビには60人しか受けられなかったんですよ。“優”の数は優秀な学生と比べたら少ない。成績で考えたら60人に入れるわけがないんです」。そのため、自らを猛烈に売り込んだそうで「自分をこの60人に入れてくれって頼み込みました。その時ですね、初めて自己プロデュースを勉強したのは」と清々しい表情で笑う。

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インタビュー2 ~亀山千広氏が語り明かす「踊る大捜査線」総括(2/5)
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