劇場公開日 2023年3月2日

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「グルジア、パリ、そして再びジョージア。イオセリアーニ監督の「半自伝的」な半生記。」汽車はふたたび故郷へ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5グルジア、パリ、そして再びジョージア。イオセリアーニ監督の「半自伝的」な半生記。

2023年3月16日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ラストはちょっとびっくりしたなあ。
そりゃ、配給元も「半自伝的」と銘打つわけだ。
これが本当だったら、大変だもん(笑)。

イオセリアーニ映画祭11本目にして、初めて「ちゃんと主人公がいて、かつ一貫した筋のある」映画にあたりました。
グルジアの地で、少年期から映画に魅せられ、やがて映画監督の職を得るも、検閲にひっかかり、ついに故郷をあとにしてパリへと移住する青年。
だが、商業主義にまみれたパリの映画界もまた、彼にとっては決して居心地のいい場所ではなかった。そして、「汽車はふたたび故郷へ」。舞い戻った故郷で彼が体験したこととは……?

ついこのあいだも、かなりヤンチャで脱法的なシネフィル児童たちが、廃墟に不法侵入したり平気で泥棒したりするインドの映画を観たばっかりで、話が被りすぎてて思わず笑ってしまったが、意外にグルジアとインドは文化的に離れていないのかも。
子どもと犯罪、子どもと酒&たばこの距離がやたらに近い(笑)。

ただ『エンドロールの向こう側』の貧困に喘ぐ子どもたちと違って、こちらの悪ガキ三人組は制服を着て私立と思しき学校に通う、いいところの子どもたちだ。
マッチョマンのお父さんは、どうやら有力な政治家らしいし。
などと思ってたら、歩く三人の子どもの後ろ姿に、そのまま大人に成長した姿がオーバーラップして、早々に少年篇終了(ここの処理はイオセリアーニらしくないダサさだったw)。

三人組は、主人公と、妹と、親友。
ちょっとヌーヴェル・ヴァーグっぽい取り合わせだが、
実際、他の作品よりトリュフォーを意識してるっぽいショットが多い気がする。
マッチョパパのコネでもあったのか、若くして監督業についている主人公ニコ。
映画の冒頭では、三人組が三人だけの初号試写を行う(これまたヌーヴェル・ヴァーグっぽい)シーンがあって、そこで流されるのがこのあいだ僕もこの映画祭で観た『珍しい花の歌』。やはり、ニコはイオセリアーニの分身なのだ。

仲間たちと映画づくりにいそしむニコ(ここもトリュフォーの『アメリカの夜』みたい)。撮影現場(教会?)にはイコン(聖画)を盗んだ少年時代のニコたちを怒っていたアル中の肥った神父もいる。
だが、こだわりの末にスケジュールを大幅に遅らせてしまったニコは、編集権をとりあげられてしまう(このときのニコの対処法は、半グレすれすれである。けっこう他の映画でも、イオセリアーニって「ノンシャラン」とか言いつつ、悪いこと登場人物にやらせることに抵抗感あんまりないよね)。
その後、なんとか完成させた映画だったが、けっきょく当局の検閲にひっかかって非公開に。
(このことについて、イオセリアーニがパンフですげえ面白いことを言っていて、「でも検閲が本当に厳しかったとは言えないかもしれません。公開禁止処分になったとしても、体制は映画作家を尊敬していたのだと思いますよ。上映禁止になる前に、映画を完成させてくれたのだからね」ですって。言われてみれば、たしかに!)
こうしてニコは、しだいに追い詰められてゆく。
一人の親身になってくれている検閲官がうながす。
「国を出なさい。そのほうがいい」

伝書鳩とチェロの愛器だけをもって、パリの地へと赴くニコ。
(後で出てくる伝書鳩通信のシーンは、現実に非現実的要素をさらっと織り交ぜてくる、いかにもイオセリアーニっぽいお遊びというか韜晦趣味ではあるが、「通常の手紙・電話はすべて検閲・盗聴されている」という厳然たる事実を強調する仕掛けでもある。)
祖父の伝手で、老夫婦の家に居候することになった彼は、さまざまな仕事につきながらも映画製作の道を諦めない。
やがて登場するプロデューサーは、なんとピエール・エテックス!
(『皆さん、ごきげんよう』で出てきた胸にバッチをつけてるアコーディオン弾きがエテックスだったことは、後からパンフを読んで知ったが、今回は俺ちゃんと気づけたよ!)
さぞ、今度こそとんとん拍子でうまくいくのかと思いきや……。
またもグルジアに続いて繰り返される、編集権の剥奪。
なんとか奪い返して完成させたものの、試写は地獄のような大失敗。
ひえぇええ、心が痛い。
ブルックナーの交響曲第3番の初演とか、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の初演の話を思い出す。昔の客って、ある種の意志表明として「退席」して否を突きつけてたんだよなあ。こわいこわい。
とはいえ、おそらく『落葉』か『田園詩』にあたる(グルジアから秘密裡に持ち出された)フィルムを観て、その才能を認めて監督をまかせた若造のつくってきた映画が、『白黒映画のための七つの断片』(犬のシーンが出てくるのでおそらく間違いない)だったとすれば、プロデューサー・サイドの怒りも分からないでもないけど(笑)。

で、またも夢に破れたニコは、ソヴィエト崩壊でいまはジョージア共和国となった母国にいったん帰国することを決めるのだが……。
(イオセリアーニ自身は『白黒映画のための七つの断片』が酷評されたわけではなく、次の長編『月の寵児たち』では成功を収めているし、その後『群盗、第七章』をジョージアで撮っているのも、別に都落ちしたというわけでもなさそうなので、必ずしも彼の実体験に基づく話ではないのだろうとは思うが、別のシチュエイションで実際にこういうことがあったのかもしれない。)
ここで面白いのは、ソヴィエトによる検閲・発禁処分と同じくらいの否定的な扱いで、四方主義社会におけるプロデューサーの専横や商業主義にダメ出しを食らわせているところだろう。
結局、イオセリアーニにとっては「自由な映画製作」と「監督自らの編集権」を阻害する権力は、共産党も資本家も変わらず、みんなまとめて「敵」なわけだ。

総じていうと、正直ニコはあまり共感性の高い主人公ではなく、むしろ回りが迷惑しているのが手に取るようにわかるので(笑)、きっとイオセリアーニもこういうとこあるんだろうなあ、とは思わざるをえなかった。
こだわりが強くて、スケジュールが押してもやりたいようにしかやらない依怙地な上司・同僚って、ほんと面倒くさいよね……でも、そういう人だからこそ良い映画が作れるんだともいえるんだけど(ただし、そういう人じゃないと良い映画は作れない、というのは間違ったロジックだ)。

監督いわく、原題の『Chantrapas』というのはフランス語由来のロシア語で、「(イタリア歌曲を)歌えない子供」という意味から転じて、「役立たず」「除外された人」という意味をもつ言葉らしい。
なるほど、これは「半自伝的」な「映画監督」の映画であると同時に、彼がこだわりをもって撮り続けてきた「はみ出し者」の孤独と栄光の映画でもあるわけだ。
そして、ジョージアからは強制的に切り離され、かといってパリの都市文明にもなじみ切れない「根無し草」を、最大限の共感をもって描く苦い「望郷」の映画でもある。

さらに、これがイオセリアーニにとっての「青春の物語」――彼なりの「シュトルム・ウント・ドランク」運動だったと考えれば、この得体の知れない不穏なラストも多少は呑み下せるというものか。

じゃい