「恥の上塗り」SHAME シェイム 12番目の猿さんの映画レビュー(感想・評価)
恥の上塗り
物には満たされている筈なのに、どこか満たされないという矛盾を抱え、緩慢な息苦しさに苦しむ若者が自傷のような快楽にひた走る『SHAME』は、暴力を性に置き換えてはいるけれど、根底にはファイトクラブに通じるものを感じた。
大筋は、NYで働くセックス依存症のヤリチンエリートのブランドン(マイケル・ファスペンダー)のアパートメントに、男に激しく依存しリスカ癖まである妹・シシー(キャリー・マリガン)が転がり込んできて、兄妹が一緒に過ごす中でお互いの恥部を晒してしまうというものだ。妹にオナニー見られたり、妹の超依存体質を電話で知ってしまったりと、SHAME=恥という題名に偽りのないほど鑑賞中は赤面しっぱなしになってしまうのは間違いない。相原コージの『一齣マンガ宣言』のあとがきで、庵野秀明がオナニーを見られることは最高の恥辱であると書いていたけれど、そこんとこの恥ずかしさは万国共通なのだろう(話は全く変わりますが、モンゴルのゲルで暮らしてる少年達ってオナニーどうしてるんですかね?)。しかし、恥ずかしいのはあるあるでいいとして、セックス依存症は何が悪いのかという疑問が生じる。有名どころではタイガー・ウッズなんかがセックス依存症で問題になったけれど、いってしまえばあんなのは性欲が旺盛なだけだと言い換えることだってできるのだから。けれど、そこに本人が苦しんでいる、社会生活に支障が出ているという側面を当てはめたらどうだろう。そしてこの物語の主人公ブランドンは間違いなく苦しんでいる。いや、苦しんでいるというか、何か悶絶している。ブランドンはオナニー&セックスライフを満喫していると思いきや、本命を前にするとドラッグをキめても勃たないし、悶々を我慢できなくて会社のPCをウィルスまみれにしてしまう。さらに、マイケル・ファスペンダーの悶絶の演技によって、その苦悩には説得力が帯びるのである(まったく、『センチュリオン』での拷問シーンといい、『X-MEN ファーストジェネレーション』での能力発現シーンといい、実に苦悶の表情がよく似合う役者だ!)。ファスペンダーの、まるで自傷行為を思わせるような性行為の演技は、決して観客に「リア充め」などとは思わせず、障害としてのセックス依存症を苦悩の深さ理解させてくれる。
この映画は決してオナニーを見られて恥ずかしいから『SHAME』という訳なのではない。死期が近い母からの留守電に出ようとしないブランドン、映画の後半に「私たちは悪人じゃない。悪いところにいただけ」と兄に語りかけるシシー、劇中では明かされないが、愛を拒絶する兄と激しく求めようとする妹の生き方は、二人の深淵にある闇を伺わせる。二人の本当の恥部を隠すための片鱗としてのSHAME。見えないからこそ、その背後に潜む何かのおぞましさにただただ圧巻されてしまうのである。